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第325回 株式会社トリドール 代表取締役社長 粟田貴也氏
update 12/10/23
株式会社トリドール
粟田貴也氏
株式会社トリドール 代表取締役社長 粟田貴也氏
生年月日 1961年10月28日
プロフィール 神戸市に生まれる。3歳の時に加古川へ。小学6年生の時に父親を亡くし、兄と共に母を助け生計を立てる。学生時代のアルバイトがきっかけで飲食に惹かれ、起業に向け舵を切る。神戸外語大学、中退。運送会社で資金を獲得。1985年、焼鳥店「トリドール三番館」を開業。加古川を中心に店舗展開を開始する。2000年、セルフ式讃岐うどん専門店「丸亀製麺」をリリース。以降「丸亀製麺」を中心に年間100店舗以上のペースで出店をつづけ、2011年5月には全都道府県への出店を達成。同年8月には2000年以降の国内外食チェーン史上最速で500店舗を達成する。2011年4月の海外初出店以降は、積極的な海外進出を図っている。2011年3月 第5回「IPO大賞」グロース部門受賞 (社団法人関東ニュービジネス協議会主催)、2011年7月 香川県丸亀市文化観光大使に就任。
主な業態 「とりどーる」「丸亀製麺」「長田本庄軒」「丸醤屋」など
企業HP http://www.toridoll.com/

国内700店以上、海外にも多数出店する巨大なフードカンパニー。

「豊かになろうと思っていましたね」。飾らず直截に語ってくれたのは、いまや業界の注目株、「丸亀製麺」を展開するトリドール社長、粟田貴也である。2011年の出店数は国内だけで約100店舗を数え、米国ハワイの1号店を皮切りにタイ、中国、ロシア、台湾、韓国など海外出店も行い、いまなお海外進出の速度を速めている。
「できたて」「手づくり」「臨場感」がトリドールのテーマ。「丸亀製麺」に足を踏み入れた時に見渡せるオープンキッチンの臨場感は、演出の域を超えている。
ちなみに、この「丸亀製麺」が誕生したのは意外と近年で2000年のこと。「手探りだった」と粟田はオープン当時を振り返るが、この12年で店舗数は国内だけで630店以上。2013年度にも国内において130店舗の出店を計画。一方、海外でも更なる出店を計画している。
小商圏で成立するビジネスモデルとはいえ、かつて日本中を席巻したファミリーレストランやファストフードに匹敵するいきおいに脱帽するばかりだ。
特に従来、チェーン展開のセオリーだったセントラルキッチン方式を取り入れていない点が注目されている。「丸亀製麺」では、天候によって左右されるデリケートな製麺まで各店舗で行っている。このこだわりが、お客さまからの高い評価となって返ってきた。「できたて」を食べてほしいという素直な思いが、セオリーまで打ち破ったことになる。
では改めて、この「丸亀製麺」の生みの親でもある、株式会社トリドール 代表取締役社長、粟田の足跡を追いかけてみることにしよう。

少年、粟田の「リアル」。

生まれは、神戸。3歳で加古川に引っ越して以来、加古川っ子を通している。父は警察官。兄が1人の次男で、4人家族。父の生まれ故郷は香川県丸亀市で、小さな頃は毎年のように田舎に帰っていたそうだ。
のちにブランド名にも添えることになる父の生まれ故郷「丸亀市」は、香川県の中西部に位置する都市である。東には讃岐富士と呼ばれる飯野山が聳えている。少年粟田は、加古川はもちろん丸亀でも、おおいに遊んだことだろう。
公務員の父を持ち何不自由のない生活を送っていたが、小学6年生の時、突然父親が病に倒れ、亡くなってしまう。以来、状況がいっぺん。生活もとたんに苦しくなった。
「母はからだが弱く、フルタイムで仕事ができなかったこともあって生活保護に頼り、私たち兄弟も奨学金をもらいに行政の窓口に通いました。子ども心にリアルに『生きていくのはたいへんだな』『はたらくってたいへんだな』と感じたのは、この頃です」。
「豊かになりたい」「不自由のない暮らしを送りたい」。少年粟田の夢は、同年代の少年たちが描く夢よりも遥かに現実的な色彩をしていた。

