株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 刀根義明氏 | |
生年月日 | 1953年5月28日 |
プロフィール | 東京都渋谷区に生まれる。学習院大学卒業後、サッポロビール株式会社に入社。東北、名古屋、東京、北陸などで、計34年間主に飲食店向けの営業に携わる。首都圏本部長を最後に、株式会社サッポロライオンに入社。2012年春、現職の代表取締役社長に就任する。 |
主な業態 | 「銀座ライオン」「ヱビスバー」「かこいや」など |
企業HP | http://www.ginzalion.jp/ |
1960年代の渋谷はどのような街だったのだろうか。戦後急速に再生する都市部のなかにあって、渋谷もまた急激に姿を変えていったことは間違いない。刀根がこの街に生まれたのは1953年5月28日。父は食品業界の会社に勤務するサラリーマン。4歳離れた弟とともに刀根はこの街で成長する。
当時の遊びといえば野球と相場が決まっていた。刀根も文字通りの野球小僧。いまではバットを振るスペースもないが、当時はまだ少年たちがボールを追いかけるだけの広場があちらこちらにまだ残っていたのかもしれない。
野球に没頭する一方、小学校から学習院に通う秀才だった。本人は単に「エレベータに乗せられただけ」というが、なかなか合格できないのは明らかだ。
小学生時代は昼休みや放課後の時間を野球やドッジボールなどで費やすスポーツ小僧であった刀根だが、中学生になるとテニスに転じた。野球が好きなのは変わりなかったが、「団体戦ではなく個人戦もやってみたい」との思いから中学の部活ではテニスを選んだ。みためは爽やかでかっこいいイメージのテニスは、いざやってみるとハードなスポーツ。練習もきびしかった。それでも13歳の刀根は、日が暮れるまでひたすらコートを駆け回った。
一方、勉強もやればできるのだが、こちらはそれほど熱心になれなかった。そんな刀根に転機が訪れたのは中学2年の時。いままでとはタイプの違う先生と出会ったからだ。
「英語の先生だったんですが、教え方が巧かったんでしょうか。だんだん勉強がたのしくなってきたんです。すると友達のタイプもかわって。けっしてガリ勉じゃなかったけど、地理とか歴史も好きになって」。成績がグングンあがる。英語塾にも通いはじめた。この多感な時期に「やればできる」ことを体験したのは、大きい。コートを駆けつつ、机にもちゃんと向かいはじめたことも含めて。
せっかく机に向かいはじめたはずの刀根だったが、高校時代には興味の対象が広がり、勉強どころではなくなった。高校に進学してから、やはり野球をやりたいと思い野球部に入学した。ところが高校1年の夏、腰を痛めてしまい激しい運動をすることを禁じられた。これまでスポーツ小僧だった刀根が、文化部に転向したきっかけであった。
スポーツができなくなった刀根は、「何かやらなければ」と思い、いとこにギターを教えてもらった。これが刀根が音楽にはまった始まり。一度、これだと思えばのめり込むタイプなのだろう。高校1年の冬には自分でフォークソング同好会を立ち上げ、オリジナルで作詞作曲し、学内でライブを開催、コンテストにも出場するなどソロで演奏、一人マイクに向かって謳いあげた。
「あるコンテストでは有名な作曲家である審査委員長から『曲がいい』とほめていただきました。もっともギターのテクニックは酷評されたんですが」と言って目を細める。少年の、小さな、しかし本人にとっては大きな挑戦だったのだろう。そのシーンは記憶のなかでいまも鮮明に残っている。
その一方で、「鉄道オタク」の面も持っていた。現役を引退する蒸気機関車に深く哀愁を感じ、「鉄道研究会」に入部する。「動いているうちに写真に収めたい。心に焼き付けたい」と高校を卒業するまで北海道から九州まで、さまざまな場所へ写真を撮りにいった。
大学生になっても「遊び」に熱中した。ツーリングが好きで、オートバイを駆る連中と仲良くなった。750tの大型バイクの背にまたがった。高校時代に覚え、一番興味を引いた「遊び」がある。麻雀である。「麻雀を通して、さまざまな人生を観た」と刀根。当時の自身を「さすらいのギャンブラーだった」と笑いながら話す刀根は、麻雀だけでなくパチンコなどもよくやったようだ。
またアルバイトにも精を出した。高3からはじめたテレビ局での仕事は、なかでもいちばん長く続けたアルバイトである。「歌番組などの公開収録時の案内役もしました。芸能人にも会えるし、とにかく楽しくて5年もやりました」。
