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第331回 株式会社ルーツ 代表取締役社長 大浜泰広氏
update 12/11/13
株式会社ルーツ
大浜泰広氏
株式会社ルーツ 代表取締役社長 大浜泰広氏
生年月日 1972年10月2日
プロフィール 東京出身。3人姉弟の末っ子。飲食のバイトにハマり、高校を中退。19歳で旬鮮酒場「天狗」を経営するテンアライド(株)に就職。恩師ともいえる店長に見いだされ、22歳で店長に。当時の最年少店長となる。4年間勤務し、宅配事業、イタリア料理店を経て、とらふぐ料理専門店「玄品ふぐ」を経営する(株)関門海に入社。役員にまで昇進するが、2007年、退職。同年、株式会社ルーツを設立し、のちに「たいやき」ブームをつくったと言われる「たいやき神田達磨」をオープンさせる。2012年現在、店舗数は5店舗。売上はいずれの店舗も好調だ。
主な業態 「たいやき神田達磨」
企業HP http://www.root-s.com/

少年時代。

父はテノールのボーカリスト、母はサプリメントの販売員。今回、ご登場いただく株式会社ルーツ、大浜泰広社長の少年時代の話。
「父はTVにも出たことがある歌手だったそうです。私が小学校の頃には、乃木坂で弾き語りを仕事にしていました。夜が仕事でしょ。だから、遊んでもらった記憶はまったくないんです。話も滅多にしてもらえなかった。話相手はもっぱら母。父からキャッチボールに誘われた時のこと、私は内心で(そんなやりたくも無いのに無理に僕の相手しなくて良いのに・・・母に背中押されたのかな?)って思っていましたね。恐縮していたというんですかね。もっとも、念願の男の子だったんで、愛情は注いでもらいました」。
父との間に微妙な距離を感じながら、末っ子で長男、そんな大浜の少年時代が過ぎていく。

学歴より、実力。

中学生の頃、「大学に行かせる金はない」と言われた。どのようなシチュエーションで言われたかはわからないが、その一言は少年の耳にへばりついた。
大学に進学しないのが前提なら、高校進学もまた意味がないのではないかと思った。高校に入ると早速アルバイトに繰り出した。学校に行く意味を見いだせなかったことも手伝って、学校は遅刻早退の毎日。
目黒の駅前のニュートーキョー。月10万円になった。仕事も楽しいし、年上の人と遊ぶのもおもしろかった。飲食に惹かれたのはこの頃から。進学せず、実力でのし上がるしかないなら、飲食は最適なフィールドに思えた。

17歳の決断

高校2年生の時には、「天狗」に移った。500席ある大型店舗。「天狗」のなかでも最大級の店舗。スタッフも100人を数えた。
「それだけアルバイトがいると、競争意識が生まれました。当時を振り返れば、接客が楽しい、料理が楽しいというのではなく、ひたすら上に行きたい。100人のバイトのなかでてっぺんをめざしたい、と思っていた気がします」。
学生気分でバイトをしている、そういう奴らに負けたくない。そんな気持ちもあったのではないだろうか。ただし、あまりにバイトに精を出したため、遅刻と早退のツケで留年が決定。
父は怒りを抑え込んだような冷静な声で、「学校か、バイトか、どちらかにしろ。好きなほうを選べ。」と迫る。母は、「高校をつづけて」といったが、大浜は仕事を選択した。17歳の決断だった。

最年少。

19歳から23歳まで大浜は、正社員として「天狗」で過ごしている。22歳で店長にもなった。当時の最年少店長だった。もちろん、楽勝だったわけではない。
「最初に配属された店の店長とは相性が悪かった。風邪をひいて39 ℃近い高熱が出た時も『倒れるまでやれ。帰るとかないから。なぁに人間そう簡単には倒れないもんだよ。まぁ頑張れよ…ニヤリ』。あの時は(こいついつかぶっ殺す。)と怒りに燃えて乗り切ったものです。当然尊敬も信頼もしていませんでしたから、僕は仕事のやる気も無くなりました。10ヵ月経った頃、幸いにも店長が代わった。それで救われた。
ただ、甘やかされたわけではない。厳しいという意味では優劣もつけにいく。「ただ、厳しいといっても、私のためで、プラスになることばかりだったんです。その店長が、私を店長に推薦してくれたんです。ただし、『あまりに若すぎる』といったん却下されます。それでも『大浜なら』と、肩書がないまま店を一つ任すように進言してくださったんです」。
店長の意気に、純真な青年の心はスグに反応する。店長の顔を潰せないと、頑張った。任された店は、不振店の一つだったが業績はスグにアップした。
それを知った社長から、店長の辞令が下りた。晴れて、店長。当時の「天狗」の最年少店長だった。
一方、客の評価も上々だった。「キミの仕事ぶりをみていると、酒がおいしくなるよ」。素直にうれしかった。ちなみに当時の店長とはいまでも年に1回は会う関係だ。人生の師の一人でもある。