バレーと生徒会長とアルバイト。

大人になれば資産のある・なしが人物を評価する目安になりがちだ。だが、子どもたちは違う。もっと純粋だ。お金はなかったが、粟田は頭も良く、信望もあった。中学、高校と生徒会長を務めている。
中学時代は、バレー部に所属。コートで汗を流した。アルバイトを開始したのは、高校に入ってから。勉強はそっちのけで、アルバイトに精をだす。
とはいえ、楽しかったわけではない。「針が動かんのです」と粟田。針というのは、時計の針のことで、バイトをしている最中には、秒針さえ重い鎖につながれているようだったという。
「工場で流れ作業をしていました。お金儲けの手段と割り切っても苦痛で。慣れていないこともあったし、まだ高校生ということもあったんでしょう。とにかく針が動かなかったんです(笑)」。
「生きるのはたいへんだ」。実際にはたらくことで、より一層、痛感した。大学進学も失敗。「まぁ、勉強していませんでしたからね。あきません」。周りからみれば、粟田はリーダーシップがあり、頼りがいのある男に思えていたのかもしれないが、さえないことばかりだった。

20代の決断。

母の勧めもあり、秋採用で父や兄と同じ警官をめざした。無事採用されたが、結局、1年浪人して大学進学の道を選んだ。神戸外語大学の夜間。いろんな人間がいた。アルバイトにももちろん精をだした。その時、出会ったのがあるケーキ屋の店主。
店主になるのも、悪くないと思った。「起業」。まだ不確かだが、起業の二文字が頭に浮かんだのはこの頃。ケーキ職人をめざしもしたが、人と接する楽しみも知った。起業が明確な目標となる。
大学を2年で中退し、起業に向け次の一歩を踏み出した。20代の決断である。といっても、開業資金はない。あるのは、志のみ。まず資金を手当てしなければ話にならなかった。 
当時、まったくの未経験者にできる資金獲得の道は、そう多くない。新聞に掲載されていた広告を頼りにある運送会社に就職する。
早くゴールに到達するための回り道だった。しかし、生半可な気持ちでは務まらないとも思っていた。「私は弱い人間だから」と、自らを追い詰めるように入寮を決意。
ハードワークの代わりに手取りで45万円を超える給与が貰えた。仕事に疲れ、月1度か2度かの休日は爆睡。もちろん遊ぶ暇もない。唯一の贅沢が「赤提灯」だった。この「赤提灯」が、もう一つの選択肢となった。ケーキ屋もいいが、これもまたいい。方向転換。「ケーキはひとつ数百円でしょ。赤提灯なら1度行けばだいたい2000円ぐらいは使います。そろばんを弾いても、こちらがいいと思ったんです」。

「yakitori Tori doll三番館」、オープン。

「300万円ほどの貯蓄ができたこともあって思い切って退職し、今度は炉端店で料理の勉強をはじめました」。およそ1年。「串」を中心に学んでいく。焼き鳥をメインにしようと考えていたからだ。
開業は、地の利もある加古川に決めていた。1986年、加古川に出した8坪の店。これがトリドールの1号店である。
初期費用600万円。家賃は月8万円。すでに結婚していた粟田は3つの店が持てたらいいなと、店名を「Tori doll三番館」とした。この時、粟田が木に墨で手書きした看板は、いまも本社に掲げられている。
いま思えば3店舗とはささやかな目標だが、当時の粟田にとっては遥かな挑戦に思えたことだろう。むろん、自信がなかったわけではない。どちらかと言えば、これは粟田の性格によるものだ。控えめといえばいいのだろうか。それとも、小さな頃からみてきた現実が、過剰な目標を掲げることを許さなかったのだろうか。
ともあれ、粟田、初出店。オープン初日はある程度は賑わった。「しかし、これはオープンセールによるものでした。2日目からはさっぱりです」。お客さまが来ない。3店舗どころか1号店も風前の灯だった。

