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第315回 有限会社ベルニーニ 代表取締役社長 松本賢悟氏
update 12/09/18
有限会社ベルニーニ
松本賢悟氏
有限会社ベルニーニ 代表取締役社長 松本賢悟氏
生年月日 1970年2月20日
プロフィール 千葉県に生まれる。流通経済大学に進学するも、飲食店のオーナーを夢見て中退すると、さまざまなイタリアン・レストランで経験を重ねた。さらに2年間のイタリア修行などを経て、1996年、麻布十番に「Bernini」をオープンさせる。その後も、イタリアン・ワイン・バー「Vinoteca Wagon」や、ローマ・スタイルのカジュアル店「Pizzeria Romana Bernini」。そして2011年4月には、共同経営者の小谷田基世氏とともに念願のハワイで「ベルニーニ・ホノルル」をオープンさせた。なお同店は、ハワイで最も権威のあるグルメ賞として歴史を誇る『ハレアイナ賞』のベストニューレストラン賞に輝いている。
主な業態 「Bernini」「Vinoteca Wagon」「Pizzeria Romana Bernini」「ベルニーニ・ホノルル」
企業HP http://www.bernini.jp/

くらった停学は2回。喫茶店のマスターに憧れた問題児。

試験の点数や順位ではなく、力や度胸の強さ、拳の勝敗こそが真の強さであり価値である。たいていの男子なら、そんな時期があったはずだ。そして自分の価値を上げるべく、勝気な少年たちは勝負を繰り返す。かつての松本社長も、まさにそんな少年であった。血気盛んで喧嘩など日常茶飯事だったそうだ。
松本を筆頭に、問題児が多かったことを受けて、中学では教師たちがある対策を打っていた。彼らは一人残らず丸坊主にされ、野球部と陸上部に振り分けられて強制的に入部させられる。いずれも早朝からのランニング。そして放課後は地獄の猛特訓でしごき抜かれた。「僕は陸上部。もう疲れきって、悪さをする元気なんて残っていなかった」。当時を振り返る松本は、そう言って苦笑する。
しかし高校では締めつけが緩くなり、反動から松本は再び自由を謳歌しはじめた。肩を切って街を歩く。停学処分も2度、受けた。
ちょうどそんな頃だ。放課後に喫茶店へ流れていくのが、松本や少年たちのお決まりのコース。その喫茶店で、松本は初めて自分が将来なりたいものを思い浮かべた。「そこのマスターって、ドイツの高級車に乗っていて、おまけに可愛いバイトの子とも付き合ったりしていてね。それがすごく羨ましかった」。だから同じことをしたい、自分も将来は喫茶店のマスターになる。不純にもそう決めたのだった。

大学中退。そして、始動。

学校をサボることはなく、要領も良かったという。しかし、事あるごとに学校に呼び出され、頭を下げてくれた母の功績も大きかったのではないだろうか。教師からは「2回も処分を受けた生徒に、大学への推薦を出したことなどほとんどないからな」と釘を刺されながらも、松本は無事に高校の卒業を迎え、さらには大学への切符を掴んでいた。
将来の喫茶店経営に少しでもプラスになるのではないか。そんな思いから、経済学部の経営学科を選ぶ。ところが大学では一般教養のつまらない講義が続き、喫茶店のマスターを目指す者への助言やヒントは何一つ聞くことができない。松本はわずか1年で大学に飽きてしまった。 
そんなある日、松本は父を相手にこう切り出した。「残り3年分の学費を、喫茶店の開業に投資してくれないか」。一般的な父親なら、まずは退学に猛反対するはずだ。しかし、松本の父は違った。「喫茶店で出す軽食やデザートを、おまえは何か一つでもつくれるのか。もし本気なら、死にもの狂いで料理の勉強をしたらどうだ」。松本にとって、これ以上の的確な助言はなかったはずだ。
人が決めたことを強制されるのが嫌で、自由を求めた。舐められるのが嫌で、背伸びをした。強さこそがすべてだと信じて、拳を固めた。ワルのレッテルを貼られても、気持ちは白く純真で、仲間を大切に思う。そして、なにより半端を嫌い、腹を決めたら筋を通し、がむしゃらに貫いていく。潔く自らの退路を断ち、松本は自分の定めた道を歩みはじめた。

