インターナショナル青和株式会社 代表取締役 竹内秀夫氏 | |
生年月日 | 1945年、東京都生まれ。 |
プロフィール | 学習院大学法学部政治学科卒業後、アルゼンチンに渡り骨董品の売買業などに携わる。 帰国後、父親が経営する卸会社を継ぎ、1976年にインターナショナル青和株式会社設立。 現在、フランス料理「表参道banboo」、スペイン料理「小笠原伯爵邸」、イタリア料理「Albergobamboo」を経営。 |
主な業態 | 「表参道banboo」「小笠原伯爵邸」「Albergobamboo」 |
企業HP | http://www.bamboo.co.jp/ |
トータルを見た上でディテールにこだわっていく。これは竹内氏が自然と身につけていった経営手法であり、従業員にも是非つけて欲しい力だという。例えばレストランのサービス職、料理人も、お店の経営状態を把握したその上で自らの職を全うする。そうすることによってマネージャーになった時、また独立に際しても役立つことは多い。
話は1960年代に遡る。高校生の竹内氏は、東京オリンピックのチケット販売で得たお金を資金に、骨董通り(青山)でパブを始める。日本酒、ビール、ウィスキーに煮込みとパスタ。5つのメニューはすべてが250円均一。夕方6時から翌朝6時までの12時間営業で、同伴の待ち合わせをするホステスや、銀座のクラブから流れてくる客たちが常連となり店は繁盛。1日5万円を売上げた。当時の大卒初任給が約1万4000円。高校生の竹内氏は親からお小遣いとして2000円もらっていたが「ついつい催促するのを忘れた」という。それはそうだろう。そのパブは4カ月で売ってしまったというが、とても高校生とは思えない“経営”をやってのけている。
トータルを見た上でディテールを定める。竹内氏はそれを高校生の頃からやっていたことになる。世の中のパブの歩調に自分の店を合わせるのではなく、客層やその客層のニーズで営業時間やメニューを決めていく。もうこの頃からサラリーマンになろうという発想はなかった。
小さい頃から小柄で泣き虫だった竹内氏は、仲良しの幼馴染みの女の子に守ってもらういわゆるおぼっちゃまタイプ。中学入学と同時に別々の学校になってからは、強いヤツを見つけてはそこについていく役回りとなり自分の身を守った。
周りを巻き込んでグイグイ引っ張っていくリーダーになったのは高校生になってから。例えば前述した東京オリンピックのチケット販売だが、手元にあったチケットがダフ屋に倍の金額で売れたのをきっかけに仲間に呼びかけ、多額の利益を上げることに成功している。
「大学を出たら会社を継げ」。父親の願いはそうだったが、竹内氏にその気はなかった。理由は「この会社はダメになる」と感じていたからだった。大学時代竹内氏は父親の会社で通関業務などのアルバイトをするが、なんともおっとり、暇を持て余すように働く従業員を見て驚く。「サラリーマンって何なんだ?」。もっときちんと役割分担し効率良く仕事をすればいいじゃないか。大学生の目から見ても危機感のない働きぶりに、自分の居場所はここではないと感じるようになる。「日本から一番遠い所に行ってやれ!」。卒業と同時に旅立った先はアルゼンチンだった。
しかしアルバイトで経験した通関業務が遠い異国の地で役立つ。3日の間にランチの料金が3倍にも値上がりしてしまう超インフレにあったアルゼンチンで骨董品ビジネスに関わり日本に帰国。二足三文と思える骨董品が飛ぶように売れ、ここでもまた多額の利益を得る。好きにやらせてもらったのだからいよいよ、と思ったのか「親父の会社を優良企業にする人生も悪くないか」と、企業経営というビジネスに関わっていくことになる。
石油製品などの卸業を営んでいた父親の会社は、それこそ倒産はしなかったものの多額の使途不明金があるなど内情はメチャクチャだった。竹内氏は取引先を訪ねては「お互いの存続のために取引を続けましょう」と、半ば“柔かな脅し”ともとれる作戦で危機を乗り越える。
そんな中で竹内氏が興味を持ったのが、子会社が経営する大手町の喫茶店だった。当初月60万円の赤字を出す店だったが、内装を変え、夜はお酒を出すパブにリニューアルし黒字化に成功。銀行の信用もつき融資も軌道に乗り、半年で月40万円の黒字を生むお店へと変身していった。これが竹内氏が飲食の世界で台頭していくきっかけとなる。竹内氏は現在、ミュシュランガイド東京で2年連続星を獲得しているスペイン料理の「小笠原伯爵邸」をはじめ、フランス料理「表参道banboo」、イタリア料理「Albergobamboo」の経営者でもある。
料理の形態や出店の土地柄が異なるレストラン経営を行う竹内氏は、美味しさ、雰囲気、適正価格など、いわゆるチェーン店では出せない店舗特徴にこだわりを持っている。しかし「僕は料理もサービスもできないし、現場ではまったく役立たない人間」と言い、プロフェッショナルな社員たちに現場を任せている。
「父親の言う通りに大学卒業と同時に会社を継いでいたらどうなってたろうね」。そう振り返る竹内氏は、やはり自分の代で会社が潰れてしまうこと、経営者として実力がないと世間から思われることがイヤだったし、父親に負けたくないという思いが強かったという。そしてその夢が果たせた今は、次世代を担う人材を育てることが夢だという。
冒頭で「トータルを見た上でディテールにこだわる」経営手法に触れたが、竹内氏は社員にもそれを期待している。「仕事に真摯に取り組む姿勢は大切だけれど、やはりそれだけでは次のステップには上がれない。いずれ幹部、独立を目指すなら、お店の経営状態、数字を見る目を養って、それプラスサービスや料理人としての腕を上げておくべきだろう」。竹内氏が経営するレストランを学びの場として、飲食の世界の次世代を担う人材を育てることも自分の使命とも考えている。
チケットの転売で多額の利益を得た高校生時代、その仲間とパブを経営した高校生時代、そしていきなりのアルゼンチン行き…。破天荒な生き方をしてきた背景を「危機が迫ると知恵が働く“体質”」と言い切る。また「目標があったから辛いと思ったことはなかったし、明るく前向きに生きることができた」ともいう。マニュアル通りの生き方に背を向けて来た人生、誰かが敷いたレールの上を走ってこなかった人生は、人の多様性に寛容さを生む。今後の竹内氏の経営はもちろんだが、ユニークで独自性のある採用、そして人材育成にも注目しておきたい。
16歳 アメリカ留学時代 | 学習院ヨット部にて | 初めてのヨーロッパ旅行 |
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