起業家となった粟田がみた現実。

何日たっても、8坪の店はガラガラだった。「辛抱だ」と言い聞かせても、心が折れてしかたなかった。十分なリサーチもせず出店したことを悔やんだこともあったろう。
「材料費と家賃を払って、なんとか夫婦2人食べることはできましたが、まんじりともできない夜が続きました」。明日はお客様が来てくださるだろう。明日は…。
だが、かすかな希望も消え、朝を迎えるのが怖くなった。打つ手は、打った。リピーターになってもらえるよう1000円にも満たないお客様も大事にした。3ヵ月後には、深夜の営業も開始した。これで少し持ち直す。周りの店舗がシャッターを下ろした真夜中過ぎになって、ポツポツと客が入ったからだ。それでも、一息つけるまで半年以上かかっている。日数でいえば、183日。気が遠くなる日々を振り返る度に、「いまでもそら恐ろしくなる」と深いため息をつきながら、粟田は振り返る。
閑古鳥が鳴いていた店に行列ができるようになったのは、女性客にターゲットを絞り、ブームになりつつあった「チュウハイ」を取り入れてからだ。3店舗と考えていた店舗数もそれ以上になった。郊外に大型店も出店する。「加古川」という立地も幸いした。競合店が少なかったからだ。だが、そのことに気づかなかった。有頂天にもなっていた。しかし、ブームはいつか去る。三度、粟田は現実をみることになった。

できたて、手づくり、臨場感。

戦略を大事にする人もいる。だが、所詮、心のない戦略に意味はない。流行の上澄みをすくい上げただけでは、劣るコピー店でしかありえないのと同じだ。
根幹となる理念。三度、現実を直視することになった粟田は、この理念に行きつくことになる。女性客のブームが去っても、周りにはたくさんのファミリーがいる。地域にはたくさんの人がいる。ならば、その人たちが喜んでくれる店をつくろう。「大衆性」という理念が生まれたのはこの時である。同時に粟田は、「小商圏対応」「普遍性」という2つの考えを理念に加えた。「できたて」「手づくり」「臨場感」が、テーマとなったのもこの時である。
その理念を根幹に生まれたのが、家族が楽しめる「焼き鳥ファミリーダイニング とりどーる」。むろん、この理念とテーマは、爆発的なヒット業態となった「丸亀製麺」にも引き継がれていく。
かつてケンタッキーフライドチキンの初代店長であり、のちに社長ともなる大河原毅氏(現、株式会社ジェーシー・コムサ代表取締役CEO)を取材した時に、彼はケンタッキーの根幹に流れる思いを語ってくれた。カーネル・サンダース氏が大事にした「新鮮さ」ということである。だから、いまもケンタッキーは国産鶏にこだわる。
それと同様のこだわりを「丸亀製麺」でもみた気がした。3つの理念はもちろん、「できたて」「手づくり」「臨場感」を実現するために、非効率を承知で、セルフ方式であるにもかかわらず多くのスタッフを配置し、店内での製麺に踏み切っているからだ。

日本のおもてなしを輸出する。

1970年初頭、前述のケンタッキーやマクドナルドなどが誕生し、アメリカ生まれの先進的なフードビジネスの風が日本で吹き荒れた。同時に科学的な経営手法を導入した、ファミリーレストランなどが登場してくる。
それから40数年。さまざまな外食企業が誕生し、時代に揉まれ、浮沈を繰り返した。しかし、チェーン店ということだけでいえば、セントラルキッチンという手法は守られてきたはずだ。しかし、トリドールによってチェーン化のセオリーは破られた気がする。
「できたて」「手づくり」「臨場感」、優先すべきはこの3点。そして実現したいのは「お客様の笑顔」である。
日本で大成功を収めた「丸亀製麺」は、国内1000店舗を掲げるとともに、海外進出にも積極的に打ってでる。すでに、多数の国に出店したことはすでに書いた通りだ。すでに多くの企業が世界進出を試みているが、成功例は意外に少ない。「丸亀製麺」は、その数少ない成功例に入ることは間違いないだろう。
「3店舗を」と夢見た青年が掲げる世界戦略。それは、リアルな目標に違いないからだ。日本の「おもてなし」を世界へ。戦いは、いまからが本番かもしれない。
最後にこれは推測もたぶんに含むのだが、「丸亀製麺」ではいま多くの年配女性がイキイキと働いている。1店舗にのべ30人。1店舗出店すれば、それだけの雇用が生まれる。雇用に貢献できている、と誇る社員もいる。
ひょっとすれば、これもまた粟田の実現したかったことの一つではなかったか。そこに自分たち兄弟を育ててくれた母の姿をみるからだ。

思い出のアルバム
 

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