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第314回 際コーポレーション株式会社 代表取締役社長 中島 武氏
update 12/09/18
際コーポレーション株式会社
中島 武氏
際コーポレーション株式会社 代表取締役社長 中島 武氏
生年月日 1948年1月27日生まれ
プロフィール 福岡県田川郡に生まれる。拓殖大学付属高校から拓殖大学に進学し、4年時には応援団長に就任。卒業後は、ある大手企業を皮切りに職を転々とし、35歳で独立。不動産、金融関連の事業を営み急成長するが、バブル崩壊とともに事業縮小を余儀なくされる。42歳で飲食事業に初挑戦し「紅虎餃子房」をはじめ、斬新な店舗を次々と出店。現在では、飲食事業を柱にアンティークの家具、衣料、雑貨のショップを運営するほか、旅館の再生事業なども手がけている。間違いなく、いまの日本を代表する経営者の一人だ。
主な業態 「紅虎餃子房」「万豚記」「葱や平吉」「PAGLIACCIO」など
企業HP http://www.kiwa-group.co.jp/
「ストライクゾーンに来たボールを打てるか、どうかだね。打つためには度胸がいるんだ」。数々の事業を立ち上げてきた経営者、際コーポレーションの代表取締役社長中島武は、成功のカギをそういう風に表現する。もちろん、闇雲に手を出せばいいというのではないだろう。だが、縮こまっていては絶好球が来てもバットは出ない。当たってもチカラのない球が転がっていくだけだ。ならば、思いっきり…。そんな思想が話の端々から伺えたインタビューだった。

野球を始め、自閉症を克服?

今の中島からは想像しにくいことだが、小学低学年までの彼はずいぶん性格が大人しかったそうだ。幼稚園時代には「自閉症と言われたこともある」という。姉も、弟も生徒会長を務めるなどしていたが、それも中島には無縁だった。
「大人しいと言うのか、友だちとツルんだりするのが苦手だったんです。そういう性格だったんですが、野球を始めたことで、少しずつ活発になっていった気がします」。
野球はチームプレー。黙っていては、プレーもできない。そういう環境が少年の心の中の何かを刺激したのかもしれない。中島、小学4年生の時の話である。
それでも、マジメな性格はそのまま。ハメを外すようなこともなかった。
「基本、マジメな家庭なんです(笑)。でも、中学で野球部を辞めてからは、少しやんちゃなこともするようになりました。当時は、みんなアメリカを意識してGパンなんかも流行りだした頃なんですが、私も、そういうのをはいて悪ぶったりしていました」。
野球部を退部したのには理由がある。練習中にヤブのなかに転がったボールを追いかけ、ガラスを踏んでしまった。ぐっさりと切れたキズは、何度縫っても治らず、ついには野球部をリタイアすることになってしまったのである。
それがきっかけで、野球部以外の連中とも交わるようになり、ファッションにも惹かれていくようになったに違いない。

拓殖大学付属高校にて。応援団、設立。

「だれが最初に言い出したんでしょうね」。「強い男子に」という母の願いもあって入学した拓殖大学付属高校での出来事。同校設立以来なかった「応援団」を立ち上げることになった経緯を、中島は笑いながら話してくれた。
「当時は、他の高校とケンカすることも良くあったんですね。ある時、どこどこの連中と一戦交えるから、みんな来いよって言うことになって、私も含め30人ぐらいが集結したんです。すると情報が洩れていたんでしょうね。警察が駆けつけてきて『おまえら何しとるんだ』と。それで、誰かが『応援団の練習です』って言ったんです。みんな、それらしくみせようと思ってね。一列に整列して、フレーフレーなんてやりはじめたんです。実は、それがきっかけで、1年の仲間30人で応援団をつくろうって話になったんです」。
誰が交渉したのか記憶にないが、学校も認めてくれてスイスイ「部」が設立した。だが、スグあとに、初代応援団のメンバー30人は途方に暮れた。
「部活といっても、私ら1年生だけでしょ。半分、おふざけですよ。ところが、先生が2年、3年にも声をかけてくれてね。おまけに『5分刈だ』っていうんですよ。そんなのヤダよ、ってみんなで言っていたんですが、3年生が散髪して、2年生はちゃんと5分刈にしてきたんです。私ら1年生にしてみたら、もうありがた迷惑以外なにものでもないですよ。そのうえ、拓大にも連絡を入れたんでしょうね。ある日、羽織袴で木刀下げたホンモノの応援団が校門に立っていたんです」。
おちゃらけでは済まなくなる。ハードな練習が繰り返されるようになる。練習に誘われ、断り切れず大学にも通った。だが、けっして辛い思い出ばかりではない。あの時、応援団を立ち上げたことで、いまの中島があるといってもいい。
拓大に進学した中島はむろん、応援団に入部する。

