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第328回 株式会社クレア 代表取締役社長 町田典子氏
update 12/11/06
株式会社クレア
町田典子氏
株式会社クレア 代表取締役社長 町田典子氏
生年月日 1936年生まれ
プロフィール 軍人であった父のもと、1936年に埼玉県で生まれる。ほどなく満州へわたり、幼少期を過ごした。戦後の混乱を生き抜き、高校卒業後は有名百貨店に就職したが、憧れからNHKの俳優養成所にも通った。1983年、株式会社クレアを創業。時を同じく開業した八王子駅ビルのそごうに「カフェ・ド・クレア」1号店をオープン。以来、駅ビルを中心に直営68店舗を展開。カフェ、レストラン、イタリアン、和食、そば、ステーキなど多彩な業態で洗練された感性とこだわりで女性層に人気の店づくりを目指す。社団法人ニュービジネス協議会レディスアントレプレナー賞受賞。
・八王子商工会議所 常議員
・八王子商工会議所 女性経営者の会「シルクレイズ」会長
・一般財団法人 八月十五日の会理事
主な業態 「カフェ・ド・クレア」「スピガ」「笹陣」「越後そば」「凛や」「ベリーグッドマン」など
企業HP http://www.clea.co.jp/

Yu’s Bar(ユーズバー)という挑戦

若き日の町田典子社長は、芸能界に憧れていたことがある。NHKの俳優養成所で学びながら、華やかな世界とは裏腹の厳しい内側を観察した。きっかけを求め、人との出会いを大切にしていたが、そのなかにいた一人が石原裕次郎氏であった。
町田は石原氏が主演する映画はほとんどすべてを鑑賞しており、多くのグッズも収集していた。「一ファンとして集めてきましたが、いま運営しているギャラリーに展示しておりますポスターやグッズは、私が所有していたものがほとんどです」と微笑む。
没後25年。しかし、昭和の大スター・石原裕次郎氏の人気は今なお衰えることがない。そこに、町田のストーリー構築思考が働いたのである。「ファン同士が語らう場所をつくりたい。この空間で裕次郎さんを語り継がれればうれしい」。その想いが伝わって、今では石原プロモーション・まき子夫人も応援してくれている。
まき子夫人が命名したYu’s Barは、2009年に八王子にオープンした。ストーリーを持たせた新たな挑戦が、またひとつ形になった。ギャラリーを併設したバーは宣伝をしなくとも個人のブログや口コミで広がり、町田が願ったとおりにファンが集ってくつろぐようになった。現在は石原裕次郎氏ゆかりの地、東京銀座に2号店を出店している。

激動の幼少期

町田は、1936年に埼玉県で生まれた。軍人の父を持ち、ほどなく満州へわたって幼少期を過ごすことになる。上級軍人の家庭で、当初はお嬢様扱いをされていたが、戦況の悪化とともに苦難の時代がはじまった。
終戦を迎えたのは満州国吉林。移動する汽車の中だった。「日本人は全員電車を降りなさい」と命令され、集会所へ連れていかれた。そこで天皇勅語を訊いた。兵隊や大人たちが泣き崩れている姿を見て、ただならぬことが起きたとだけ悟ったことを覚えている。
その後、何十万という兵士が極寒のシベリアに抑留された。当然、父もその一人であったが運良く父は脱走し、中国人に助けられ、家族と一緒に日本に戻ることができた。終戦から1年3ヵ月がすぎた頃だった。町田はまだわずか9歳であったが、後に命がけで脱出した当時の記憶を『遥かなる満州』という著書にしたためた。