20歳、初めての挫折。

街の喫茶店のメニューを思い浮かべる。そこにはまずドリンクがあり、軽食にはパスタやピザトースト、さらにケーキなどのデザートが並んでいる。そんなメニューの調理を学べる飲食店といえば…。「やっぱりイタリアン・レストランかな?」。そんな思いつきから、千葉県内で唯一のメジャーなイタリアン・レストランであった『サイゼリア』に就職した。
当時のサイゼリアは、まだ全30店舗程度の規模。まだセントラルキッチンができる前で、調理は店舗内のキッチンですべてが行われていた。松本は、まずすべてのメニューのレシピを頭に叩き込んだ。時代はイタリアンに対する物珍しさや新鮮さが感じられた時代である。さらに気軽に利用できるファミリーレストランという形態。店には日を追うごとに客足が増え、その調理をさばいていた松本には自信が芽生えはじめた。
そんな矢先、松本は店に入った結婚式の二次会パーティーのもてなしに頭を悩ませていた。予約オーダーは総勢数十名で、予算は一人4,000円だ。しかし通常のメニューを組み合わせても4,000円には満たない。そこで松本はイタリアンのレシピ本を読みあさり、本に書かれたとおりの食材を直前に仕入れて、ぶっつけ本番でつくった料理でもてなしたのだった。
パーティーが終わると、そこにはこれまでに見たことのない光景が広がっていた。多くの食べ残しだった。『いつも美味しいのにね。今日はどうしたのかな。みんなお腹がいっぱいだったのかな?』。松本を気遣い、予約してくれた客が言った。そもそも味も知らない料理を、本のままになぞって出したまでのこと。自覚はあったが、やはりショックだったし、客に申し訳がなかった。芽生えはじめた自信は一気に崩れ、まだ何もできない自分に直面した。もっとマジでやらないとだめだ。痛いほど、そうわかった。

認められるシェフに。

サイゼリアの一件後、松本は六本木で人気のイタリアン・レストラン『ヂーノ』へと移り、本格的に料理を学びはじめる。そこには、現在『アロマフレスカ』を営む若き日の原田慎次シェフも修行をしており、同学年の二人は互いに切磋琢磨した。しかし、半年の差で先輩だった原田氏は火を使うことが許されたが、松本はいっこうに火を使わない前菜しか担当することができない。そこで毎夜、仕事帰りに青山の書店でイタリアンの料理本を読みあさる日々をすごしたという。「その時間のそのコーナーは、シェフを夢見る人たちの溜り場になっていました。みんながそこで勉強をしていたんです。なぜそれがわかったか? みんな、腕に火傷の痕がありましたからね」。誰もが必死だと知り、それが嬉しくもあり、励みにもなった。
次は、恵比寿の『ボッカローネ』を修行の場に選んだ。「従業員もお客様もイタリア人が多かったから。本場イタリアの密度が濃いほうが好ましうと思いましたから」。最も学ぶべきものは料理だ。しかし、一途な思いとこだわりはすでに一流であった。コミュニケーション能力も高めるべきだとして、昼間は語学学校へ通い、精力的にイタリア語も学んだのだ。
そんな折り、語学学校の斡旋でイタリアへ留学するチャンスを得る。松本は即座に行動に移した。アルバイトとして、星の付く名門リストランテに潜り込んだのだ。また新たな歯車が回りはじめた。
「本場のキッチンで働きはじめて、イタリア人と日本人とに大きな味覚の違いがないことがわかりました。それと、日本人の手先の器用さ、“コピー”の巧さですね。レシピを必死で覚えていくと、やがて認められて料理を任されるようになっていきました。そこは仕事を怠けたいイタリア人の気質と、くそマジメな日本人の気質、双方の思惑と利害が見事に一致したのでしょう。最終的にはほぼすべてを自分でやるようになり、それが大きな自信になっていきました」。

