株式会社タケモトフーズ 代表取締役社長 竹本一善氏 | |
生年月日 | 1953年9月3日 |
プロフィール | 大阪府堺市生まれ。鳥取大学を卒業後、大手小売のイズミヤ株式会社に入社。食品担当バイヤーとして勤務する。34歳で独立して現職。現在、同社ではスイーツなどさまざまな業態の飲食店を全国のフードコートなどに展開中。また、日本に本場のベルギーワッフルやエッグタルトなどを持ち込み広めた仕掛人でもある。 |
主な業態 | 「123Factory」「UN Deux LES PANETONES」「小天龍」「ソウルフル」「明石135ラーメン」「Galler Cafe」など |
企業HP | http://takemoto-foods-group.com/ |
株式会社タケモトフーズ。全国のショッピングセンターのフードコートなどで、多彩な業態を展開している。そんな同社のビジネスの原点は、客と店主とが真正面から向かい合う『屋台』にあった。
「下町の兄ちゃん的というか、長屋の住人的というか。飾らない屋台の素朴さって楽しいでしょ。それに、縁日の屋台を見ているとバリエーションが豊かでクリエイティブを感じる。庶民的な屋台からは学ぶことが非常に多い」。そう語るのが、同社を率いる竹本一善社長だ。
創業時、竹本は屋台で全国を回っていた。天ぷらとお好み焼きで作った「天ごのみ」はいずれも大盛況だった。それから3年後には香港に現在法人をつくり、日本から持ち込んだたこ焼きやすしなどの日本の屋台メニューを販売しブレイクした。一方で、海外で話題になっていたベルギーワッフルやエッグタルト、マンゴープリンを日本に持ち込み、銀座で大きな反響を呼んだ。さらに大手ファーストフードチェーンにもエッグタルトを持ち込み、今では日本でもデザートやスウィーツの定番となっている。馴染みになったこれら多くを日本に広めたのが竹本一善、その人なのである。
少年期より学業が優秀な竹本であったが、家庭は貧しかった。すでに小学4年生の頃からは、毎朝眠い目をこすりながら新聞配達に精を出していたという。また高校を卒業してからの1年間は、住み込みで働いて、生活費を稼いでいた。
その後『砂漠の緑化事業』に興味を抱いたことから、鳥取大学へ進学。学費が当時でも1年間18,000円と手頃だったことも進学を後押ししたのであろう。しかしそれでも金が底を尽き、休学を余儀なくされるという苦い経験をしている。通算5年におよんだ大学時代では、その砂丘研究所で砂漠と緑化、干害の関係などについての研究に没頭していた。
1年にわたって休学する羽目となったが、転んでもただでは起きない。竹本のその間の行動は実に前向きでユニークである。大阪に舞い戻ると精力的に働いて貯蓄に励む。そんな折り、試しにたこ焼き屋台をはじめたところ、これが当たりに当たった。吹き出す汗を拭い、串を回して焼き上がるたこ焼きを裏返し、待たせている客の声に答えながら得たある感覚。そして手ごたえ。これが飲食ビジネスとの出会いになったことは言うまでもない。
「屋台といえばたこ焼き。つまり、たこ焼きはビジネスの原点みたいなもの。たこ焼きを通して世界を見たい」。後に経営者となり仕掛人と称されるまでになった竹本は、このようなことを言っていた。現在さまざまな業態をフードコート形式で出店しているが、すべては当時のたこ焼き屋台に原形があり世界に広めた原型であるという。
少年時代の竹本は、他人と交わることを好まなかったという。吃音の症状があったことが、その明るい性格から積極性を奪った。ひとたび自分の好む話題になると饒舌になり、さらには独壇場となる。しかし話題が変わると、途端に打って変わって声が出なくなってしまうのだった。
竹本少年は次第に独自の世界を深めていく。放課後、仲間同士で遊ぶ友人たちを尻目に、友人宅に借りた庭の一角で畑作業に没頭した。収穫した野菜による自給自足の生活。「家が貧しかったこともあってね。野菜や果物は自分で栽培して、魚は魚市でもらってきた。生活費は究極の安さです。7歳か8歳くらいだったかな、すでにそうして生計を立てていました」と微笑む。
そんな頃、学校給食に出されていたが、特に臭いの強さから子供たちに総スカンを喰らっていたものがある。脱脂粉乳だ。竹本の周りでは、これを飲まずに捨てる者が多かった。そこに目をつけた竹本。今度はこれを集め、砂糖を入れ煮つめながら、練乳づくりをはじめたのである。
