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第343回 株式会社美濃吉 代表取締役社長 佐竹力総(りきふさ)氏
update 12/12/25
株式会社美濃吉
佐竹力総氏
株式会社美濃吉 代表取締役社長 佐竹力総(りきふさ)氏
生年月日 1946年12月22日
プロフィール 京都の老舗料亭「美濃吉」9代目当主の長男として誕生する。250年以上の歴史がある「美濃吉」の調理場にもっとも幼くして立った少年は、立命館大学出身後、アメリカ/サンフランシスコに留学。ホテル・レストランカレッジにて、サービスやマネジメントを修得する。帰国後、米国のフード産業を参考に、巨大チェーンを目標にファミリーレストランを立ち上げるが、1990年に入り改めて質への転換を進め、20世紀最後の料亭「竹茂楼」を1992年に父と共にオープンする。2012年の6月まで、日本フード協会の会長をはじめ、数多くの要職に就き、大所高所から京料理や日本の食文化の発展に寄与している。
主な業態 「美濃吉」
企業HP http://www.minokichi.co.jp/
美濃吉の創業は享保元年となっている。美濃の国から入洛した佐竹十郎兵衛氏が、三条河原町で腰掛茶屋を営んだのが、始まりとのことだ。
それから、明治、大正、昭和、平成とその名は連綿と受け継がれている。
今回、ご登場いただく当主、佐竹 力総氏で10代目というから驚きだ。
享保元年は1716年だから、計算すると2012年現在で296年目となり、もうすぐ創業300年を迎えることになる。10代続く、300年の老舗料亭。
ではいつも通り、10代目当主、佐竹氏にフォーカスしてみよう。

「美濃吉」の再開と、佐竹氏の誕生。

連綿とつづく「美濃吉」だが、実は、5年間近く店を閉めていた時期がある。昭和19年〜24年、戦争が開始されると国内でも自粛ムードが広がり、外で食事を楽しむような雰囲気ではなくなった時期がある。当時は8代目、つまり佐竹氏の祖父の時代である。
昭和19年3月、戦争の悪化により遊興施設が禁止となり、「店をやっている場合じゃないと思ったのでしょう。それまで『縄手の美濃吉』として親しまれていたんですが、店ごと売却してしまったんです。だから、いったん美濃吉はなくなるんですが、戦後しばらくして、いまの本店で再開します。なんといっても『美濃吉』の看板があるわけですから、再開すればお客様がみえられると算盤を弾いていたんでしょう。でも、なかなか思うようにお客様はいらっしゃらない。月の1/3が坊主だったそうです」。
「お客さんがたくさん来れば料理人たちが喜んで、その日は仕事が終わってからお酒を飲むんです」。
再開した店には、やがて佐竹氏も顔を出すようになる。もっとも少年時代の佐竹氏である。料理に興味を持つというより、料理人や従業員たちから可愛がられていたというのが、記憶の大半だろう。
「美濃吉」が再開したのは1949年。戦争によって、いったん歴史が途絶えかけ、老舗料亭が苦境にあるなか、まだ赤ん坊の10代目当主は、どのようにして当主の座に、座ることになるのだろうか。

京都大学、東京大学、通産省出身の父。

「実をいうと父の代で代々続いた『吉兵衛』という名は襲名されなくなりました。父も長男だったんですが、料亭の経営には関心がなかった。いちおう京都大学では農学部に入るんですが、卒業すると東京大学の法学部に入り直してしまいます。そのうえで通産省に入るわけですから、9代目というのは、もしかすればなかった選択かもしれないですね」。
歴史があるとわかっていても、かつての盛況はない。父からすれば「9代目」はリスクが過ぎるように思えたのではないか。だから祖父が急死し、京都にもどってきてからも、9代目ながら本業は通産省の肝いりで転職した、生まれたばかりの「阪神百貨店」での仕事だった。
「週末だけ、美濃吉で。つまり、二足のわらじを履いていたということです。父にすれば、会社でもそれなりの立場にあり、逆に『美濃吉』は歴史があるだけで、そう繁盛していませんから、9代目としては複雑な心境だったと思います」。
ただ、この父がのちに「美濃吉」を拡大する。
「父は、東京で一度暮らしていますので、京都のしがらみが少なく、通産省にいたことで『料亭』に対する考えも違ったんだと思います」と佐竹氏は、拡大できた理由を語っている。
「父のようにすれば、昔の京都では異端児ですから、もっと叩かれていたかもしれません。しかし、そこは通産省出身。周りからも一目置かれていたというのがあったかもしれません」。たしかに父の代で「美濃吉」は大胆な戦略を取る。

