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第319回 アサヒフードクリエイト株式会社 代表取締役社長 津村昭二氏
update 12/10/02
アサヒフードクリエイト株式会社
津村昭二氏
アサヒフードクリエイト株式会社 代表取締役社長 津村昭二氏
生年月日 1951年11月10日
プロフィール 神戸生まれ。公務員の父親の転勤に伴い、神戸から淡路島、西宮と住まいを転々とする。高校時代から自己変革のために剣道を始め、大学時代にはユースホステル部に所属し、山に通う日々を過ごす。アサヒビールに入社したのは、窓からネオンが観えたからだとか。アサヒビールでの足跡は、福岡工場の物流関連の業務からスタートし、広島支社、福岡支社と今度は、営業で最前線を駆け抜ける。岐阜エリアを担当していた時代にスーパードライが発売され、業界シェアが一気に塗り替えられていく。大阪支社営業企画部長、総務部長、各エリアの支社長を務め、2008年から執行役員となり、中部地区本部長に。2011年3月、現職のアサヒフードクリエイト株式会社代表取締役社長に就任する。
主な業態 「アサヒビール園」「スーパードライ」「中国酒家朝陽閣」など
企業HP http://www.asahifoodcreate.co.jp/

スーパードライ、禁止令。

昭和が終わる頃、正確には、昭和62年アサヒスーパードライが発売されるまで、ビール業界の勢力図はだいたい決まっていた。キリンビールがダントツの1位で、サッポロビールが2位で、アサヒビールは上位2社を追いかける位置にいた。といっても、上位2社は不動。アサヒビールは常にサントリーの追い上げに悩まされていたのが実情だ。ところが、スーパードライが発売され、数年経つと勢力図は逆転する。王者、キリンをアサヒが抜きトップに立ったのだ。
当時、営業の最前線に立っていた津村は、こう振り返る。「それまでアサヒビールの営業といえば、酒屋さんや飲み屋さんに頼みこんで1本でも、2本でもとアサヒビールを置いていただく仕事でした。ところがスーパードライが発売されると、立場が逆転。うちの店にも、と依頼が次々に寄せられるんです。ところが今度は、生産がまったく追いつかず、ご迷惑をかけてしまいました。私たち社員には『スーパードライを飲むな』という社長命令まで降りてきたぐらいです」。
それからも品不足はしばらくつづいたが、社長、樋口廣太郎氏の英断で生産体制が強化され、品薄状態が改善されると、改善された分だけシェアがアップした。
そして、ついにはキリンビールが長年座りつづけてきたトップの座を奪い取ったのである。

ネオンに惹かれ、応募する。

1951年生まれの津村がアサヒビールに入社したのは、むろん、スーパードライが発売される遥か前。地方に行くと、キリンのシェアが8割を超えていたそうだ。
津村がアサヒビールに入社した理由は、取り立ててない。彼の言葉を借りれば「実家の近くにアサヒの西宮工場があったんです。その工場のネオンが窓から観えたんですね。それがきっかけで、応募したんです(笑)」とのこと。
のちに執行役員になる人の応募動機としては物足りなくもないが、どうやら真実らしい。「大学時代、山登りばっかりして就職戦線に出遅れたんです。なんとかアサヒビールに採用してもらいましたが、アサヒビールでこれをやりたい、というような思いはまったくなかった。ただ、ビールが好きだから、なんとかやっていけるだろうと(笑)」。
面接はトントン拍子に進んだ。あっけなくアサヒビールの人生は幕を開ける。とはいえ、競争率が低かったわけではない。逆に難関だった。

さらば、もやしっ子。

「子どもの頃はもやしっ子と言われていた」と津村は語っている。ひょろ長く、色白。勉強はそこそこだが、スポーツで目立つような少年ではなかった。中学では生徒会の役員も務めている。だが、それで満足できなかった。もやしっ子卒業のために、高校で一大決心。剣道部に入り、いままで握ったことのない竹刀をふり回すようになる。才能があったのか、それとも練習に明け暮れたおかげだろうか。幼い頃から道場に通っていた生徒たちを差し置いて、団体戦ではつねにレギュラーに選ばれた。血を吐くような練習をつづけているうちに、体が大きくなる。筋肉が付き、もやしっ子と言われたのがウソのような体格になった。やればできる。少年が青年になる大事な時期に、津村は、それを知った。体よりもむしろ、心が強くなった。それが意味するところはあまりに大きい。
大学に入学した津村は、ユースホステル部に所属。山を駆け巡った。関西学院大学ということもあって、六甲山はもちろん屋久島まで出かけている。やがて部長になり、100名以上の部員をまとめていた。就職時には、この点も評価されたのだろう。もう、誰ももやしっ子だとは思わなくなっていた。

