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第341回 株式会社セント・リングス 代表取締役 青木謙侍氏
update 12/12/18
株式会社セント・リングス
青木謙侍氏
株式会社セント・リングス 代表取締役 青木謙侍氏
生年月日 1958年8月15日
プロフィール 1981年、慶応義塾大学法学部卒業。2年間の丁稚奉公を経て家業の呉服業を継ぐ。1993年5月に家業を退職。同年6月、株式会社セント・リングス設立。現在フランチャイズ18ブランド54店舗を展開中。
主な業態 「ピザーラ」「牛角」「野の葡萄」「五元豚」「しゃぶ福」など
企業HP http://www.sentrings.co.jp/
何不自由のない生活だった。老舗「呉服屋」の次男。父親は25歳の時から祖父の跡を継いだ商売人である。母親も大人しい性格だが、商才には長け、専務として事業を支えておられたそうだ。
父親は、勉強熱心で周りに好かれるタイプだが、頑固者でもあったという。子どもたちにも厳しい態度を取ることがあった。「外食に行くでしょ。父はステーキを食べ、私たち子どもは鯵の開きです。食べたければ自分で金を手に入れろ、と平気で言うんです。まだまだ小さい頃の話ですよ」。

ガキ大将。

「祖父と祖母に育ててもらった」。子どものことを尋ねると、そんな答えが返ってきた。「両親ともに忙しかったこともあって、食事も、お手伝いさんや祖母がつくってくれていました」。店のスタッフとも、良くいっしょに遊んだ。東京、京都に仕入れについていったこともある。チヤホヤされていたこともあって、生意気な少年になった。小学生時代は自他ともに認める「ガキ大将」だった。
ところが、このガキ大将は、商売が好きだった。父が次男の青木を早くから「跡取り」にと考えたのも、商才を見抜いたからだろう。
「子どもを、慶應に行かせたい」。父にはそういう願いもあった。こちらも次男の青木に白羽の矢を立て、小学5年生の時には、家庭教師が3人も付けられた、と言って笑う。
呉服屋がもともとあった厚木の川のほとりから駅前に引っ越したのは入学前。早くから、父は将来を見越しその準備もまたはじめていたのかもしれない。

友人とスポーツと。

父の期待通り、慶應大学付属の中・高一貫校に進んだ。そこで、いままで自分がいかに「お山の大将だったか」を知る。「凄い奴がたくさんいるもんだ」。ため息がでた。
このままではいけないという思いもあって、厳しいスポーツに挑戦した。ラグビーである。
「コーチはみんなの前でこういうんです。まったく同じ練習をしても、ユニフォームをもらえる者ともらえない者がいる。ユニフォームをもらった者はそのことを忘れるな」「またこんなこともいいました。実力が同じだったら、次の世代を担うものを優先する、だから、3年生は我慢してくれ」と。
ラグビー部は練習がきついだけではなかった。「あたりまえですが、コネも何も通用しません。巧いかどうか、それだけです。いままで何不自由のなく育ってきましたから、特にこの現実が心に突き刺さったんだと思います」。
この時のスポーツ、また友人との出会いが、青木の人格を形成する。
そしてこの時、青木は一人の親友に出会っている。元神奈川県知事の松沢成文氏だ。「ラグビー部のキャプテンで性格が良くて器も大きいんです。誰もが彼には一目置いていました。それだけじゃなく、こいつのためなら、と思っていたはずです」。ラグビーも巧かったし、勉強もできた。それでもひとつも威張らない。話にも筋が通っていた。
「いま振り返っても松沢氏にはいろんなことを教わりました」と青木。「同学年にもかかわらず、松沢氏との出会いは私のなかでもっとも大きなインパクトがあった気がします」。
ちなみに、いまでも松沢氏とは、親交があるそうだ。
この頃のラグビー部の成績は、中学時代は、関東で2位。高校時代には、神奈川県で3位。強豪が多いなか、抜群の成績を残した。

