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第318回 株式会社バグース 代表取締役社長 久保田 勝氏
update 12/10/02
株式会社バグース
久保田 勝氏
株式会社バグース 代表取締役社長 久保田 勝氏
生年月日 1966年7月
プロフィール 千葉県出身。高校卒業後、税理士専門学校へ。上場企業、会計事務所などを経て、37歳でダイヤモンドダイニングに入社。創業者、松村氏の片腕として手腕を発揮。2012年6月、株式会社バグースの社長に就任する。
主な業態 「バネバグース」「グランサイバーカフェバグース」「HiroGolfImpact」「ビリヤードバグース」「隠れ房」など
企業HP http://www.bagus-99.com/

アミューズメント企業、バグースの社長に就任。

株式会社バグースは1986年設立のアミューズメント企業である。1995年に東京・渋谷にカラオケ店を出店したのを皮切りに、都心などにもビリヤードやダーツ関連の遊戯場などを出店。「洗練された遊びの空間」をコンセプトに、現在も、ビリヤード、ダーツ、カラオケ、ネットカフェ、飲食店、シミュレーションゴルフスペースなどを展開し、世代を超えた幅広いターゲットに、次々と新しい「たのしみ」を発信している。株式会社ダイヤモンドダイニングが、このアミューズメント企業、株式会社バグースの全株式を取得したのは2011年の6月のこと。そして、2012年6月、常務取締役であり、戦略事業本部長の久保田勝が、株式会社バグースの社長の任に就くことになった。今回の「飲食の戦士」は、その久保田勝にご登場いただいた。

夏休み、冬休みには列車にのって。

東京から千葉方面にぐるりと湾を回り込んだあたりに千葉県の五井はある。正確には千葉県市原市にある街だ。久保田が、この街に生まれたのは1966年7月。父は山口県の萩、母は岩手県花巻の出身である。共働きだったため鍵っ子だったと久保田。3歳違いの姉が一人いる。小さな頃、休みといえば母の実家がある岩手県に行くのが恒例行事だった。「千葉にも友だちはたくさんいましたが、休みの度に行くので岩手でも友だちができました」。夏や冬になれば、列車に飛び乗った。カブト虫、温泉、川、すべてが遊びの対象だった。列車に乗るのもたのしみで、夜行列車に揺られ、朝になって着く駅のすがすがしさは格別だった。小学校の時には電車の運転手になろうと真剣に思っていたそうだ。父や母から口うるさく言われたことはなにもない、という通り、自然のなかで、また都会の風を感じつつ、久保田はノビノビと育っていく。「小学校の時は野球一筋でした。勉強はまったくしない。学習塾なんていうのもなかったです。そうそう、算盤には通っていました。3級止まりですが、のちのち通っていてよかったと思うようになります」。

高校生がキャディバックを抱えてコースを回った。

中学になると、野球は止めてしまった。半年ももたなかったと久保田は笑う。その一方で勉強がたのしくなる。「方程式が簡単に解けて、楽しくなってきたんです」。小さなきっかけだったが、少年にとっては大きな意味を持っていた。いったん勉強にも目覚めた久保田だったが、高校になるとまたもや勉強とは疎遠になり、麻雀とバイトに明け暮れた。バイトは、ゴルフのキャディである。「市原市は日本でいちばんゴルフ場が多い自治体なんです。だからキャディの口もたくさんあって、時給もかなりいいバイトでした。チップをいただくこともありましたから」。麻雀も、ゴルフも大人のたしなみと言えなくもない。その意味では、高校時代にすでに大人の世界をひと通り観たことにもなる。しかし、本業の勉強のほうはさっぱりで大学進学はスッパリあきらめた。就職するか、専門学校に進学するか。小さい頃から何一つ口うるさいことを言わなかった母が「まだはたらくのは早い」と心配げにつぶやいた。これが決定打となる。久保田は、専門学校に進んだ。

