有限会社ラーナー 代表取締役社長 橋本羅名(ハシモト ラナ)氏 | |
生年月日 | 1964年12月11日 |
プロフィール | 現在のバングラデシュ人民共和国に生まれる。22歳で来日すると、数々の仕事に精を出した。『闇市』を展開する(株)アバで働いたことを機に飲食ビジネスにめざめ、独立を果たす。葛飾区堀切の『和牛炭火焼肉 牛将』を皮切りに、現在では『もつ焼き とん将』と合わせて計3店舗、従業員10名を擁する会社へと成長させる。これとは別に、JBA(日本バングラデシュ協会)を設立。副理事として、両国の発展のために奔走中である。 |
主な業態 | 「とん将」「牛将」 |
企業HP | https://gyusyo.vitalize.co.jp/ |
軍事政権下、軍内部の権力闘争が繰り返される一方で民主化運動も勢いを増していた80年代のバングラディッシュ。内戦や幾度もの洪水災害から、国民の生活は混乱・疲弊の一途を辿っていた。
そんな祖国の閉塞感から脱して活路を見出すべく、ある男が羽田空港に降り立った。男は11人兄弟の第三子であり、長男であった。内戦による食糧不足で、兄弟の2人が命を落とすという苦い経験があり、なんとしても母を楽にさせてあげたい。兄弟の養育費用をまかなってやりたい。その一念に突き動かされ、言葉もわからぬままやってきた。1988年のことであった。
あれから24年。男はどんなに厳しい逆風の中にあっても祖国に残した家族への仕送りを怠らなかった。また、和食に対して独自の世界観を持ち、様々な食材やテイストを偏見なく取り入れる日本の豊かな食文化に魅了され、ゼロからビジネスの仕組みを学び、多くの協力のもとに開いた焼肉店を繁盛させるというサクセスストーリーを描いてきた。
現在、男はオーナーシェフとして一線に立つ傍ら、バングラディッシュでの魚の養殖事業や同国製輸出用アパレルを検品する企業も設立。また、貧しさからくる教育の不平等や識字率の低さを憂い、学校建設や給食制度の普及、さらには両国の留学生の支援活動にも情熱的に取り組んでいる。「日本が大好きです。ここに骨を埋めたいです。そしてバングラディッシュは祖国であり、兄弟が暮らしています。私は大切なこの二つの架け橋になりたいです」。今回は、流暢な日本語で熱く語る橋本羅名社長の軌跡を追う。
かつて、その地は異なる民族や宗教が共存し平和に暮らした。そして世界最大のマングローブ地帯が広がり、豊富な農水畜産資源に恵まれたことから、黄金の国と呼ばれた。しかし1947年、インドからパキスタンとして独立。そのパキスタンが1971年には東西に分裂し、現在のバングラディッシュができた。わずか20年あまりで二度の独立運動が勃発し、大きな混乱が国内を覆っていた。
パキスタン分裂時。首都ダッカから遠く南に位置するシルシャ村で、羅名の父は地域をまとめ、教育施設の整備に尽力した。銃を構える若い兵士に平和と学問の大切さを説き、国の将来を担う教育者へと育てた。母はそんな父を支え、たくさんの子供たちを育てた。国や地域を思う父の気持ち、家族を思う母の気持ちが、羅名の成長に与えた影響は計り知れない。
父の志しを継ぎ、羅名は勉学に勤しんだ。高校を卒業するとシルシャ村を離れ、単身でダッカのカレッジへ進む。学費や生活費は、住み込みで家庭教師をしながらすべて自分でまかなった。しかし疲弊する国の中に将来を描けないでいた。
「いつかはお父さんのように、人の役に立って感謝される仕事がしたかったです。たくさん勉強して自立したい、自分で会社をしたい。そのようにいろんな夢を見ていました。けれど家族の面倒を見なければいけない。その気持ちが強かったから日本に留学したのです。日本のことは、高校の頃に雑誌の記事を見て知っていました。ビビビッときたのです。だから、海外に行くならアメリカでもイギリスでもなく日本だと思っていたのです」。
合わせて1800ドルの来日費用は、叔父と姉が用立ててくれた。しかし言葉がわからないゆえに仕事に就くことが叶わず、その資金も早々に底を尽きそうになる。途方に暮れ新宿をさまよい歩いていたある日、羅名は自分と肌が同じ色の男に声をかけた。「どこに行けば働けますか? どうすれば稼げますか?」
声をかけた男の仲介で、羅名は小さなゴム工場での仕事にありついた。「本当にありがたかったです。大きな感謝です。だから私は、朝は誰よりも早く、夜は誰よりも遅くまでガンバッタ」。勤勉に働いたことで、社長や社員からとても親切にしてもらったという。
また、工場から出される弁当や友人宅に招かれ出される料理を、羅名は必ず残さずに平らげた。実は、バングラディッシュの羅名の家庭はイスラム教を信仰している。そのため豚肉は食べない。ラマダーンの間は断食も行う。しかし羅名はこれら一切を日本の生活に持ち込まなかったのだ。なんでも美味く食べ、同じように行動し、周囲の日本人たちと気持ちを重ねようとしたのである。