「まぁ、変わり者。今で言うオタクという感じかな。でも捨てるのはもったいないから、きちんと消費すべく調理加工していたのです」。そう当時を振り返る竹本。自身を取り巻く環境から食料を粗末にしてはいけないという念に圧されての行動であったが、それは非常に子供らしい旺盛な好奇心と探究心に満ち溢れていた。なお、大学で砂漠の緑化の研究にのめり込んでいったのも、幼い頃からの農作業を発端にその探究心が進化したものである。「無から有へ。少年時代からそれに憧れていました。大学時代は不毛の砂丘に植物を植え、緑の農園にすることを夢見た。そして鳥取砂丘での私の経験は、現在、タケモトフーズの未来的事業につながっています」。
ハングリーな時代を過ごしたからこそ、食への意識が高くなった。厳しい現実に危機感や緊張感を抱いてきたからこそ、それを乗り越えようと気持ちを強く持った。吃音で怖がりだったからこそ、大胆にもなれた。凝り性だったからこそ、他人にない斬新なアイデアが閃いた。
そんな竹本であったが、もうひとつ、自己を形成する上で大きく影響したのが母親の存在であったようだ。年頃になり、周りの友人たちが塾に通うようになったが、貧しい竹本家でそれは叶わなかった。にもかかわらず、母はたびたび美術館へ竹本を連れて行ったという。その費用は惜しまなかった。
竹本の母はその昔、新劇に所属する舞台女優であった。それゆえに芸術や美への関心が強かったことは頷ける。母の美術館通いに付き添い、竹本も絵画の色鮮やかな色彩や構図、立体オブジェなど、多くに触れながら見る眼を養っていった。
最近、竹本はベルギー王室御用達の高級チョコレート店『GallerCafe』をプロデュースしている。その店舗は一般消費者に馴染みやすいようにと敢えてセルフサービスという形を選択しているが、その格調を伝えるこだわりの内装のほか、宣伝文句も自身で考案したという。「美味しいものを求める、見極める感性に加えて、母の影響から美しいものを感じる力も磨かれたと思います。縁日のバリエーション豊かな屋台にクリエイティブを感じるのもその影響でしょうか。たとえば同じワッフルでも、私には流行るワッフルがわかる。そういった感性を磨くことは大切で、影響を与えてくれた母に感謝しています」。
鳥取大学を卒業した竹本は、約10年間にわたりサラリーマン勤めを経験している。小売スーパーチェーンのイズミヤに入社すると、食品バイヤーを務めた。しかし組織にはなじめずにいた。中身とともにパッケージにもこだわりたい、エンターテインメント性を持たせグローバルな仕事をしたいと思っていた竹本には力が発揮できないと思いあえなく退職を決めた。そして、それが食の創造へと拍車をかけていく。
同社を退職すると、その行動力と、独特のアイデアを形にした個性的な屋台ブランドを各地に展開させていった。「人を使うのは得意ではないし、好きでもない。まず自分が精一杯動かないと気が済まなかった」というのは、タケモトフーズが大きな組織になった今もそう変わらない。
また創作メニューを国内外に広めていくうちに、いつしか竹本の願いは『世界のおいしいを日本のおいしいへ、日本のおいしいを世界のおいしいへ』と進化を遂げ変貌していく。「大学途中ではじめたたこ焼き屋が、35年を経てフードコートでのチョコレート事業になりました」と笑うように、その信念や思いはますます多角的で戦略的な形となり、推し進められている。
「いま考えているのはこんなこと」と竹本は微笑んだ。「イギリスのガーデナーとジョイントし、植物工場と健康デリカを立ち上げる。それから、鳥取境港とヨーロッパをシベリア鉄道で繋ぎながら、チョコレートの日欧貿易をはじめるというもの。2014年には『バレンタインシベリアロマン鉄道』と銘打って、ヨーロッパ〜ロシア〜日本をチョコレート専用列車で結ぶのです」。
竹本の夢、それは世界的グローバルサプライズチェーン。世界中に人が楽しめて美味しいものを広めて行きたい。発想の大胆さとそのスケールの大きさに驚く。しかし一方で、竹本だからこそやってのけるのではないかという期待が膨らむ。その実現に近づこうと、今も毎週のように自ら海外へ飛んでいるようだ。未到、不毛にチャレンジするのは辛くて苦しくはないか? そう訊ねようとして、思いとどまった。竹本の仕掛け上手は、天賦の才というべきものであろう。明らかに愚問である。無から有を目指す時にこそ、竹本はその目を、その存在を輝かせるのだから。
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