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第321回 キーコーヒー株式会社 代表取締役社長 柴田 裕氏
update 12/10/09
キーコーヒー株式会社
柴田 裕氏
キーコーヒー株式会社 代表取締役社長 柴田 裕氏
生年月日 1964年1月12日
プロフィール 神奈川県横浜市生まれ。大学を卒業後、キーコーヒー株式会社に入社。購買部門や営業部門での実務を積んだ後、総合企画室経営企画課長として上場プロジェクトに参加したことで意識変革が起こる。慶應義塾大学大学院経営管理研究科でMBAを取得する傍ら、交換留学生としてスペインのビジネススクールでも学んだ。復職後の業務用の大口・広域顧客を担当する営業部門の担当取締役等を経て2002年代表取締役社長に就任。同社広報・IR、CSRの推進役でもある。 ラテンミュージックを好み、大学時代より自らスペイン語を学ぶ。中南米へ出張した際も、日常会話程度なら話せるという。
企業HP http://www.keycoffee.co.jp/

大学3年。インドネシア、トアルコ トラジャの決意

1980年代半ばのある夏の日。青春時代のまっただ中にいた若き日の柴田裕社長は、インドネシアはスラウェシ島にあるトラジャの地に立っていた。
現在でも日本からは飛行機や車などを乗り継いで丸2日かかるトラジャには、キーコーヒーの直営農場がある。1973年から「幻の名品トラジャコーヒー」の再生事業に着手し、「トアルコ トラジャ」コーヒーを復活させたのだ。
すでにキーコーヒー社は栽培技術指導に乗り出しており、どんどんと新たな生産農家が広がっている時期だった。協力生産農家からその隣人へ、栽培者の父からその子へと栽培者は日に日に増えていた。
コーヒーは、苗を植えてからコーヒー豆の収穫に至るまでに3年から4年の歳月を要する。じっくり丹念に栽培し質の高い豆を生産する住民の姿を目の当たりにした柴田は、より多くの方々へトラジャコーヒーを広めていこうと決めた。一人の若者が、未来への照準を定めた瞬間だった。

創業した祖父

明治中期から、日本でもコーヒーを提供する店舗が増えはじめ、後期には東京・銀座に「プランタン」をはじめとした喫茶店が開店していた。中でもコーヒーの大衆化に最も貢献したのが「カフェ・パウリスタ」である。ブラジルコーヒーの販路拡大とPRのために開かれた喫茶店であった。
明治41年を境に日本からブラジルへ渡った移民の多くがコーヒー農園で働き、その報償としてブラジル政府から無償のコーヒー豆が提供された。その豆を用いたコーヒーを低価格で提供した「パウリスタ」は、最盛期で20数店舗。従業員も1000名を越えるほど繁盛することになる。
その「パウリスタ」で働いていた一人が、柴田の祖父にあたる柴田文次だった。コーヒーに計り知れない事業の可能性を見出した文次は、1920年(大正9年)、19歳で横浜市中区にキーコーヒー社の前身となる「コーヒー商 木村商店」を開業(その後、1928年(昭和3年)に木村コーヒー店に改称)。コーヒーの製造と販売、世界のコーヒーやコーヒー器具の紹介、さらにはコーヒーシロップなど関連商品の開発やコーヒー農園事業にまでをも手がけたのである。横浜で生まれ育ったゆえのハイカラさと、底知れぬ情熱やバイタリティを持つ創業者だった。

拡大した父

「木村商店」の礎を築いた創業者に代わり、その拡大を推し進めたのが、柴田の父である柴田博一であった。
本社機能を東京へ移転し整備。創業時からの商品ブランド「キーコーヒー」のさらなる拡販に本腰を入れた。時は、東京オリンピックや大阪万博に沸いた高度成長期。コーヒーの市場も、喫茶業務用から家庭用へと広がりを見せていた。
味覚や品質の向上、マーケットやライフスタイルに応じた新商品の開発、流通ネットワークの構築。企業として拡大し従業員は増える一方だったが、博一は何事においても自身が率先して動き、常に全国を飛びまわっていたという。
日本のコーヒー文化という新しい扉の鍵を開いた祖父。強い情熱をコーヒーに傾け、商店を企業にし、コーヒーの浸透と拡大という鍵を開いたのが父だった。

散々迷った学生時代

業績が拡大する企業の創業家に生れ育ったが、特にレールが敷かれていたわけではなかった。会社を継ぐように言われたこともなければ、経営者としての哲学など特別な教育を強いられたこともなかったという。父 博一は多忙を極めていたが、幼い頃は年1回は家族旅行をした。家庭の中に流れていたのは、どこにでもある普通の親子の時間であった。
学生時代の柴田は、商社への就職を検討していたことがある。先進国であろうが途上国であろうが、海外で異なる人や文化に触れるのが好きだった。仕事で各国をまわる商社のワークスタイルには、単純に惹かれた。趣味としてスペイン語も学びはじめたが、ビジネスにおける目論みがあるわけではなかった。
そんなときに訪れた、インドネシア・スラウェシ島「トアルコ トラジャ」を生産する直営農場。栽培されるコーヒーをより多くの日本人に広め、現地の栽培者にもさらに豊かになってもらう。商社でなくとも、憧れる仕事やそのスタイルが目の前に広がっていたのだ。

キーコーヒーを、もっと開かれた企業に

1994年以降社長を担った太田敬二氏から引き継ぎ、2002年7月に柴田が社長に就任した。当初からもっともこだわっていたのは、キーコーヒーをもっともっと開かれた自由な企業にすることだ。血は争えない。自らが動き回った。
2005年に同社は「イタリアントマト」、また2012年には洋菓子で有名な「アマンド」もグループ傘下に収めた。『独自の路線で、コーヒーをおいしく飲んでもらうためにこれからも歩んでいきたい。コーヒーだけでなく食事もするのなら、その食事も協力して手がけていきたい』とし、戦略的で友好的な合意に基づいている。
自家焙煎のカフェを出店したいという相談が相次ぎ、同社の世界的な産地ネットワークと調達ノウハウ、焙煎技術を注ぎ込んだ専用焙煎機を開発した。そして開業前開業後のサポートを行うSRS(ショップロースティングシステム)を展開している。さらにキーコーヒーブランドを貸した「キーズカフェ」もすでに10店舗を数える。今後も提携や協力には積極的に取り組んでいくつもりだ。
すさまじいスピードで時代が変化していく。だからこそ、今までになかった視点でもっともっとコーヒービジネスを捉えていく必要がある。『保守的なのは、コーヒーの品質や味だけですよ。それ以外はあらゆる可能性を模索しないと』とにこやかに話す表情が印象的だ。

次の世代の人材に対する期待

家庭用のコーヒーは、まだまだ伸ばしていける余地がある。では、どうすればいいのか。そんなことを、若い社員と真っすぐに向き合いフランクに話し合う。年齢が違うと感覚が大きく異なり、それがとてもおもしろいのだそうだ。
なお同社が開催するお取引先などに方針を発表する会では、若手社員が壇上に立ち、自らの仕事ぶりを説明するコーナーなども設けられている。躍動感溢れる話には、多くのお取引先から声援をいただけるのだという。
さらに出張なども多く、海外での活躍を望む人材の確保も急務となってきた。海外経験のある人材に、新しい価値観やビジョンを見せられるのは非常に刺激的でおもしろい。
柴田の開かれた企業にするという目標は、まだまだゴールを迎えない。この情熱は、ますます燃え上がる一方のように見える。

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