阪神百貨店に「美濃吉」、出店。

「阪神百貨店で勤めていた頃、父は集客の目玉として、飲食店が集まった『のれん街』を企画したんです。ところが、最後の最後になってキャンセルが一つでたんです。それで、当時の社長が『お前のところの店を出したらどうだ』と誘ってくださったそうなんです。いま思えば、これが『美濃吉』を救い、飛躍させる一言でした。ところが、当時は百貨店といってもステイタスがない。京都の老舗が出すなんて許されないことだったんです。祖母などは、『のれんが泣く』と言って大反対をしました」。
「のれんが泣く」と反対する祖母を説き伏せ、出店した「美濃吉」は期待通り大ブレイクする。狙い通り集客の目玉となるばかりか、継続に黄信号が点り始めていた「美濃吉」を立て直すきっかけにもなったはずだ。何より9代目の父が、「美濃吉」に心底、関心を持ち始めたのは、この一件があってからという気がするからだ。
「利益が出過ぎたんでしょうね。パートのおばさんも連れて従業員全員でハワイに慰安旅行に行きました。外国に気軽に行ける時代じゃなかったから、初海外の人ばかりで珍道中だったとのことです」と佐竹氏は、当時を思い浮かべて笑う。
つまり、それほど利益が出たというのである。
これを皮切りに「美濃吉」は百貨店への出店を行うようになる。だが、その一方で、本店は赤字が続いていた。放っておくわけにはいかない。父が、決断する。

「美濃吉」を立て直す。それは歴史との別れ。

「料亭は古い。これからはフードサービスの時代だ」と、父は「美濃吉」の新たな基軸を打ち出した。昭和42年というから1967年。飲食においてもターニングポイントなる、1970年の万国博覧会が開催される3年も前の話である。通産省を経験されているだけに時代の流れを的確に、いち早く捉えることができたのだろう。
多くの経営者を取材してきたが、この70年前に、「これからはフードサービスの時代」と断言できた人は数少ない。そういう意味からも時代の先駆けと言っていいだろう。9代目当主のもと、「料亭 美濃吉」は「伝統的な京都料理をお手軽に」をコンセプトにした「民芸お食事処 美濃吉」に生まれかわった。
本店の1000坪のうち半分を駐車場にした。
「この時も、外部からの批判があったと思います。だいたい阪神百貨店に出店する時にも、さんざん陰口を叩かれたんです。のれんが泣く、と言った祖母の気持ちわからなくはないですが、もう料亭の時代ではないと父は『美濃吉』の名を捨てることまで覚悟していた気がします」。
「ただ、最初から大当たりするとは思っていなかったでしょう。私が、父に頼まれ、珈琲の淹れ方を学びに行ったのはこの時。少しでも売上を確保するために、昼間は喫茶店をやろうと思っていたんです。ただ、結局、せっかく学んだ珈琲なんですが、披露できずじまい。喫茶店どころじゃなくなったからです」。

弁当ブームを巻き起こしつつ、年間20万人来店。

「民芸お食事処 美濃吉」はオープン初日から爆発した。オープンの11時には200人の列ができた。あらかじめ多めに仕入れていた食材は、昼の3時に底をつく。
喫茶店で珈琲を淹れているはずの佐竹氏は、駐車場で車の整理に追われていた。たしかに、喫茶店どころではない。それからずっと繁盛は続いた。
「弁当ブーム」というのを巻き起こしたのも、この「美濃吉」だ。
手軽に京都料理を楽しむには「弁当」が最良だったのだろう。反響がまた反響を呼び、年間来場者数20万人、年商は10億円。
陰口を叩いていた人たちは、どう思っていたのだろうか。
ちなみに、1年目だけではなく、その後も年商10億円はキープされていく。「京料理」の根強い人気が売上を支えたのはいうまでもない。
「京料理」のパワーに、佐竹氏父も改めて魅了されたのではないだろうか。

飲食に新たな価値観を!

「民芸お食事処 美濃吉」がオープンし、その盛況を目の当たりにした佐竹氏は、いまだ立命館大学の学生だった。10代目を早くから意識していたという佐竹氏だが、氏にとっても、「京料理」のパワーはもちろんのこと「飲食」という事業の底知れないチカラを体験したのはこの時が最初ではないだろうか。このパワーをいかに活用すればいいのか。
この時の思いが、立命館を卒業すると同時に、先進的なサービスとマネジメントを学習するためアメリカに渡り、サンフランシスコ市立大学のホテル・レストラン学部に再入学した背景ともなっているはずだ。
伝統ある「美濃吉」の9代目、そして10代目の当主は、いずれも新たな価値観を「飲食」という世界に持ち込もうとしていた。