人生を賭けた、ゴルフ三昧。

「必死で勉強をするか、ゴルフをするか、どちらかを選択しろ」と父親からそう言われたのは大学に進学してスグだった。「大学に進学する時に、父に呼ばれ跡を継ぐ意志があるかどうか問われたんです。『ある』と答えた私に、それならゴルフをしろと。会社を継ぐと金融関係の人とも付き合いが始まる。ラグビーもいいが、まさか支店長とラグビーはできないだろうというのが父の言い分だったんです(笑)」。
愚直にというか、父親からそう言われた青木はラグビーを辞めゴルフに熱中するようになる。ゴルフ時々、授業という生活だったそうだ。そんな青木に冒頭の言葉である。
プロについてレッスンも受けた。練習場でボール拾いのアルバイトをし、代わりにただで練習をさせてもらったりした。
ゴルフ三昧。好きな人にはたまらない生活だろうが、人生を賭けるとそうはいかない。4年間、必死になってクラブを振った。
「もっとも、プロになるような人にはとてもかないません。私は高校までラグビーでしたから足腰は鍛えられていて距離はでるんですが、アンダーで回るなんてとてもできない。しかし、ゴルフから学んだことも少なくありません。仕事はもちろんいまの考えかたに少なからずいい影響を与えてくれました」と語っている。

もう一つの父の「したかった」こと。

「父は跡を継ぐ息子に、もう一つやらせておきたいことがあったんです。それが丁稚奉公です。ある会社に丁稚奉公に入り、当時、厳しいことで有名だったある百貨店に配属されました。給料は5万円。4人1部屋の寮生活です」。丁稚奉公、いまではこう語る人も少ないだろうが、いわば商売人になるための修業である。有名呉服店の息子の肩書も一切通用しない。そういう厳しい環境に息子をおくことで、精神的にも鍛えたかったのだろう。
しかし、当初3年間と決められていた奉公の期間が2年に短縮された。父親が病になったからだ。青木は、父の跡を継ぐべく、実家の呉服店に入社した。しかし、これはもうひとつの試練の始まりだった。

母との隔たり。

入社3年目に父親が亡くなった。父は息子に経営について教えたことはなかったが、それでも大黒柱を失ったことは大きかったといわざるを得ないだろう。
父の代わりに専務だった母が社長となる。息子にはまだまだ譲れないと思われたのだろうか。35歳の時、ついに2人の間の溝が決定的になった。
「父が残したものを守っていこう」とする母と、「父が残したものをより発展させていこう」とする青木の考えが衝突したのである。
「母は痛烈な一言を発します。いままで何から何まで親の世話になってきたあなたに何ができるのか、と」。それでも辞表を出す時には、突き返されるだろうと思っていた。ところが社長である母に、あっさり受理されてしまう。
「結婚したばかりでしたから、よりいっそう途方に暮れました。住んでいた家まで追い出されたのですから。もう妻と2人で生きていくしかありません。金もない。家もない。小さなアパートをみつけ、移り住みました」。
母はもちろん兄弟たちとも、それ以来11年間、顔を合わせなかったという。その11年間は母を見返す年月であり、心の整理をつける年月だった。もしかすれば親心を理解するまでにかかった年月といえるかもしれない。

