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第349回 株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏
update 13/02/19
株式会社紅花
青木四郎氏
株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏
生年月日 1943年
プロフィール 世界的なレストランチェーン「紅花」を一代で築いた総帥、青木湯之助の四男として誕生する。1961年、18歳でアメリカ留学。1964年より、父、湯之助をサポートし、「BENIHANA OF TOKYO」の全米出店の基礎をつくりあげる。1971年、28歳、ニューヨーク郊外に合掌造りの「GASHO OF JAPAN」をオープン。ニューヨークタイムズの一面を飾る。39年間のアメリカ生活を終え、帰国したのは2000年。日本の「紅花」再建に注力し、若手経営者の育成に取り組むと共に、豊富な資産を活用し、軽井沢に「ツリーハウス」の町を建築。自然保護を訴える一方で、自然のなかで暮らす楽しみを後世に伝えたいと考えている。
主な業態 「紅花別館」「bridges」「アルコ」「モンタルチーノ」「エスト!エスト!」
企業HP http://www.benihana.jp/

日本の復興と共に。

もとタップダンサーだった青木湯之助氏が、戦後の焼け野原の東京日本橋に「あんみつ」や「お汁粉」の「甘味喫茶」を開業したのが「レストラン紅花」の始まりである。
1943年生まれの青木氏は、この時、2歳。四人兄弟の四男坊。湯之助氏はもちろん母も仕事に追われていた。この姿が青木氏の原風景である。戦後の焼け野原が次第に秩序を取り戻し、経済に明かりが灯り始める頃の話である。
当時のことを伺うと「うなるほど金があった」と微かな記憶を手繰り寄せて、青木氏は笑う。「父も、母もクタクタで銀行に預けに行くことができず、タンスの引き出しや布団の下に隠していたんです(笑)。どこを開けてもお金が詰まっていました」。
「甘味喫茶」からスタートした「紅花」は、のちにレストランとなり、外国人たちも訪れ「繁盛」に拍車がかかった。蓄えた資金で、千葉県鎌ヶ谷に土地を買った。この土地がのちに値上がりし、海外進出の原資となる。
「父の湯之助はアメリカが好きでね。ぼくら子どもをアメ横に連れて行くんです。ぼくなんか5歳からジーパンをはかされていました。当然、『いつかはアメリカで』という思いがあったのでしょう」。
「とはいえ、私がアメリカに渡った昭和36年頃はまだ円も1ドル360円。渡航さえ制限されていた時代です。ぼくら兄弟4人を渡米させるために父は一計を案じ、付き合いの深かったレスリング協会の人に頼み、ぼくらはレスリング協会に潜り込んで海を渡ったんです。ぼくが18歳の時のことです」。

「BENIHANA OF TOKYO」、オープン。

父、湯之助氏がアメリカに乗り込んできたのは、青木氏が渡米した翌年の1962年。先見の明を持った湯之助氏は、日本の「鉄板焼」に目を付けた。
「アメリカ人は肉が好き、そういう単純な理由です。それに父はもとタップダンサー。人を楽しませることが得意だし、好きなんです。だから、パフォーマンスも取り入れていくんです。一方、鉄板焼なら料理人はいらないんです。父は、料理人を動かす難しさを知っていましたから、その意味でも最適だと思ったんでしょうね」。
ニューヨークの人たちに初めて「BENIHANA OF TOKYO」がお披露目されたのは、1964年。56丁目のウエストサイドにオープン。爆発的にヒットした。湯之助氏をサポートする青木氏も多忙を極める。
「シアトルからサンディエゴまでの間に、出店できる店を5軒探してこい」というミッションを受けたのもこの頃。長男のロッキー青木氏を社長に、「BENIHANA」は全米に広がっていくのだが、道を開拓したのは、間違いなく四男の青木氏だった。「BENIHANA」同様、タレント性のあったロッキー青木氏の名も全米に知られていく。当時、もっとも有名な日本人の一人だったのではないだろうか。