オッスの人生。

「高校時代と違って、プロの世界だった」と中島。団旗の下に集まった先輩たちは、いずれも日に焼けた応援のプロフェッショナルだった。
上級生とは気軽に会話もできない。何を言われても「オッス」で返答する。
ところで、拓大の応援団といえば、歴史のある有名な応援団の一つである。練習もハードだったが、誇りも持てた。だから、辞めようとは思わなかった。とはいえ、閉口したことも少なくない。「たとえば、先輩に誘われて映画を観に行くでしょ。高倉健主演の映画だったりするわけですよ。すると、クライマックスとかになって先輩が『ナカジマァ、よかったよなぁ、いまのシーン』とかって言ってくるんです。これが合図なんですね。ガバっと立ち上がって、『ケンさ〜ん、かっこいい』って叫ぶんです。映画が終わったら終わったで、舞台に上がらされて『一曲、歌います』ってやらされるんですね」。
数秒のしゅん巡も、許されない。
「もうやんなくていいよ」って言われたら、最後、ヤキが待っていたからだ。
オッスの人生。
だが、反論したこともなくはない。理不尽すぎることに対しては、口答えもした。上級生になれば後輩たちを守ることも仕事になったから。
「一度、こんな時代錯誤なことばっかりやっていてはダメですよ、って先輩にかけあったことがあるんです。するとね、いい先輩で、『ナカジマァ、おまえいいこというよな』って。でも、『おまえはまだ見習いだろ。見習いが外れて、お前たちの代になったらそれをやればいい』って諭されるんですね。うまく煙に巻かれてしまいました」。
高校時代を入れて計7年。先輩が言った、「お前たちの代」になって中島は団長に指名される。拓大、応援団団長。団旗の下、中島の音量豊かな声が青空に響き渡った。

バブルと踊ったダンス。

応援団団長という肩書が就職に対して有利かどうか、と聞けば誰もが「有利」と答えるはずだ。しかし、本人が前向きならばの話である。
某電力会社への口もあった。財閥系不動産の口もあった。だが、どうも気が進まない。結局、先輩の口利きもあって、とある大手企業に就職することになったのだが、2ヵ月でリタイアしてしまった。「レールがひかれた人生なんて、つまらん」と思った一方で、社内文書が英語で書かれていたことも退職の引き金になったそうだ。
「だって、英語なんてわかんないでしょ。大学では応援団ばっかりやっていたんだから(笑)」。
その後、応援団時代の先輩と一緒に会社を興したりもした。不動産や金融関連の会社に就職し、取締役になったこともある。そのキャリアを活かし35歳の時、同じ不動産・金融の会社を起ち上げた。時代はバブルに向かって一直線の頃。投資するごとに元手は増えた。正確に数えてみたわけではないが、300億円程度を動かすようになっていた。
その時になってバブル退治のための総量規制が始まった。
銀行が蛇口を閉めれば、金は出てこない。中島の周りにも倒産する企業が続出する。銀行は掌を返したようにお金を貸さなくなったばかりか、逆に取り立てを強めた。
「うちの会社は体力があったほうなんです。だから、なんとか倒産は免れました。民事再生もしていません」。とはいえ、数十億円の個人債務が残った。八方手を尽くし、返済する。だが、「もう不動産も、金融もいいや」と思った。バブルに踊り、踊り疲れた。それが正直な気持ち。

