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第320回 株式会社トランジットジェネラルオフィス 代表取締役社長 中村貞裕氏
update 12/10/09
株式会社トランジットジェネラルオフィス
中村貞裕氏
株式会社トランジットジェネラルオフィス 代表取締役社長 中村貞裕氏
生年月日 1971年1月20日
プロフィール 東京都小金井市生まれ。慶應大学出身。伊勢丹を経て30歳で起業。カフェブームの立役者の一人で「Sign」といった人気カフェを経営する一方「メルセデス・ベンツ」や「ディーゼル」などのブランドカフェを運営。また新たな朝食文化を創造した「bills」の運営も行っている。いま最も注目される経営者の一人。
主な業態 飲食及びホテル等オペレーション事業、プロデュース事業、イベント・ケータリング事業など
企業HP http://www.transit-web.com/
中学では学年トップ。模擬試験では全国トップクラスの点数を取っていた。一方、旺盛な好奇心も父親譲り。時代を敏感に感じ取り、次の一手を考える戦略家の一面も父から譲り受けた遺伝子の一つだろう。 今回、ご登場いただくのは、いま最も注目されている経営者の一人、株式会社トランジットジェネラルオフィスの代表取締役社長、中村貞裕。カフェブームの立役者として知られ、いまでは「世界一美味しい朝食」として知られ、新しい朝食文化を作った「bills」の運営を行う敏腕経営者としても知られている。では、いつも通り、中村の足跡を追いかけてみよう。

父の話。

1971年1月20日、東京の小金井市に生まれる。4つ離れた姉が一人いるが、この姉が生まれたのは母が18歳、父が20歳の時のことである。
「父がまだ早稲田大学の学生だった頃の話です。子どもができたことを、父親代わりだった私の叔父たちに伝えると、一人の兄がショックで気を失ったそうなんです」。
幼くして父を亡くした兄弟たちは、兄弟のなかでいちばん優秀だった末っ子、つまり中村の父の進学を優先。愛情を注ぎ、お金もつぎ込んだ。
小さな頃から期待されていた父は、兄たちの期待通り早稲田に合格。ところが、入学早々に子どもをもうけてしまったのである。怒りを爆発させた兄たちは、父を勘当。当然、援助もなくなってしまう。学生結婚。この4年後に長男の中村が生まれるのだが、若い夫婦はどのように生活をしたのだろうか。
結果から言えば、中村の父はなんと大学に籍を置きながら生活のために次々に事業を立ち上げ、しかも、そのほとんどを成功に導いた。塾、学生相手のキャッシングなどなど。そのなかで最もヒットしたのが、のちに主力となる弁当事業だった。

好奇心を育てる訓練。

「いろんな事業を起ち上げていくんですが、そのなかでいちばん良かったのが、母と2人で始めた『弁当事業』です。28歳で家を建て、私が小学高学年になる頃には、何倍も大きな家に移り住みましたから、相当、もうかっていたんだと思います」。
「事業が軌道に乗ると、親戚も手伝ってくれるようになって、広い家の中は人であふれます。早稲田の学生もうちの家を根城にしていました。結局、父は8年も大学に籍を置きつづけるんです。兄たちの気持ちを考えれば、大学を辞めるわけにはいかなかったんでしょう」。
考えてみれば、父の行動力も、先見の明も、いまの中村に引けを取らない。
その父から中村は、大きな影響を受けている。
「私が、中高の時の挨拶は、おはようでも、お帰りでもなく『何が流行っている?』『何がイケてるんだ?』なんです。そう言われると期待に応えようと、私も情報収集するんです。もともと好奇心旺盛だったんでしょう。そんな風にしているうちに、どんどん視界も広がり、でっかいアンテナが私のなかに組み立てられてきました」。
つまり、いまの中村をつくるきっかけを、父は与えつづけた。「何が流行っている?」。父の問いに健気に応えようとする中村の姿を想像すると微笑ましくもあるが、それは一つの訓練だった気もしなくはない。

控えめな性格。

頭がいい、それは書いた。好奇心旺盛なことも上げた。だが、熱しやすく、冷めやすい性格も中村という人格を語るうえでは外せないワードである。
高校時代から中村は、仲間を呼んで広い部屋でパーティーをした。もてなすことも、企画することも好きだったからだ。だが、みんなが楽しみ始めると独りこっそり抜け出して階下で本を読んだ。熱中することと、冷ややかなこと。相反した2つの性格を持ち合わせていないと、プロデュースは難しいのかもしれない。
「パーティーなど主宰する人は案外、控えめな性格の人が多いんですよ」と中村もそう語っている。
その一方で、興味は、湧いては消えていった。「DJが流行れば、DJセットを買い、ギターがブームになれば、ギターを手に入れ、当時、流行っていたサザンオールスターズの「Yaya」を弾いた。ところが、どれもこれもすぐに飽きた。それが「コンプレックスだった」という。「一つのことに熱中できる人は、凄い」。一時期は誰よりも熱中するものの、興味は絶えず移ろい、果てしなく分散する。
中村が控えめな行動を取ったのは、この性格を弱みと捉えていたかもしれない。みんなが熱中すると、中村は一歩引いた。
大学時代は彼女といっしょに片っ端から流行の店に出かけた。ただ、好奇心がそうさせたのか、それとも…。そう、それともなにかを探しつづけていたのか。