アサヒビール、苦戦の時代。

津村のアサヒビールの人生は、工場勤務からスタートする。工場で物流を担当した。その後、営業職に配属先が変わった。福岡から広島、また福岡と支社も転々とする。いずれの支社でも苦戦を強いられた。それは津村に限ったことではなく、当時のアサヒビールのシェアからもうかがえる。「キリンビールが広島で8割、大分で6割を占めていたんです。その牙城を少しでも崩そうと必死でした。特に九州支店にいた頃は、大分県を任されていました。福岡に比べたら、マーケットそのものは当然、小さいんですが、たった2人で一つの県を担当するのですから、走りまわらなければなりません。営業だけじゃなく、プレスリリースも自分でやらなければならなかった。振り返ってみると、あの時があっていまの私があるんですが、当時はそんなことを考えている暇もなかったのが正直なところです」。
月曜日だけ福岡のオフィスにいて、残りの4日間は大分に出張。自分で安いホテルを取り、そこを拠点に大分県内を駆けまわる。問屋さんの配送に便乗して、配送を手伝いながら1函、2函とアサヒビールを置いて回った。経費も潤沢ではない。それでも、いけると思った先には飲みに行く。大事な軍資金、軽くは使えなかった。相手をみる目も育っていく。状況は厳しかったが、一つひとつ成果を出すのは楽しかった。会社に貢献していることも実感できた。苦しいが、楽しい時代の話である。

消費者の声を聞け!

アサヒビールは、「良い材料と良い技術があれば、売れるビールがつくれる」と思っていたと津村は振り返る。たしかに孤高の味は、通にうけた。その一方で、「これがビールだ」というようなやり方だったため、消費者の賛同はなかなか得られなかったようだ。
そこに登場したのがスーパードライである。このビールは業界地図を塗り替えただけではなく、足元では、ビールづくりに対する考えかたを大いに変えたと言っていい。
1987年3月、スーパードライは発売されるやいなや、爆発的な人気を誇るようになる。どこに行っても売り切れで、品薄状態が続いた。前述した通り、営業マンの立場も逆転した。当時、津村は岐阜エリアを担当。「酒屋さんを回っていても、酒屋回りはいいから1本でも多く仕入れられるように本社に掛け合ってこい、と怒られるんです。営業にとってはありがたい状況ですが、その一方で、オレたちは必要なんだろうか? というジレンマも感じ始めるんです。それまで、私たち営業がいるからという自負もあったから尚更です」。
そういう営業マンのジレンマも抱えながら、スーパードライは、急激にシェアをのばし、トップのキリンビールを凌駕するようになる。
消費者の声を聞く。これは、津村にとっても、座右の銘ともなったことだろう。

ビアホールの進化にトライする。

岐阜エリアの担当から、関西に向かった津村は大阪支社の営業企画部長、総務部長を歴任し、各エリアの支社長を務めたのち、2008年から執行役員となり、中部地区本部長に就任する。
その3年後の2011年3月、現職のアサヒフードクリエイト株式会社代表取締役社長に就任。経営者として、事業のかじ取りを任されるようになった。
斬新なアイデアでビアホールの既成概念も、打ち破ろうとする。その根底にはお客様の声を聞けという思いがある。本人も、外食は素人。だが、お客様の立場から、意見することができるという。
「私は、外食の専門家ではありませんが、外食を長年、支援してきました。一方、消費者、つまりお客さまの立場から考えることもできる、これが強みだと思っています。たとえばビアホールという業態は、夏に売上がドンとアップするんです。でも、冬も、ビアホールを使って欲しいじゃないかと考えるでしょ。すると、ね。湯豆腐や鍋があったらどうか、という発想になるんです。ビアホールという業態のブランド価値を棄損するという人もいるでしょうが、それは驕った考えかもしれません」。
スーパードライが消費者の声を聞くことで誕生したように、ビアホールもまた消費者の声を取り入れることで進化を遂げる、そういう時期に来ていると言えるかもしれない。そのカギを握るのはむろん津村である。
一方、津村は、戦略的に新業態の展開も視野に入れている。現状のビアホールよりも、小粒のパッケージだ。東京スカイツリータウンにオープンした「BEER&PUB SUPER "DRY"」が、好例だ。またビールの進化も挙げられる。独自の専用サーバーによって生み出される氷点下(-2℃〜0℃)のアサヒスーパードライ「エクストラコールド」は、かつてない旨さで消費者の心をとらえることに成功している。この新たなビールをどう次の展開に活用するかも思案の一つだろう。
ただ、こうした戦術・戦略も、スタッフのちから抜きでは絵にかいた餅になりかねない。その点を津村はどう考えているのだろうか。

人を大事にする経営学。

津村はスタッフに、「明るく元気な、楽しい会社、職場にしよう!」と言いつづけている。「100億円の売り上げを達成してスタッフに還元する」とも宣言している。
消費者の目線で飲食店をながめれば、料理も、盛り付けや内装だけではなく、働くスタッフたちの姿もまた気になるところである。活気ある姿は、人を惹きつけるからだ。スタッフに活気を与え、継続させる。これは、新商品を生み出すことよりも、困難なことかもしれない。その困難な作業に津村は、挑戦しようとしている。
ただ、がむしゃらというのではない。自然体。なかなか芽がでない若手のスタッフに津村は次のように言って励ますそうだ。「良いところがあって採用されたのだから頑張りなさい。一生懸命やっていたら必ず芽が出るから」と。人に対する温かさが根底にある。経営者、津村の素顔が垣間見えた瞬間だった。

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