「イスラムの教えどおり牛は食べるけど豚は食べないなんてことをやれば、いつまでたっても日本に溶け込めないです。それは対立になるかもしれないです。私は日本が大好きです。食事は美味しいです。私は節操がないかもしれない。バカかもしれない。でも私は日本で生きていこうと決めたから、日本の生活に倣いました。日本人に感謝していましたから、まったく苦ではないです」。羅名はすでに日本人と同化し生きていく決意を固めていた。ちなみにこの後、羅名は日本人女性と結ばれる。その円満の秘訣を「女房に感謝します。そして私自身を無にします。家族と一緒がいちばん幸せだから、私はそれが苦ではない。」とも語っている。
ゴム工場での8年間の勤務を経て、結婚を機に上野の焼肉店で1年間勤務。次に川崎の『闇市』に職場を変えた。同店を運営するアバ社は日に日に勢いを増しており、羅名は店舗作業からメニューやレシピ、店と人のマネージメントに至るまで、様々なことを学んだ。数年後、退職の決意を固めた羅名は、独立して自分の店を出したいと願い出た。同社の徳永社長は快く了承しエールを送ってくれたそうだ。
「私はバカかもしれない。けれど子供の頃からいろんなことしたい、できるようになりたいと思ってきました。自分で会社をしたいという気持ちもありました。だから徳永さんへの感謝を忘れずに、やると決めました」。
自宅で焼肉のタレやサラダのドレッシング作りに励む羅名がいた。数種類つくっては、近所の日本人たちを招き、焼肉と酒を振舞う。彼らの反応を見ながら、必要な改良を加えた。そうしてメニューや材料と原価を固める一方で、物件を探し、事業計画書を練る。当然、自己資金はなく、融資の保証人探しにも奔走する。
「事業計画書を持ち、駅前で道行く人たちに保証人になってくださいとお願いしていました。ある日、それを見かねた見知らぬ人が、お知り合いの元へ私を連れて行ってくれたのです。外国とのビジネスを通して、その繋がりを大切にされている方でした。その方が保証人を引き受けてくださって銀行から融資を受け、堀切に『和牛炭火焼肉 牛将』を出しました。こうした日本の社会のシステム、経済や融資のシステムは本当に素晴しいです。バングラディッシュではこうはいかないです。そして日本人は本当に親切です」
2001年6月11日、和牛炭火焼肉 牛将はオープンした。ホルモン中心のリーズナブルな価格と、下町という立地がぴったりとマッチしていた。また『日本唯一のバングラ人オーナーシェフ』という謳い文句も話題を呼び、牛将はいきなり繁盛店となる。売上は1日に軽く10万円にも達した。
朝から食材の買い付けに出かけ、店に入ると網を洗い料理を仕込んで、開店すると多くの客の対応に追われる。深夜にようやく帰宅し湯船に浸かると、睡魔に襲われて溺れることも珍しくはなかったという。それ以来、羅名が湯船で溺れないようにと、今でも入浴の際は妻が見張ってくれているのだそうだ。
しかしオープンからわずか3ヵ月後、突然の不運が襲った。日本国内に戦慄が走った、狂牛病のニュースである。国内でのBSE発症が確認され、昼夜を問わずメディアがそれを伝えるようになると、客足はピタリと止んだ。牛将の一日の売上は一気に5000円程度にまで落ち込んだのである。
「本当に苦しい時期でした。でも私は従業員を解雇しなかったです。中には外国人留学生もいました。彼らの苦労を私はよく知っているから、私は貯金を崩してそのまま給料を払っていました」。もちろんその間、実家への仕送りは絶やさず、また保証人に面倒をかけることもなかったのは言うまでもない。逃げない、それが羅名のケジメだ。
牛の個体識別システムの義務付けが強化され、BSE騒動は収束に向かうと、下町の常連客が集まり牛将は以前のにぎわいを取り戻した。しかし牛肉だけに偏ることにリスクを感じた羅名は、やがてエスニックの『アジアンダイニング サヘラ』や豚のもつ料理をメインにした『とん将』をオープンさせる。
当然、それ以降が順調だったわけではない。飲食の業態はブームに激しく左右される。そしてリーマンショックがあり、その傷が癒えると、今度は大震災と原発事故。そして記憶に新しいのが、直接的な影響の大きい生肉提供の禁止だ。山が来ても、その後きちんと谷が訪れる。「でも私は新しいアイデアをつくっていくのが好きです。そしてこの仕事が大好きです。家族が大好きです。だから下っても、また真面目にがんばって上っていきます」。
そんな笑顔の羅名にこんな質問をぶつけてみた。ビジネスで一定の成功を修めた。その蓄えを持って祖国に帰ることを考えたことはないのか。「私の成長を支えてくれたのは日本です。原発事故で汚染などと騒がれましたが、私は日本から逃げることを考えたことはない。ぜんぜんない。この先なにをするにも、私が戻るところは日本です」。
最後にもう一つ、夢を訊いた。「幼い頃、茶碗一杯のご飯を兄弟で分けあうことがありました。それは変わらず、バングラディッシュはたくさんの困難を抱えた世界の最貧国の一つです。私はそこから目を背けるわけにはいかないです。できることはなんでもしたいです。私はいま向こうで魚の養殖にも取り組んでいます。いつかは祖国の魚を日本人に美味しく食べてもらいたいです。喜んでもらいたいです。そうやってバングラディッシュにも新しい産業を作りたいです」。その答えに漲る力強さが、言いようもなくうれしかった。
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