42歳の再出発。

「もう、大きなことはいいや、と思って飲食に目を向けたんです。たまたま海外旅行にも数多く行っていたんで、日本にはまだない中国料理を紹介するような店を作ろうと思い立ったんです」。中島はゴルフもしない。金遣いも荒くない。海外に行っても、現地でおいしい料理を食べ歩くのが日課だった。それが次の事業の「素」になる。
1号店は、福生に「ニラまんじゅう」の店を出店する。ところが、まったく売れない。月商は50万円にも届かなかったそうだ。「ニラまんじゅう」を「餃子」に改めて、少しずつ売り上げはのびた。当時のことを中島はこう語る。
「なんで売れないのか。どうして客が来ないのか。それを何度も何度もしつこいぐらいに考えました。それを繰り返しているうちに、なんとかメドが立つようになってきたんです」。
言葉でいえば簡単だが、お手本も無い中で結果が出るまで戦い続ける。これは容易なことではない。だが、この時、試行錯誤を繰り返したことで、中島は飲食事業の本質を見極めることができるようになったのではないだろうか。
快進撃が始まる。
ホームページの沿革に沿って紹介すると、
まず1990年12月に際コーポレーション株式会社を設立。
翌1991年6月「韮菜万頭」出店。
3年後の1994年3月「万豚記」を出店し、同年5月には「虎萬元」出店。
翌1995年12月「HATHI」出店。
1996年にはフランチャイズ事業を開始し、
同年12月には、のちに主力となる「紅虎餃子房」出店するに至っている。

35坪で4500万円を叩き出し、時代の寵児に。

「開けりゃ、1000万円以上になった」と中島は当然のように言う。言っておくがバブルの頃の話ではない。財布の紐が縛られるなか、アッパーな業態にも客は殺到した。
「変な店だったから」と中島は言うが、これは悪い意味ではない。いままでの定番中華とは異なる、「粋な中華」を次々にリリースした。それが、ありきたりの店に飽きた消費者に強烈に支持されたのだろう。
その一方で、中国人のコックも積極採用し、中国人の雇用にも貢献する。オペレーションも徹底的に磨いた。
その集大成ともいえるのが、横浜スカイビルに出店した店舗だった。この店で中島は初めて業務委託というスタイルを採った。
「もともとはウチでやらないかと声がかかるんです。でも、投資が4000万円ぐらいかかる。それじゃ、割に合わない。ウチの店は1000万円ぐらいで出店しても儲かっていたんですから。いったん断ったんですが、今度は、あるオーナーが出資するので運営をしてくれないかと持ちかけられたんですね。この店が、流行りました。35坪で月商4500万円。TVや雑誌にも頻繁に取り上げられ、次々に出店依頼が舞い込んでくるようになったんです」。

成熟した企業の大人の戦い。

1999年、目黒区に本社を移転し、ますます快進撃が止まらない。翌2000年には100店舗を達成。3社を子会社にするなどして2年後には200店舗まで躍進している。その後もグループ全体の勢いは止まらず、2006年には300店舗を達成している。
もはや盤石な企業となり、日本の飲食を代表する1社に登り詰めた。42歳、そこからの出発という一点をとっても、驚くべきスピードである。
「大きいことはいいや」と、なかば悟りのなかで打って出た飲食で、思いもよらず業界のトップリーダーの1人に数えられるようになった。
「計算機の桁が一桁違う」と中島は表現する。不動産や金融で億単位を動かしてきたことで、億単位の投資にもビビることはない。
ボールを良く見極め、絶好球は見逃さずに振る。
旅館の再生事業も、その一つと言えるだろう。
京都祇園の「柚子屋旅館」、長崎五島列島の「五島列島リゾートホテル マルゲリータ」の再生事業のことである。
何年間にも亘る戦いのなかで事業の幅が広がり、クオリティが磨かれてきた。いまや中島の戦いは、大人の戦いだ。
とはいえ、中島はいまも第一線から離れない。司令塔として事業の舵取りをしながら、一方で飲食セミナーなどを開催し、後継者の育成にも努めている。この姿勢も多くの飲食業界の経営者から慕われる理由だ。
ところで、大学卒業後、大手企業の就職に甘んじていたとしたら、中島の人生はどうなっていたのだろう。「レールを外れる、それは、ジブンで切り開く人生の始まり」。
その、道を切り開く戦いの連続が、中島を強い男にした。
母の願いは叶ったということだろう。
安穏な生活とは程遠い、戦う戦士の生き方を今一度、学んでみたいと思った。興味のある人は、ホームページを参照のうえ、「中島塾」に参加するという手もある。

思い出のアルバム
 

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