父に言われた3つの言いつけ。

ところで、高校時代、佐竹氏は父に呼ばれ、3つのことを言われていた。
「英語を勉強しろ」、「ゴルフをやれ」「青年会議所に入れ」の3点である。いずれも忠実に実行した。
といっても、当時のアメリカは若者にとって崇拝すべき国でもあったわけで、佐竹氏が英語を進んで学んだのは、そういうアメリカに対する憧れも作用しているだろうし、ゴルフのレッスンを始めて、そうイヤになる人もいないだろう。青年会議所も、それほど乗り越えるべき高い壁ではない。
ただ、改めて父の真意を推し量れば、いずれも「ネットワーク」という一言に集約するような気がする。もっとも英語やゴルフが、今後、大事なコミュニケーションツールとなることを見抜かれていたはずだ。
大学卒業後、ためらうことなく渡米できたのも教えの一つを守ってきたからだろう。
さて、渡米した佐竹氏は、渡米期間中に日本から彼女を呼び寄せ、結婚もした。スグに子どもが生まれたことで、奥さまは妊娠と子育てに追われたアメリカ生活だったらしい。
ともあれ、こうしたアメリカ生活を終え、帰国した佐竹氏は、「美濃吉」に入社する。
まだ27歳の青年だった。
日本では、父が料理の世界に改革を起こし、「京料理」の職人をゼロから育て上げて始めていた。1000人の職人軍団。これは、「美濃吉」のもう一つの顔である。

巨大チェーンを夢見て。

美濃吉に入社した佐竹氏は、アメリカ仕込みのストアオペレーションを武器にチェーン化をめざした。ちょうどファミリーレストランやファストフードが猛烈なスピードで進出を行っている時期である。佐竹氏は「民芸お食事処 美濃吉」よりも更に大衆化したテーブルサービス主体のレストランをつくりだした。
それが<僕は洋食 パパ・ママ和食>と謳った「イエロープレーン」である。この店は、夙川を1号店に12店舗まで広がったが、内部で些細ともいえる問題が起こり佐竹氏は身を引くことになる。
代わりに<100%和食のファミレス>として「ジョイ美濃吉」を新たに立ち上げた。12店舗まで出店するが、予想通りの数字は見込めなかった。
片や「民芸お食事処 美濃吉」にも業態疲労が表れ始める。
その時、本店を大改装し料亭に戻すという決断に、父と私と家内が不思議に三位一体となった。
「京料理」の大衆化が「民芸お食事処 美濃吉」の役割であったとすれば、今度は、その逆を始めようというのだ。いままでのファンまで取り逃がすことにつながりかねない。危険な賭けでもある。
しかし、風見鶏のように時代の風に流されたわけではない。「京料理」、その一点はぶれていないからだ。

美濃吉総本山が新たな顔になる。店名は「京懐石 美濃吉本店 竹茂楼」。

量から質への新たな転換によって、佐竹氏はアメリカで学び、目標としたチェーン化構想を断念せざるをえなくなった。
だが、代わりに『京の食文化を守る』、その役割を改めて真正面から担うことになった。だが、とにもかくにも店を造らなければならない。
本店を「京懐石 美濃吉本店 竹茂楼」に改装するために1年半かかったという。その間、店はクローズ。スタッフは他の店で吸収して影響がでないように配慮した。
総工費25億円。それは社運を賭けた投資でもあった。ただ、当時はバブル。銀行はいくらでも融資してくれた。ところが「竹茂楼」が完成すると、バブル崩壊。外食産業にも、価格破壊の波が押し寄せるなかでのオープンとなってしまった。
客単価は、以前の4倍に設定。バブルが崩壊した後となれば、それだけでも無謀な試みだった。だが、もう戻ることはできない。

のれんのチカラ。

佐竹氏の心配をあざ笑うかのように、全国から「これが美濃吉の本店か」と客が一斉に訪れた。年間20万人が来店し、10億円の商いをする店をたたんでも行った一つの賭けに勝利したともいえる。だが、それは賭けでもなんでもなく、「美濃吉」という名前にしくまれた遺伝子が、遺伝子の命じるままに動いた結果かもしれない。
佐竹氏も、「この時は、のれんのチカラをまざまざとみせつけられた」と言っている。

これからを、憂う。

1995年、平成不況がまだ収まりをみせない時に、佐竹氏は社長に就任する。10代目当主の誕生である。それから数えても、2012年で17年が経過している。「美濃吉」は、京都を代表する料亭の一つとして、かわらず人気が高い。佐竹氏は、日本フード協会の会長をはじめ、業界を代表するさまざまな要職に就いている。
創業300年、という節目ももうすぐだ。
京料理の海外展開はどうかとたずねたが、現在のところ、具体的な予定はない、との事。むろん、日本の食文化を伝える、それは氏も行っていきたいことだ。だが、それ以上にいまは、日本の若者たちにどう日本食の価値を伝えるかということに気をもんでいる。
いかにおいしい料理をこしらえても、食文化がわからない人ばかりでは価値がないことにもなるからだ。
「美濃吉」、うんぬんということではない。日本の文化の一翼を担っている「食」、とりわけ「京料理」を未来に残すために、佐竹氏は手段を講じようとしているのだ。
「四季折々の季節をめでる気持ち」、そして「わびさび」や「おもてなし」に込められた日本の文化を、いまからの若者たちへ継承する。これは、いままで以上の戦いになるかもしれない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
S22年8月
8ヵ月の頃
S49年4月
サンフランシスコにて長男と
S54年7月
ジョイみのきち金閣寺店オープン
 

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