ほかにも10種類以上のアルバイトをし、さまざまな業界を経験する。公衆電話の料金の回収をしたり、国立競技場でホットドックを売ったりもした。
学生らしいといえば学生らしいのだが、アルコールの話が出てこなかった。サッポロビールという就職先を考慮すると、てっきりビールなどが大好きなのだと思っていたのだが。念のためお酒についても伺った。
「大学2年の時に、ビールをしこたま飲んで足腰が立たず、みんなに担がれて学生寮に運ばれた苦い経験があります。これでビールがトラウマになっちゃうんですね。けっして飲めないわけじゃなかったんですが」と意外な答えが返ってきた。
刀根の大学時代のあだ名は「キュウリ」だったそうだ。青白くて痩せ細っていたからと刀根は笑うのだがどうなのだろう。パーマをかけた髪を長くのばし、楽器をやり、スリムなGパンが良く似合った。周りに女の子がたくさんいても不思議ではない気がする。ただ、刀根は「さすらいのギャンブラー」らしく違った意味で人生の淵を歩いていた。
「バイトも音楽も楽しかったんですが、バイトのない日は、朝からパチンコです。打ち止めにして、夜は夜で友人たちと麻雀。一晩中、卓を囲んでいました」。
自堕落な生活が永遠に続く、そんな気もした。
「徹夜でマージャンでしょ。朝帰りになるんですよ。すると駅に向かうサラリーマンたちとすれ違うんですね。ある日、さすがにこのままではヤバイと(笑)」。とはいえ、いったんのめり込んだ世界だ。そう簡単に断ち切れるものなのだろうか。刀根は、新たな興味の対象を探すべく、とあるサークルに参加しようと決意する。大学3年のことだった。
「ちょうど、新入生の勧誘があったんです。それで新入生に交じって、あるサークルのトビラを叩きました。でも3年でしょ。みるからにトウが立っていたんです(笑)」。
「それでちょっと待ってくれということになり、1日待たされたんです」。
「あとで聞くとサークルのメンバーの大半が女子なんです。女の子目当てに入会する、そういうのが結構いたらしくて、私もそうじゃないかって警戒されたそうだんです。こっちはそんなつもりはぜんぜんないから誤解されただけで不愉快なんですが、部長がいい奴で。入部を認めてくれたんです」。翌日、入部が決まった。「心理学研究部」、それがサークルの名称だった。
これまで接点のなかったタイプのメンバーたちとの交流は楽しかった。「みんなで飲みに行くのが楽しみになったのはこの頃から。ビールも飲めるようになりました」とのこと。サークルに参加したことで学生本来の生活に戻ることができた。ちなみにサークルで行った研究発表のテーマはやはり麻雀における心理学だった。チーピンも、キューピンも研究対象となった。「おかげで人を見る洞察力がついた」という。4年生。宴の時間はもうわずか。就職が待っていた。
就職戦線の時期が迫ってくる。「当時はオイルショックという就職難の時代でした。私はある広告代理店に入りたくて、最終審査まで進んだんです。そこで『われわれの世代と日本』という題で論文を書かされて、これがダメだったんでしょう。通らなかった。いちばん行きたかったんだけどね。ほかにも4社受けて、そちらは全部合格。食品関係はやっぱり安定しているだろうとサッポロビール株式会社に入社することに決めました」。
食品関係に勤める父の影響も多少はあったはずだ。それはともかく就職難の時代にもかかわらず5戦して1敗とは好成績だ。
落ちた広告代理店も、業界ではトップクラスの企業である。ともかく13名の同期と共に刀根のサッポロビール時代がスタートする。
34年間いた計算になる。まず仙台、福島、青森と周り東北に9年、東京に15年、名古屋に8年。最終的には首都圏本部長となり、一都四県を統括することになるまでになった。そして57歳にしてグループ会社である「サッポロライオン」へ異動となった。
「いままでは、メーカーセールスとして飲食店や酒販店など相手の軒先(店頭)にいかにサッポロ製品を多く並べてもらえるか、また注文をいただけるかに奔走しておりました。それが今度は、自分たちで直接お客様にビールを飲むことの楽しさや豊かさをアピールすることのできる自前の基地を持ったわけですから、独自の戦略も立てられます。やり方が変わり戸惑う部分も多いですが、今までにさまざまな飲食店様にコンサルティング・セールス活動を通じて関わってきたわけですから、そのノウハウを十分に活かせるとも考えました」。