まるで会計士養成所。

「いまのようにITとかもない。だから、そんなに選択肢が多くないんです。私は数字が好きなこともあって、先生の紹介で税理士の専門学校に進みました。専門学校を選択したといっても、ラクしようと思っていたわけじゃなんです。でも、大学生じゃなく、専門学生でしょ。それほど勉強しなくてもいいだろうと思っていたのは事実です」。ところが、その専門学校は、1年目からスパルタだった。久保田に言わせれば、専門学校じゃなく養成所となる。「私は、五井から通っていましたから、10時には学校をでました。でも、みんなはまだ残っていました。最年少の会計士の輩出、それが学校の目標だったんです」。正直なところ専門学校だからと高を括っていたのだが、周りには全国でも有数の進学校から進んできた生徒も少なくないような学校だった。「2年になってからは少しペースが落ち着いてきました。でも、2年ですから就職のことも考えなければいけなくなるんです」。

会計事務所で、すべてを教わった。

上場企業に就職することができた。だが希望ではなかった。もう一度、会計を専攻したくなり、会計事務所に転職する。「この会計事務所に10年ほどいるんですが、私の仕事の原点がぜんぶここにあると言ってもいいぐらい、さまざまなことを勉強させていただきました。その後、縁あってある外食企業に転職するのですが、この事務所で勉強させてもらっていなかったら、そういうお誘いもなかったはずです」。転職先は、株式の上場を検討する企業だった。久保田の会計の知識はもちろん、上場に関する知識や経験も欲していたのではないだろうか。転職と同時にバックヤードのことはすべて任されていく。「採用関連から人事、総務、会計まで全部やりました。でも、結局、上場するまでには至らなかったんです」。そうなると熱も冷めてしまう。遊技機のプリペイドカードを運営する会社に転職した。これで3回目の転職だった。

ダイヤモンドダイニング松村厚久氏との出会い。

進んで4回目の転職と考えていたわけではない。すでに30代後半。冒険する年齢も過ぎていた。「松村と出合っていなかったら、いまもその会社で働いていたかもしれません」と久保田は出会いの時を振り返る。「人材紹介の会社に登録していたんです。ある時、連絡があって、ぜひ一度会ってみて欲しい人がいると言われ足を運びました。その相手が松村だったんです」。久保田が松村というのは、ダイヤモンドダイニングの創業者松村厚久氏のことである。この偶然ともいえる出会いが2人を強烈に結びつける。年齢も同じ37歳だった。それからの久保田は、松村氏の懐刀として手腕をいかんなく発揮することになる。<100業態100店舗>世間をあっと言わせたダイヤモンドダイニングの新機軸も久保田抜きでは実現できなかったのではないか。松村氏がいくつものM&Aや買収などを手がけていく過程で久保田が果たした役割もまた大きかったはずである。しかし、久保田はどちらかと言えば批判的な思いも抱いていたそうだ。それはそうだろう。従来のチェーンオペレーションとは対極に位置する、不効率なやり方である。しかし、2012年海外に進出することになってはじめてその意味するところを理解したというのである。

久保田流の一手に期待する。

「ダイヤモンドダイニングは、M&Aや買収を手がけてきました。相手に合わせ、さまざまなブランドを立ち上げてもきました。その方法はたしかに不効率にも映りますが、その経験が、文化や風習が違う海外で活かされていくのです。それぞれの国や地域に合わせた展開もダイヤモンドダイニングならできる。海外というピースが加わったことで、いよいよ私たちは新たな、そしていままで以上の成長を遂げる段階にきたと思っています」。ちなみに久保田は米国デラウェア州に設立した「Diamond Dining International Corporation 」のPresident /CEOにも就いている。さて、バグースである。前任の社長が退任した2012年5月、ダイヤモンドダイニングが全株式を取得して約1年後に正式に社長として送り込まれた。ナンバー2が性に合っているという久保田がいよいよ表に出ることになった。もっとも本人は、「グループの1社に過ぎないのだからナンバー1ではない」というのだが。それでも、我々は久保田が新たにバグースというステージでみせてくれる、久保田流に期待せずにはいられない。アミューズメントはとりもなおさず経営陣の遊び心から生まれる気がするからだ。久保田の生き様から導き出された次の一手に注目が集まっている。

思い出のアルバム
 

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