株式会社カゲン 代表取締役 中村悌二氏 | |
生年月日 | 1960年 |
プロフィール | 小・中・高校と野球に没頭し、大学へも野球推薦で進学。大学卒業後、アパレル業界を経て1988年に「フェアグランド」(バー)を下北沢に開店。その後「並木橋なかむら」をはじめ和食を中心に直営店を増やし、現在直営は5店舗。プロデュース業も開始し、これまでに国内外で100軒以上を手掛けている。一方、異業種とのコラボレーションにも積極的に取り組んでいる。流石創造集団株式会社の共同出資による次世代の学校「株式会社スクーリング・パッド」が有名だ。 |
主な業態 | 「分店 なかむら食堂」「並木橋なかむら」「KAN」「銀座KAN」「蕎麦屋山都」 |
企業HP | http://www.kagen.biz/ |
前回、インタビューさせていただいてから2年が経つ。この2年間で中村は新たな顔をみせてくれた。「海外、マーケティング、IT」の三つがキーワードだ。
まず海外では、この2年間の間にソウルに2店舗、マニラに1店舗の新店をプロデュースしている。日本食のブームに伴い、海外のオーナーからのオファーも増えているそうだ。
「韓国やマニラはまだまだ飲食文化が育っていないんです。だから面白いんです」と中村。いま海外といえば、中国上海や北京、香港、タイ、シンガポールなどが注目されている。しかし、中村はそこに面白みを感じない。自ら「天邪鬼」という中村の本領発揮である。
また、マーケティングでは大手の飲料メーカーとタイアップし、消費者に対するプレゼンテーションの方法を提案している。
ITも面白い。ここでは詳細はいえないが、「食」のアプリを、とあるIT企業と共同で作りあげている。話を聞くと使い勝手もあり、なかなかおもしろそうなアプリという気がする。
一方、直営の「飲食店」は、どうなっているのだろう。その点についても伺ってみた。
「赤坂に『なかむら食堂』をオープンさせました。いままでのウチにはまったくなかったコンセプトです。あの震災を機に、私の考えが変わったことを表しています」。
たしかに「なかむら食堂」は、いままでの店とはスタイルが違う。中村がプロデュースする店といえば、格好がよく、閉ざされたというイメージがある。看板のない店まである。気軽に入店できなかったのも事実。客を選別することで、店の価値を高めてきたともいえるだろう。たしかにこれが中村流だったはずである。
だが、「なかむら食堂」は違う。何より子どもとおじいちゃん、おばあちゃん、祖父から孫まで三世代で気軽に入ることができる。「みんなおいでよ」。いままでの店からは考えにくいコンセプトだ。
「地域に根差して愛される店を手がけていきたいと思いました。赤坂に出店したんですが、まんまといい店になりました」と頬を緩める。
中村氏がいう「いい店」とは、繁盛している店を指してはいない。
軸は、自ら思い描いた通りの店になったかどうかである。
つまり、まんまと子ども達も、おじいちゃん、おばあちゃんもやってきて、楽しげに食事をしてくれる店になったということだ。
「なかむら食堂」のコンセプトを用い、プロデュースした店舗もすでに登場している。
この2年を総括して中村を語るなら、「目を離せば、すぐに新たなことを始めている人」ということになるだろう。では、改めて中村を知るために、いつも通り生い立ちから追いかけてみよう。
父は司法書士事務所を開業していたし、親族も大半が商売人。そういうことも関係して、中村は「幼い頃からサラリーマンにはならない」と漠然と思っていたそうだ。
父は、「新しいモノ」が大好きで、東京に新しいホテルができたと訊けば中村を連れて東京に向かったという。中村はこの父と同様、流行に敏感な兄からも影響を受けている。音楽にファッション、2つうえの兄は、中村にとって憧れの対象だったのかもしれない。
しかし、中村自身は、小学校から野球に没頭する野球小僧だった。当時のことだから頭は丸刈りだったのではないか。ちなみに野球は大学までつづけ、大学にも野球推薦で進学している。
父と兄、そして純朴に白球を追いかけた野球小僧の時代は、いずれもいまの中村の骨格となっている気がする。
1982年.大学を出れば就職するのが、まだ当然の時代である。しかし、中村は就職にまったく興味がなかったそうだ。興味・関心があるといえば、ファッションのみ。就職する気はなかったから、アルバイトでマリン系ウェアの先駆けブランドに潜り込んだ。
「日商1000万円、月商3億円」のショップが中村のスタートステージとなった。手を抜くためにアルバイトで雇用されたわけではない。中村はスグに頭角を表し、社員に昇格。新ブランドの新店店長に抜擢された。
半年以上、休まず仕事をした。清掃から販売・ディスプレイ、そして販促企画・売上管理などもすべて1人で取り仕切った。
汗まみれになり、理不尽なことも経験した。だが、「それが私を鍛えてくれた」と中村は当時を振り返る。やりきった、そういう思いもあったのだろう。27歳で中村氏はこの会社を退職している。
「ファッションは好きだったんですが、流行を追いつづけることに飽きたというか、疑問を感じ始めたんです」。いい商品でも、長くは売れない。時間の経過と共に、簡単に捨て去られていくファッションのサイクルに首をひねった。
「一方、当時、私の周りにはバーやレストランといった店のオーナーが多かったんです」。「彼らの規模はまちまちでしたが、いずれも一国一城の主です。飲んで、話しているうちにだんだん惹かれ、ついには『オレも』という思いに駆られたんです。それが、27歳の時。前職を辞した最大の理由です」。
目標も定めた。30歳までの起業である。