資金ゼロから。

ぬくぬくとわがままに育ってきたわけではない。それでも、いままでは父の手のなかで味わった苦労に過ぎない。そんな自覚があったかどうかはともかく、青木家というバックボーンを失った青木に残されたのは、母に対する反骨心だけだった。
「いつか母に、私をクビにしなければ良かったと思わせたかった」と青木は語っている。
とはいえ、資金ゼロ。やりたくても先立つものも、信用もなかった。そんななかで出会ったのが、ピザーラの淺野秀則氏(株式会社フォーシーズ会長)である。大学の先輩でもある漆野氏は、青木のちからを見抜いたのだろう。経営経験ゼロの青木に出店を約束してくれた。むろん、ただとはいかない。5店舗になるまで店長として現場に立ちつづけることを約束させられた。「それを約束するなら、資金がゼロからでも開業できるしくみをつくってやると」。
店舗での研修がスタートした。年下の店長から指示され、注意も受けた。35歳。かつて社長の座を約束された男が歯を食いしばった。
やがて1号店がオープンする。「私は厚木にと思っていたんですが、すでに大手のピザ専門店があって、漆野氏からダメだしを食らったんです。それで、周辺を調べたんですが、そこかしこに同じ専門店がある。ようやく未開拓の場所が見つかったんですが、そこは御殿場でした」。御殿場といえば別荘地である。
実際、街には2軒の不動産屋があったが、そのうちの一つは別荘専用で相手にもしてもらえなかったそうだ。それでも、なんとか30坪、家賃20万円の店舗がみつかった。ゴーサインもでた。しかし、はたして御殿場で成功することができるのだろうか。不安が頭をもたげてくる。

大ブレイク。

緊張を強いられた。負けるわけにはいかなかったからだ。従業員と小さなアパートに住んで、無事オープンを迎えることができた。勝負はこれから。しかし、勝ち負けなど考えていられない事態になった。オープン直後からひっきりなしに注文の電話が入ったからだ。
月商で1400万円。たった30坪、家賃20万円の店の月商といえば誰が信じるだろう。「大ブレイクだった」と青木は微笑む。本部への返済も数ヵ月で済んだ。自らの商才というよりピザーラのチカラをまざまざと見せつけられたという。
その後も順調に店舗数を伸ばした。しかし、青木の選択はフランチャイズへのこだわりに表れている。「メガ・フランチャイジー」が青木率いるセント・リングスのいまの立ち位置だ。
2012年現在、4事業18ブランド54店舗の飲食店・学習塾などを運営している。
ホームページで青木はつぎのように語っている。
「時代背景やさまざまに変化するニーズにすばやく対応する『環境適応業』であると位置づけ事業展開をして参りました」。また「マルチブランドフランチャイジー戦略(複数のブランドを展開するFC加盟企業)はタイムリーな事業展開を行う上で、最も適した事業形態であると考えております。そして、早期より事業成功の重要な前提条件として、”店舗オペレーション力”が不可欠であると感じ、日々の運営において積極的に”ノウハウの蓄積”を心掛けてきました」、と。
もちろん、1号店オープン当初は、まったく思いもよらぬ考えだったことだろう。しかし、青木の成功は、フランチャイジーという立場を活かすことによって、強力な基盤も、推進力も生まれることを証明している。そのすべては、母の辛辣な一言から始まったと言っていい。

FCバカからの卒業。進化するために、もう一度、攻めに転じる。

人がうらやむほど裕福な家庭に生まれ、次男であるにもかかわらず商才を見込まれ、跡取りに指名された。ところが、次期社長として入社した会社では、自分の考えを主張し、実行することができなかった。追い出され、ゼロからの再起。それがいかに辛いことだったかは容易に想像できる。しかし、負けなかった。
店舗数を増やしただけではない。時代を観る目を育てFC戦略をベースに時代に適応できる組織をつくった。
母とも邂逅する。長く険しい道だったが、いつしか尊敬する父を超える商売人になっていた。
商売という視点で時代というものをとらえたとき、時代は、キャンパスに映る。時代に合わせ描くべき絵もかわってくる。しかし、実際に時代に合わせ、新たなキャンパスを手に取るのは勇気がいることだ。あえて、そこにチャレンジした。それが青木の凄さだ。
そんな青木は今また変化し、進化しようとしている。
「FCバカからの卒業です。そう、今後は自前の直営店をオープンさせていきます。そして、お互いに意見を出し合い協力し、本部とともに成長していきたいと思ってます。今後はFCと直営のノウハウをミックスさせ、海外に進出していきます」。
それは青木にとって未踏の領域へのチャレンジとなる。その先にあるものは何か? 青木のいまからがその答えを示してくれることだろう。

思い出のアルバム
 

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