刀根はそういうが、飲食の経験はゼロ。マネジメント一つとっても違いはなかったのだろうか。「たしかに昔のようにすべて自分でやる、という姿勢でいたらできなかったと思います。しかしサッポロビール時代に人を信頼し任せる、それによって自分も周りの人も成長するんだ、と学んでいましたから。その信念でいまも現場の主役は現場、私は経営の舵取りとマネジメントに徹しています」。
サッポロビール時代、何人ものスタッフ、部下をこの信頼することによって成長に導いてきた自信がある。またそれを通じて事業を拡大させた経験もある。だから、何より大事なことは事業戦略云々ではなく、企業は「人」だと言い切ることもできるのだろう。34年の月日をかけ、いちばん学んだことは人を信じることなのかもしれない。
刀根を船長にしてこの春、新生「サッポロライオン」がスタートした。
経営者としてやりたいことはいくつもある。「既存の大型ビヤホール」の強化、「コンパクト化したビヤホール」や「ヱビスバー」「北海道系ご当地飲食店」の展開もその一つ。まだまだ店舗により凸凹がある業績の平準化も実現していかなければならない命題だ。スクラップ&ビルドを進めながらも、「そう簡単にスクラップはしたくない。一度店を開いたら、それがお客様との約束だから」と思いを語る。こういうところに刀根の性格が良く表れている気がする。
「迷った時には、お客様の視線に立ってものをみるようにしている」という。「そこに視点を置くことで答えが見えてくるんです」。
「ライバルは同業他社の競合だけではない」と刀根。「家飲みや中食といったカテゴリーとの戦い。むしろこれから真のライバルはこちらになってくると思うんです」。市場はたしかに縮小し、その中身も大きく変わってきている。銀座に日本初のビヤホールができたのも、100年以上前のこと。サッポロライオンもこの長い年月を経てきた。
変化する周りの環境にどう溶け込むか。その一方で、時代がかわっても守るべきこともある。老舗の企業だけに、この相反する課題にも応えていかなければならない。
「サッポロライオンは、ご来店いただいたお客様全員に、外食することの楽しさを感じていただき、満足してお帰りいただく店作りを日々考えています。そのために大事なことは料理であり、サービスであり、雰囲気であり、そしてそれを最終的に作り上げるのは、人なんです」
人についても話を伺った。
「今後外食事業も、通信販売事業や宅配事業などといったものが大きな競合となり、軒下での競争に進化していくという気がしています。仮にそういう時代がきても私たちが生き残るためには、ライオンの生ビールが飲みたい、ローストビーフが食べたいと思っていただける為の、更なる品質向上に努めていかなければならないと考えています。この価値を高められるのは人なんです。現状に満足することなく進化を求め挑戦する人。人が好きで人の喜びを自分の喜びのごとく感じられる人。自分の思いや外食することの楽しさを伝えたいと考えている人。さまざまな夢や考えを持った人が集まり、語り合い、常に明るく笑顔で働くスタッフの集合体がサッポロライオンという会社でありたいと思っています」。
「サッポロビール」という時代を超えた老舗メーカーで育ち、いままた「サッポロライオン」という歴史と価値ある会社のかじ取りを任された刀根。その目線は何年先まで見通しているのだろうか。
余談だが、大学時代の話。何かをしたくて、自分をかえたくて、参加した心理学研究部。恋愛論、夢分析、いま思えば照れ臭くとも真剣に行ったロールプレイング。
サークルが終わると、みんなで店に出かけた。先輩たちがキープしたボトルをひっぱりだしウイスキーも飲んだ。いつしかビールもうまいと思うようになった。人と関わり、会話し、流れていく大人の時間。そのすべてが一つになって、たのしいと思った。それはとりもなおさずサッポロライオンがめざすことと一致する。
「外食に携わる私たち一人ひとりが「楽しさ請負人」です。お客様だけでなく、従業員、お取引様などサッポロライオンに関わらる全ての人が、喜びを感じ、感動していただくことが最大のミッション」。
この精神を一言で表すのが、経営理念である「JOY OF LIVING(生きている喜び)」の実現である。
いまから何年経とうが、サッポロライオンが担うこの役目はかわらないはずだ。最後に一言。これは主観だが、ビールはサッポロに限る。とりわけヱビスは旨い。旨いビールをおいしく飲める。そういう場所であり続けて欲しい。
大学3年生の頃、能登半島にて | 25〜26歳の頃、仙台国分町のスナックにて | 39歳の頃、新宿エルタワーにて |
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