退職した中村は、さっそく修行を開始する。「広尾のカフェレストラン」(半年)、下北沢の人気居酒屋(1年)、三宿の著名なバー(半年)。あっという間に2年が過ぎた。そして29歳。独立開業に向け、大きな一歩を踏み出すことになる。
開業を決意し、地の利・人の利がある下北沢近辺で物件を探すものの、時はバブル全盛。保証金や賃料は史上最高水準だった。
そんななかで中村はある格安物件と出会った。駅からそれほど遠くないが、人目につきにくい地下1階。飲食店が立て続けに7件閉店したといういわくつきの物件だった。普通なら腰が引ける物件だが、中村は勝算ありと判断した。
中村はバーを開業するつもりでいた。当時バーといえば、バーボン&ジャズの組合せが定番。だが、天邪鬼の目からみれば定番は、つまらないと映る。「それで定番の真逆のラム&ボサノバという組み合わせを考えたんです」と中村は語る。
国内に出回る80種のラムをすべて入手し、ありとあらゆるボサノバのレコードを収集。地下への階段を下りたスペースには圧倒的なスケールで花を生けた。「ターボエンジン全開だった」と中村。店を一人で切り盛りし、半年間は無休で働いた。
やがて「階段の下に大きな花のある店」として定着。大人向け雑誌で「ラムの飲める店」「ボサノバが流れる店」と謳われ、特集が組まれた。狙い通りである。
下北沢に住むデザイナーや俳優・映画監督といった文化人たちが訪れるようになる。「フェアグランド(広場)」に集った人たちが、交流することで、新たな情報の発信基地ともなっていった。
こののち中村は、和食店を開業する。現在は並木橋に移転して、「並木橋なかむら」となっている「下北沢なかむら」である。バーと和食店では決定的に異なる点がある。和食店では、板前を雇わなければならなかった。新聞の広告で3人の板前を採用したが、これが良くなかった。「おかしいと思っても料理のことがわからないから意見ができず、思い通りの店にならない。数千万円投じた店だったのですが、毎月100万円の赤字。積み重なる赤字に背筋が凍る思いがして、もう店に行くのもイヤになりました」。
「そんなある日、いま私の右腕ともなっているホールスタッフが、『中村さんの好きなようにやってください。ついて行きますから』と声をかけてくれたんです。あの一言で迷いが吹っ切れました」。
中村は3人の板前を解雇した。辞めさせることなどできないと高をくくっていた料理人たちはどう思っただろう。
ともあれ残ったのは、中村と、中村の妻。そして上記を進言してくれたホールスタッフのわずか3名。できることは限られている。しかし、この決断こそが、天邪鬼の発想である。かたちにとらわれることなく、ものごとの本質を見極めようとする思考のうえに成り立っている。
中村たちは10日間店を閉め「何をやりたいのか」を徹底的に議論した。方向を互いに確認し合ったうえで再オープン。信念が客を呼び、たちまち人気店になっていった。
「自分たちがやりたいことが表現できているかどうかが大事なことなのだとあの時、改めて学びました。それができていなければリセットする勇気も大事だということも知りました」。
積み重なった赤字を前に開き直ったと考えるのは早計だ。中村はこの一件で、仕事をする意義や店を営む意味を突き詰めている。店は「経営者の思いを表現するツールである」と中村はいう。仕事も同様に自らを表現する手段の一つなのだ。
「なのに、おいしい料理をつくりたくない料理人や、サービスしたくないホールスタッフがいるんです。おかしいと思いませんか?」。中村はそう呟いた。
話はかわるが、中村は、採用に何より気を使っている。採用したからには、生活のことにも責任を持たないといけないと考えているから、尚更だ。しかし、選別の基準はきびしくない。最近は40代の人が多いという。年齢も気にかけない。ただ、ひとつだけ譲れないことがある。真面目かどうか。「真面目じゃない人とはいっしょに仕事ができない」。その一言の背景には、当時の苦い経験があるのは容易に想像がつく。中村自身、天邪鬼だというが、不真面目な思いで仕事に打ち込んだことは一度もない。
その後も次々と注目される店をリリースする中村の下に、プロデュースの依頼がくるようになった。直営店の経営と、プロデュースが事業の2本柱となる。更に、流石創造集団株式会社との共同出資による次世代の学校「株式会社スクーリング・パッド」も展開。経営者、プロデューサーとして、ますます注目を集めるようになっていく。
スクーリング・パッド卒の経営者とも、この飲食の戦士を通じ、幾人か出会った。学校が間違いなく機能している証拠だろう。
さて、最後に、中村の会社の従業員は全員が正社員であることもお伝えしておきたい。飲食店としては極めて珍しいスタイルだ。このあたりも人と同じことをしない中村の性格が見え隠れしている。
何故、正社員採用なのか、伺ってみた。
「アルバイトは短期で辞めてしまうでしょ。せっかくノウハウを教えてもすぐにいなくなっては意味がない。うちは年齢も関係なしで採用しています。たしかに珍しいスタイルですが、いまあるもの、また、いま常識と言われているような考えを当然のように受け入れるのではなく、自らの価値観で測ってみれば、それ以外の選択も必ずあるような気がしているんです」。
アルバイトに比べ、人件費はたしかに高くつく。だが、それ以上の価値があるから正社員なのである。彼らのなかには、勤続10年、15年という者が少なくない。中村が現場を離れ、プロデュースなどに専念できるのも、現場を任せられる彼らがいるからだ。
中村は、そんな彼らにこう言っている。
「自分たちで考えろ。そして、人と違うことをやれ」。
天邪鬼の精神まで受け継いでいこうとしているかのようだ。
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