戦後を生き抜いて得た力

なんとか帰国は果たせたが、町田は幼い兄弟とともに親戚に預けられることになる。食料がない時代だ。食べ盛りの妹や弟のために、自分の分も分け与えた。まさに招かざる客だったのだ。
父は1年間、ブローカーのような仕事をしていた。町田は今でも父への尊敬と感謝の念を忘れない。父のおかげで、帰国から1年後、ようやく待ち望んだ家族での暮らしが再開できた。どれほどの苦難があっても、父は強かった。
母は厳しさと優しさ、そして大きな愛で、いつも家庭を包んでくれていた。献身的で、軍人の父が急遽仲間を家に呼んでも、きちんと接待するしっかり者だ。そしてなにより、自分たちを満州から日本につれて帰ってくれたことを、町田は一日たりとも忘れたことはない。
そんな戦争体験があるからこそ、「あの試練を乗り越えられた私だから、と自分を鼓舞し頑張ってきた」と笑顔を浮かべるのが印象的だ。戦後を知らない人が増えているが、ものが溢れる一方で先の見えないこの時代を生きる多くの人にとって、町田は極めて貴重な見本であるといってもいいだろう。

切り開き、乗り越える

高校を卒業した町田は、銀座「松坂屋」に就職した。当時、百貨店といえば女性の花形職業である。しかし配属されたのは経理部統計係。表向きの華やかさとは違って古い別館で職場環境も良くなく、夢と現実の厳しさを知った。
同期入社は50名ほどだったが、1年後には半数近い人が辞めた。ここで町田の負けず嫌いが炸裂する。「今、自分に与えられた舞台は常に“ベスト”だと思うことです。嫌々働くのと、何でも学ぼうと思い働くのとでは、成果がまったく変わります」。
町田は人の嫌がる仕事を率先し、手が足りない部署や店舗の応援なども積極的に手を挙げた。「たとえそれが端から見ると馬鹿げた行為と言われても、明るく積極的に取り組めば、必ず新しい道を自ら切り開いていける。自ずといい結果に結びつくものです」。
明るく前向きに考えられるのも満州での経験のおかげであり、受け継がれてきた命だからこそ大事にしたい。常にそう考え自身を奮い起こす。自らを、幼い頃の体験になぞって「大陸的な性格」と言うが、この頃すでに不屈のチャレンジ精神と勇気が宿っていたのだ。

カフェの出店。経営者に

百貨店出身の町田は、最初はファッション店を開いて独立することも考えたが、最終的にはカフェを出店することになった。父の実家が酒蔵をやっていたので、そこに飲食業にまつわるルーツがあるのかもしれない。時に1983年のことである。
出店地となった八王子の駅ビルだが、当時はまだ国鉄の時代。八王子もまだ保守的で、取引銀行からは『ガラス張りの喫茶店など…』と大変な抵抗があったそうだ。しかしその数年前、ドトールコーヒーの鳥羽会長とヨーロッパのカフェを視察し、新しいスタイルのカフェは今後日本でも評価されると確信。揺るぎない決意で、反対勢力を説得して回ったのだ。
いざオープンすると予想以上の反響で、売り上げは見込みを大きく上回った。見て聞いて知ったことに挑戦し、時をかけてそれが確信に変わる。それが自信というものだ。知人や友人、多くの支援者の叱咤激励を受けて、町田の快進撃ストーリーがはじまった瞬間だった。

いつか、中国と日本のミュージアムをつくりたい

町田が率いる株式会社クレアは、カフェ・ド・クレアをはじめ和食・洋食・そば・ステーキ等の多彩な業態の店舗を出店し、現在68店舗を展開している。男性社員の登用も多くなってきているが、創業当時から大切にしてきた女性らしさで、今でも1店舗1店舗丁寧に手作りすることにこだわっている。
2013年になると、株式会社クレアは創業30周年だ。町田の人を喜ばせようとする姿勢は今なお衰えない。外食を文化として捉え、そこに時代にマッチしたストーリー性や価値感をプラスした新しい文化を、これからも次々と築きあげていこうとしている。
また、町田は自らが生きた「証し」として、戦争当時の貴重な資料を風化ないためのミュージアムをつくりたいという夢も温めている。
「あの当時の辛さ、苦しさを思えば、どんな困難も乗り越えられる」。この時代の困難は、町田にとっては楽しみながら乗り越えるものであって、困難ですらないのかもしれない。

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