26歳、夢見たオーナーに。

2年間にわたったイタリアでの修行から帰国すると、松本は都内のレストランからスカウトされる。そこでは、イタリアで得たものをこれでもかと言わんばかりに見せつけた。しかし、いまひとつ上手くいかない。何かが足りなかった。松本の帰国を知ったかつての同僚、原田氏が店に訪れたのは、そんな時だった。
「味覚には大差がないとしても、料理の見せ方や食べ方には国ごとで違いがある。たとえば魚料理。イタリアではメインの魚の周りを野菜で埋め尽くしていたりします。しかし日本では、サラダはサラダ、魚は魚として食べることを好みます。向こうで覚えたままの料理を出していましたが、そんな文化の違いなどを原田さんが的確に指摘してくれたのです」。ライバルであり同士である友人の声は、胸に深く突き刺さったことだろう。
『日本人が求めているもの』。持ち前の負けず嫌いな性分から、すぐさまその修正にはいった。少しずつ、少しずつ、上手くいかなったことが好転する手応えを感じはじめる。「残り3年間、大学に通ったものとして…」と言ったあの日から、その倍の月日が過ぎようとしていた。
そんな松本のもとに、別の店からの誘いがどんどんと舞い込むようになる。しかし、目指すは自分の店だった。それを改めて口にしながら丁寧に申し出を断ったある日、空き物件の情報が寄せられる。麻布十番の一等地だ。不安よりも自信が勝っていた。形にしたいアイデアもあった。なにより挑戦への意欲がいっぱいで、迷いはなかった。そしてなにより、度胸のよさも特徴である。松本は、思い切った。

次の野望。

1996年、松本は念願であった自身の店をオープンさせる。麻布十番の「Bernini」は、初日から満席となった。実は、この開店資金には途方もない費用が必要であり、それを工面してくれたのが父であった。父は千葉県我孫子市の自宅を担保に、多額の金を用立てしてくれたという。また、母や妹たちの協力も手厚いものだった。長い年月がすぎていたが、松本の家族にとっても念願が叶った日であったに違いない。
幼心に覚えている我孫子市は、一面に田畑が広がり、友人たちにも農家を営む家が多かった。友人宅に遊びに行くと、摘みたてのトマトがおやつに出される。無農薬で、とても美味いトマトだった。また、両親の実家の愛媛県に里帰りすると、そこでは水揚げされたばかりの魚が売られていた。「そんな経験や風景が、シェフになることに少なからず影響したかもしれません」。店が増え、オーナーシェフとして多忙な日々をおくる現在の松本だが、今も我孫子などの農園を回り、自ら野菜を集荷し仕入れすることも怠らないという。
松本の快進撃は止まらない。さまざまなアプローチでイタリアンを提供し、その名をいっそう轟かせている。「いつからか、『日本人がイタリア料理を海外でやる』ことを意識しはじめていました。機会や人に恵まれハワイに店をオープンさせることができましたが、日本人によるイタリア料理で、さらに多くの人たちを満たしたい。そんな意識がさらに強くなっています。」。
日本人による和食ではなく、イタリアンだ。容易ではないことは想像できる。それでも松本は一心不乱に進んでいくのであろう。気づけば40を過ぎてシェフとしても熟した時期に達しつつある松本だが、ますます勢いづいているのは、今なお若き日のような旺盛な挑戦心を内に秘めている証だ。ならばどんどん突き進み、その大胆な行動と料理で、これからも我々を魅了し続けてほしいと思うのだ。

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