ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 池田健司氏 | |
生年月日 | 1950年3月 |
プロフィール | 東京都豊島区に生まれる。のびのびと育ち、青春時代は自由を謳歌した。大学を中退するとコックを志し、洋食店老舗の小川軒で下積み生活を送る。その後、22歳でジローレストランシステム(株)に入社。調理場からはじめ、あらゆる業務にチャレンジした。2012年6月に代表取締役社長に就任。成熟期にあり多数の業態ブランドを展開する同社を、今後どのように導くのか。外食業界から多くの注目を受ける、いま話題の人物である。 |
主な業態 | 「A16 Tokyo」「Coltibuono」「ペッシェドーロ」「ナポリの下町食堂」「マンマパスタ」など |
企業HP | http://www.giraud.co.jp/ |
2012年6月15日、ジローレストランシステム株式会社に新しい社長が就任した。それが今回、飲食の戦士としてご登場いただく池田健司社長である。スマートに維持された体形とともに、一見穏やかそうに見える紳士であるが、内に秘めた闘志は熱い。
「今は社長としての地ならしをするとともに、企業としても改めて態勢を整え、新たな一歩を踏み出すための足場固めの時期。やらなければならないことが山ほどありますが、その先には、やりたいことも山ほどあります。すべてのお客様のニーズを満たす外食企業として展開していきます」と力強く宣言する。
同社では、おなじみの『マンマパスタ』『A16 TOKYO』などをはじめ、現在ではなんと海外から初出店させた物も含め、40を超えるブランドを展開している。池田が、約40年勤めた生え抜き社員であり社内をよく知る人間であるとはいっても、これは相当の手腕が求められるに違いない。
「たくさんの期待を感じています。大きなプレッシャーですが、それが私に与えられた役目。真剣勝負で挑みます。この先、世代交代も進んで新たな方々がどんどん入社されるでしょうが、『入って良かった』と思えるような、社員全員が誇れる企業にすることが私の役目」と、口を真一文字に結んだ。そんな池田の半生から、今回は外食業界人として羽ばたくヒントを探る。
子煩悩で優しい両親の下に池田は生まれた。二人兄妹。第一子で長男ということからも、特に寵愛を受けたのであろうことは容易に想像がつく。父は浅草でまじめに米の卸問屋を営み、母も働き者だった。そんな池田家では毎週日曜日に母が家事を休む日という決まりがあり、当時では非常に珍しい外食が習慣になっていた。そんな恵まれた家庭で育ったことで、池田はわがままに育っていく。
中学からは中高一貫の私立校。進学校だったが、公立校と違い校風は非常に自由だ。「これでますます調子に乗って好き放題(笑)」とのとおり、高校ではビートルズに惹かれて長髪にし、同級生たちと組んだバンドでマイクを握った。さらに16歳で軽自動車の免許を取得すると、高校へは愛車のスバル360を乗り付け、放課後は湘南まで飛ばしたこともあったという。
「夜の赤坂見附でカーブを曲がりきれずに横転事故を起こしちゃったことがあります…。大怪我で車も大破しましたが、それでも懲りない馬鹿者でした」と、バツの悪い顔をする。
ちなみに、学校側にこのことは知らされなかった。処罰を危惧した父が、池田の同級生たちに内緒にしてほしいと頼んでまわったのだそうだ。「親も甘かったが、私もとんでもない親不孝者です」。今でこそそう思うが、好き放題と親不孝はまだまだこれだけでは済まなかったのである。
高校を卒業すると大学の入学式を待たず、直ちに新宿の喫茶店でアルバイトをはじめた池田。子供の時からモノをつくるのは好きなほうで、この頃から漠然とコックに憧れるようになったという。それがあっての喫茶店だったが、そこに訪れた客に誘われるまま、ディスコをアルバイト先に変えた。
「当時、青山で一番人気のディスコ。著名人もたくさん来ていて、とても活気があった。給料も喫茶店と比較にならないほど高いし、もう毎日が楽しくてしょうがない。それで結局、大学がつまらなくてなって二学期以降は行かなくなってしまいました」。大学生の肩書があったのは、実質わずか3ヵ月だけだった。
その後もディスコやクラブ、スナックを転々とする。父の商売を継ぎたいという気はいっさいない。まだなにも考えが浮かばず、のほほんとすごした。いつまでもこのまま遊んでいたいと思いながら、2年前後が過ぎたという。
しかし、徐々にある境地に至った。「ディスコやクラブに惹かれて入り浸っていましたが、そこに来て遊んでいるのはきちんと仕事に励み、技術や腕を身につけて稼でいる人たちばかりです。それに比べて、俺ってなんにもなく薄っぺらだなぁと思いはじめました。そのうえ本当に親不孝で…」。
当時身を置いていた青山のスナックの常連客だった有名カメラマンに、池田は料理をよく褒められたという。「『池ちゃんの美味いよ』なんて言われていて。ナポリタンなんかを出していたのですが、実際は見よう見まねで適当につくったものですから、それが恥ずかしかったし、本当に嫌でした」。薄っぺらいという自覚と、その歯痒さは、やがて池田の中で頂点に達していく。
思い立った池田は、さっそく別の常連客に「コックとしてきちんと修業をしたい」と相談を持ちかけた。多くの人脈を持っている人だと池田が踏んだ通り、その客は池田の本気度を確かめると、代官山にある洋食レストランの老舗「小川軒」で働けるよう間を取り持ってくれたという。なお余談だが、その客とは第20代内閣総理大臣・高橋是清氏の孫にあたる人物だったそうだ。