ミーハーな就職。

父と同じ、早稲田に行く予定だったが、「モテたい」と思って慶応大学に進路をかえる。大学時代は前述した通り、流行りの店を歩きまわった。その時、いっしょに歩いてくれた彼女が、いまの奥さま。
さて、就職。
1971年生まれの中村が卒業するのは1993年。バブルが弾け、就職難だった時代である。しかし、中村に危機感はない。ミーハー気分全開で、TV局や広告代理店を受験する。一方、先輩が多いという理由で伊勢丹も訪問した。
「面接ギリギリで、『伊勢丹ってどんな会社なんだろう』と調べ始めるような奴だったんです。するとカリスマバイヤーの藤巻幸夫さんがいらして。こういう人がいるのは凄いな、と伊勢丹に惹かれたんです。バイヤーという仕事についても知りました。<いいものをみつけてきて、広げる>バイヤーの仕事は、好奇心旺盛な私にとって天職のようにも思えてきました」。
結局、就職難のなか、無事、伊勢丹に入社。かっこいいバイヤーが目標になった。ちなみに藤巻氏は1990年バーニーズ・ジャパンにてレディスバイヤーを務め、1994年伊勢丹にて「解放区」を手がけている。

藤巻氏の下で。

バイヤーに憧れ、藤巻氏を慕って、伊勢丹に入社したが、そう簡単にバイヤーにはなれない。藤巻氏も遠い存在だった。華やかなファッションを扱う裏で地道に働いた。もう辞めようかと思ったことも少なからずある。だが、4年目、藤巻氏の下で働くようになってからは、中村の視野も、人格も、ネットワークも一気に広がっていく。
会社を辞めようとする中村を藤巻氏がいさめたこともあったそうだ。「伊勢丹は、そう簡単に首にならない。オレが守ってやるから、やりたいことをやれ」と。とはいえ、やりたいことはない。しゅん巡。だが、できることはある、と気づいた。
「それからです。金曜日はノー残業にしてもらって、僕にできるパーティーを毎週、開いたんです」。いっけん意味のないようにも思える。だが、さまざまな人が集まり、人脈がさらに広がっていく。その一つひとつが財産になり、そののち、中村の人生をかえる仕事にも出会っていくことになる。
中村、30歳。藤巻氏が伊勢丹を去ると同時に、中村も独立する。豊富な人脈だけを頼りにしたわけではなかった。いままでコンプレックスだった移ろいやすい性格が、実は強みだと思えるようになっていたからだ。
その公式は、1×100。

1×100の公式。

いままでコンプレックスだったことが、逆に強みと知った。教えてくれたのは中村作の1×100の公式。
「いままで僕は、スペシャリストな生き方ができないことがコンプレックスになっていたんです。でも、ある時気づいたんです。かりにスペシャリストが100のちからを持っていたとします。でも、一つのものに対してですから100×1です。もちろん100を200、300にする人もいるでしょうが、私はたった1のちからしかなくても、100、200、300と『×』ものを数多く持てば同じじゃないかと。これなら負けないと思えるようになったんです」。
ミーハーといえば、どちらかといえば軽い人格を想像する。だが、ミーハーも徹すれば、ただのミーハーではなくなる。貪欲な好奇心、明晰な頭脳、類い稀な行動力が一つにつながった。1×100。父に鍛えられてきた好奇心旺盛な少年は、未来をつくる公式を編み出した。

トランジットジェネラルオフィス、設立。

株式会社トランジットジェネラルオフィス設立後の中村は、さまざまなところで取り上げられているから、ご存じの人も多いだろう。カフェブームを先導した「Sign」などの経営、カフェからホテル、マンションなどの空間プロデュース、「メルセデス・ベンツ」や「ディーゼル」などのブランドカフェの運営でも知られている。
そんな中村を更に有名にしたのが「世界一美味しい朝食と言われる<bills>」である。billsとは、鎌倉・七里ヶ浜にある商業施設WEEKENDHOUSE ALLEYのテナントを探している時に出会った。
「パンケーキに魅了された」と中村。さっそくオーナーに打診し、そのテナントに1号店をリリース。のちにPRを担当していたサニーサイドアップとトランジットジェネラルオフィスが共同出資し、権利を買い取ることになる。足早に2号店、3号店、4号店が生まれる。
「2008年3月に鎌倉・七里ヶ浜に海外初出店でもある日本1号店をオープン。2010年3月に横浜・赤レンガ倉庫に2号店を、そして2011年7月には東京・お台場に3号店をオープンしました」となっている。そして、2012年9月、現在では4号店が表参道に誕生している。
世界から良いものを仕入れ、広める。ある意味、バイヤーの仕事。時代を先取りするためには、ファッションセンスも抜きには語れないだろう。だが、それ以上に100の興味を持ち、敏感で洗練されたアンテナを持つ中村だからピックアップできたのが「bills」という新しい食文化だったといえるのではないだろうか。

海外展開と次の「1」探し。

TVや広告代理店などに就職はしなかったが、いまでは業界人というイメージもある。それほど名も知れた人気者だ。豊富な人脈が、戦略に広がりを与えてもいる。オペレーションを委託されている店舗も含め、経営・運営する店舗はすべて順調だ。
「私がいなくても、店は回る」というぐらい、人材も揃った。その一方で、自らはお得意の情報収集のために海外にもひんぱんに出かけている。今回のインタビューも多忙なスケジュールの合間で行われた。
雑誌やWEBの記事にもしばしば登場し「中村貞裕式 ミーハー仕事術」という本も出版した。
今後の展開を訪ねると、「bills」による海外展開という返答。いよいよ世界がミーハー中村の舞台になるのだろうか。同時に次の「1」探しも怠れない、といって笑う。
永遠にスペシャリストになれない男の、スペシャルな生き様をみた気がする。

思い出のアルバム
 

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