挑戦。

「天狗」に残る道もあった。だが、若いことも手伝ったのだろう。それ以上に違ったスタイルに挑戦したいという気持ちが強くなった。
宅配事業に興味を持って、弁当の宅配を行っている会社に入社する。「でも、つまらないんです(笑)。事業としてはおもしろかったんですが…。改めてお客さんと触れ合うことが好きなんだとわかったいい経験でした」。
接客。多くの飲食の戦士が挙げるように、人と接することは単純だが奥深く、たのしい。それが、モチベーションにもなることも少なからずある。
根っから人が好き。そんな人が飲食には多い。それがまた飲食の魅力なのだ。イタリア料理店を営む大手企業から声がかかり、二度目の転職。支配人まで上り詰めた。しかし、まだまだ血は騒ぐ。

関門海へ。

今度は、専門業態がおもしろいと思った。ただ、それ以上に社長がおもしろいと思った。とらふぐ料理専門店「玄品ふぐ」を経営する「関門海」に転職したのは、創業者の山口聖二氏に惹かれたからだ。
「紹介会社を介してお会いしました。豪放磊落な方で人を引き付ける魅力に溢れていました」。「関西から関東に出店をはじめた頃です。すごい月商を上げていました。ただ、組織は十分に機能していなかった。あっちにもこっちにも綻びがあった、そんな時代。まだまだ黎明期だったんです」。
だが、大浜には、これはチャンスだと映ったのではないだろうか。改善策が、次々思い浮かんだからだ。店に寝袋を持って泊まり込んだ。眠い目をこすり企画書を書いた。
「店に寝袋を持ち込むような奴はいませんでしたから、みんなビックリしていたようです(笑)」。
企画書を書き上げ提案すると、その度に社長が目をまるくした。「そんなんできるんかいな、ほな、頼むわ」。
ふところの大きさもハンパじゃなかった。次々に改善案を持ち込んだ大浜に、社長が言った。「おまえはフグの免許を取らんでええ、本部に来い」と。社長のツルの一声で本部への昇格が決まった。

新たな船出。

山口氏はいまでも、大浜が尊敬する一人だ。だが、「天狗」時代に師と仰いだ店長と違って社長とはもう会えない。会社を上場させたのち、亡くなったからだ。引力がなくなると大浜が会社に残る意味もなくなった。すでに役員にまでなっていたが、いさぎよく退職する道を選択した。そして独立開業に向け、新たなスタートを切る。
「たいやき」。独立開業のプランは、すでに温めていた。しかし、なぜ「たいやき」だったのだろう。「行列ができる店で『たいやき』を買ったことがあるんです。その『たいやき』を食べた時に、火傷するほど熱い餡で、びっくりするぐらい旨かったんです。それが『たいやき』に興味を持ったきっかけです。それにたった百円と少し。原材料も小麦と餡だけでしょ。これは凄い商品だと思って、3年かけマーケティングしていたんです」。
これは「関門海」在籍時の話。関門海の退職が、プランを実現する引き金になったのはいうまでもない。

「たいやき」が大ブレイク。

プランはあったが、実を言うと準備はできていなかった。当時の貯金はわずか30万円。所有していたマンションを売却し、その利益と銀行からの借り入れを合わせて店をオープンさせている。
オープン前には1ヵ月、知り合いのパスタ店で生活費のためアルバイトもした。餡のつくり方も修業した。生まれた店は「たいやき神田達磨」。TVや雑誌にも度々取り上げられ、「たいやき」ブームを生み出した店でもある。
「1日に1000個は焼く予定、それだけ売れるはずと言ったら、知り合いだった飲食の先輩たちは、まぁ頑張れよ、と。励ましてくれたというより、あきれていたんじゃないでしょうか。『どうすれば1000個も売れるんだ?』って」。
だが、大浜には勝算があった。コストもかかったが、店舗も「これは!」と思うところに出店した。もちろん、その分、損益分岐点が上がる。口にはださないが、「たいやき」で確保できる売上ではないと誰もが思っていたことだろう。だから、みな心配げな表情で大浜の門出を祝った。
ところが、先輩たちの想像は見事に外れ、1日目から盛況。開店から閉店まで行列が1秒たりとも途切れることがなかった。まさに大ブレイク。
数ヵ月後にはTVや雑誌が殺到し、「たいやきブーム」まで巻き起こしてしまうのである。

日本一。

成功の要因はいくつも挙げることができるだろう。経験もモノを言った。「たいやき」というアイテムもズバリ当たった。しかし、それだけではない気がする。
「私は、ただの『たいやき』の店をつくろうと思っていませんでした。『たいやき』店で日本一になろう、と。だから、1号店もコストをかけ、思い切った立地に出店することができました。設立から5年経ちますが、すでに単店ではナンバー1の数字を残せているはずです」。 
一時のブームにのっかるようなことはしない。ずっと食べてもらえる「たいやき」をめざしている。そのための労力は惜しまない。
「たいやき」を通して、人に感動を与えられたらという思いがあるからだろう。
その昔、父は音楽を通し、人に感動を与えようとした。その息子は思いもよらず「たいやき」屋の店主になった。だが、思いはおなじ。人が喜ぶ顔、それがみたいのだ。2012年11月現在、「たいやき神田達磨」は都内に5店舗ある。味の違いは店に出かけてみるのが、イチバンだ。

思い出のアルバム
 
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