青木氏、28歳の賭け。「GASHO OF JAPAN」をオープンさせる。

ロッキー青木氏を広告塔にし、実質の経営は父、湯之助が行い、四男の青木氏がサポートする構図だった。サポート役だった青木氏がついにベールを脱いだのが1971年のこと。ニューヨーク郊外に、築200年経った合掌造りのレストラン「GASHO OF JAPAN」をオープンさせたのである。
「父以外は、全員反対でした。父も不安だったんでしょうね。2人きりの時に『四郎、大丈夫か?』と。『もう後がないぞ』と言っていました」。
「それでも、ぼくに賭けて巨額の資金を投資してくれました。父も、ぼくも目的はお金じゃない。お金で目が眩まないから、未来を観ることができるんです。アメリカ人たちが、合掌造りのぼくの店に嬉々としてやってくる、その様子が、ぼくの目にははっきり映っていました」。
市も巻き込んだ「GASHO OF JAPAN」は、ニューヨークタイムズの不動産カテゴリーの一面を飾ったそうだ。オープン2日間、町民は無料にした。小さな町が、一つの店に熱狂した。のちに、店と同様に町名が全米に広がり、地図にも掲載されるようになったという。
まさに父から受け継いだビジネスのタネを開花させたことになる。

レストランと不動産ビジネスの2軸を柱に。

「当時、飲食店にはなかなか融資が下りなかった」と青木氏はいう。父、湯之助氏が千葉に広大な土地を求めたのも、土地を担保にするためだろう。とにかく、湯之助氏は「土地を買い、そこに店を出す」というスタイルにこだわった。そうやって所有する土地は広がり、麹町の某TV局の跡地も、もともとは湯之助氏が所有していたそうだ。
このスタイルをアメリカで貫いたのが青木氏である。
「兄のロッキーは出店スピードに重きを置いたため、賃貸というスタイルを採りました。でも、ぼくは違った。父と同じように土地を買い、店を建てました。だから、店舗数では劣りますが、利益ではこちらのほうが圧倒していました。いまでもぼくはアメリカにかなりの土地を持っていますよ」。
レストランチェーンのオーナーという顔もあれば、土地のオーナーという顔も青木氏にはある。日本の「紅花」を再生するために帰国した青木氏は、店舗の再生と共に、まったくの別軸で土地の活用を考えている。軽井沢にある広大な土地を使った「ツリーハウス」がそれ。
詳細は以下に委ねるが、日本人の感性ではなかなか実現できないビジネスのような気がする。詳細は、コチラを観ていただこう。自然保護、木の保護なども目的としているが、木の上に寝転び、星空を見上げれば、心の保養にもつながるはずだ。
青木氏はインタビューの合間、「調子に乗らないとダメ。積極的に行かないとダメ。くよくよするのは良くない」と再三、言った。ビジネスマンなら「できない」「ムリ」「難しい」は禁句だとも。それを禁句にしたうえで、何ができるのかを考える。そこに壮大なプランが生まれるということを青木氏は、私たちに教えてくれている。
もう一つ、青木氏はいう。
「1ドル80円の時代です。そのぶん、だれもが気軽に海外を行き来するようになった。だからと言って、アメリカが近くなったわけではないんです。いまの多くの人は、アメリカを知らずに帰ってくる」。
「『平等』という言葉がありますが、あの言葉をアメリカ人は生まれた時から心に焼き付けて育ちます。ところが、日本人は『平等』という言葉をはき違えているし、その意味するところをまだ理解していない。これからは、ますますグローバルな時代です。そういう意味ではもっと国際的な感覚を持った人が育っていかないといけないのではないでしょうか」。
真の国際人は、これだけ海外進出する人が増えたいまでもたしかに少数という気がする。飲食においても海外を志向する企業が少なくないなかで、改めて青木氏の話を整理するといっそう興味深く思えてくる。できれば、青木氏が造った「ツリーハウス」で、もう一度、氏がアメリカで取り組んだビジネスの話を聞いてみたいと思った。

思い出のアルバム
 
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