かくして名店での見習い調理師生活ははじまった。そして、それこそが外食業界人・池田の誕生のきっかけでもあり、今日にいたる長い道のりへのスタートでもあったのだ。
さすがに名店だけあり、そこでの修業は本物であると同時に、非常に厳しいものだった。さらに池田に対する風当たりが強かった。そこで調理師を志すのは、若くして覚悟を決め料理の世界に飛び込んできた者たちである。頭髪は角刈りが当たり前だ。その中でなんと池田の頭髪は肩に掛るほど長く、さらにディスコ時代の名残から茶髪でもあった。周囲からは奇異の目で見られていたが、池田は意に介さない。「しっかりとつくった料理を、お客様に喜んでいただく」。一心にそれだけを追いかけていたのだ。
修業をはじめて、1年あまりが経った時だった。いっしょに調理場で働いていた仲間たちから共同で独立しようという誘いを受けて、池田は小川軒を離れた。わずか1年ではあったが、名店仕込みである。また勘も良かった池田だ。包丁裁きや身のこなしも、この頃に基礎はできていたものと思われる。
「将来は自分の店を持ってきちんとやっていきたい。なんて考えも出てきていた時ですから、これはいい勉強ができると思って誘いに乗りました。けれど結局はそれぞれ折り合いがつかなくなって話はなかったことになりました。それで再びフラフラする生活に戻ってしまった」。
ある日、池田は日比谷の映画館を訪れていた。持て余していた暇を潰すことだけが目的で、何を観たのかも記憶にはない。そうして彷徨っている時に、ある店先でコック募集の張り紙に釘付けになった。もう一回、包丁を持ちたいという欲求が高まり、すぐさま応募したという。
「それがジローとの出会いです。調理場に立つと、自分で言うのもなんですが、すぐに一目を置かれるようになりました。やはり小川軒での修業は伊達ではなかったですから」と、照れくさそうにする。この時、22歳。改めて真っ直ぐに料理と向き合いはじめた池田だった。
24歳になった池田は、店の調理長に就任する。一度断った打診も、二度目では断りきれなかったのだという。「まだ若く出世欲もありませんでしたが、渋々引き受けることになりました」。
しかし、人の上に立つと、それだけ大きな責任がついてまわるものだ。「そのことをその年にしてようやく知ることになりました。年上の部下もいましたから、こりゃヘタを打てない。若い調理長の下にきて貧乏くじを引いたと思われないよう、部下に厳しく接する一方で、さまざまなことを自分でも猛勉強するようになりました」と笑う。そして真顔に戻ると、こうも付け加えた。「自分の元を離れて、異なる場で優秀だと認められる人間を育てないといけない。それが上に立つ者の役目です」。
頭角を表しはじめていた池田は、当時の社長に目をかけられたという。「一度同僚と大揉めに揉めて大乱闘騒ぎを起こした事があります。それを間に入って諌めてくれたのも社長でした」と当時を懐かしむ。またこの頃になると、将来の独立を目指して調理からサービスの道へ転身していた池田は退職を申し出る。しかしここでもウチでチャンスを広げてみろと社長に慰留される。それならば、と本格的にホールサービスを学びはじめたのが31歳。年齢的にはすでに社内でベテランとされる頃から、改めて一からのスタートである。給料は新入社員と同等に下げてほしいと自ら志願した上で、新しいことに挑んだ。
「さまざまなことで迷惑をかけたにもかかわらず、チャンスを与えてくれた社長への恩はいまでも忘れることはありません」。
それから不眠不休の努力を重ね、翌年には店長に就任。さらには、アシスタントマネージャーへと突き進んでいく。もうその姿に、若い頃の奔放な男の影などなかった。一本の太い筋が通り、信念を貫く池田がいた。
調理長から、ホールに転向。同社のさまざまなブランドで店長とマネージャーを経て43歳で営業部長へ。新業態の開発にも携わり、今日のジローを支える新業態をすべて成功させ、49歳の若さで取締役営業副本部長に昇格した。さらに当時全店赤字と業績不振に陥っていた郊外型店舗を活性化すべくプロジェクトの中心となって、パッパパスタ・マンマパスタというブランドを立ち上げ、全店黒字化へと導いた。そして2年後に常務取締役へ就任する。
業態の構築では、なんでも『ジロー』のネーミングでよいとする考え方の古い上司たちに噛みつき、激論を戦わせたという。池田のそんな我の強さは未だに変わらないが、正しいと思うことを曲げず主張できるのも同社の優れた点であろう。
1994年には小田急グループの一員となり、企業体制は大きく様変わりしていった。「根っからの外食企業である当社と、小田急。双方の良い部分は活かしながら、業種や風土からくる食い違いを埋めて、企業基盤の再構築を進めてきた10年でした」と振り返る。
そして今、生え抜きの池田にバトンが渡された。2011年度で120億円に達したジローレストランシステムの売上を、さらに超えていくことが期待される。
「ビジネスは生き物。常に動きながら、新しいものを提案していかなければなりません。その一方で、外食業界に身を置きながら、サービスマインドの低い人も増えている。早く手を打たなければなりません」。池田は今をそのように見つめている。確かに人材のモチベーションの低下は、多くの外食企業で耳にする共通事項だ。「一流企業は競争が激しくて大変でしょう。しかし外食ならチャンスはいっぱい転がっているんですがね」。社長として今後繰り出していく策にも、確信や勝算があるのだろう。「チャンス」、最後にそう言いながら、池田はにっこりと笑った。
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