株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏 | |
生年月日 | 1951年1月 |
プロフィール | 岡山県総社市に生まれる。子どもの頃は家業の八百屋(よろずや)を手伝いながら、野山を駆け回る少年だった。中学に入り、「生きる」ということを突き詰め、高校ではさまざまな現実と向き合うことになる。桃山学院大学卒後は、老舗のお酢メーカーで営業マンとして敏腕をふるい、1977年に退社。大阪府堺市にすし店を開業。独学ですべてを学び、1984年には回転ずし業界に参入。後発でありながら、2012年現在、業界3位の売上を誇るに至っている。 |
主な業態 | 「無添くら寿司」 |
企業HP | http://www.kura-corpo.co.jp/ |
田中は、1951年、岡山県の中南部にある総社市に生まれる。総社市は、倉敷市に隣接する山に囲まれた盆地だそうだ。戦後復員した父親が市内で八百屋を開き、生計を立てていた。当時の八百屋はいまでいうよろず屋のようで、商品は野菜だけではなかった。「仏前に供えるしきびが良く売れた」と田中は回顧する。
父親といっしょにオート三輪で、その「しきび」を採りに山に向かうことも少なくなかった。水冷のラジエーターがすぐにいかれ、その度に田中が水をもらいに走った。
記憶のなかにある父は、厳しく、何より怖い存在だった。そんな父から気づきの大事さを教わっている。
「ヒトが気づかないことに気づくこと」で差別化が生まれる。とりわけビジネスの世界では気づきは重要だ。「くら寿司」は業界他社に先駆け、さまざまなしくみを導入していくが、これもまた田中の気づきから生まれた発想に違いない。父は怖い存在だったが、大事な教師だったとも言える。
オート三輪に乗って父とともに観た風景も、田中の記憶に彩を与えている。小高い丘から市内を流れる高梁川を観るのが好きだった。地を這うように蛇行した川は、少年の目に自然の壮大さを映しだしたはずだ。
田中には2人の母がいる。産みの母と育ての母だ。1歳の時に、産みの母の下から絡みとられるようにして父に連れ去られた。不思議なことにその時の情景を覚えている。オート三輪からいつもと違う高梁川が観えたという。父親と産みの母親は田中が5歳の時に正式に離婚。3つ上の姉は、祖父の家で暮らすようになったが田中は育ての母の下で育っていく。
育ての母は父に負けず厳しかったが、少年から活発さを奪うような人ではなかった。山に川に、野球にチャンバラ。田中少年は、町中を所狭しと走り回った。「代わりに勉強はぜんぜんしなかった」と笑う。
当時のおもしろいエピソードがある。
「私が小学5年生の時です。授業参観が終わって、先生が『うちのクラスには小学5年生になっても9×9がいえない子どももいる』といったそうなんです。帰ってきた母が、『9×9が言えない子がいるんだってね、先生がそういっていたよ』と笑うんです。まさか自分の息子だとは思わなかったんでしょうね」。
会話のつづきはお察しの通りである。
気まぐれに「9×9を言ってごらん」と問うた母も、問われた息子も、次の瞬間には絶句したというのである。
勉強ができなかったわけではない。9×9を覚えると算数が好きになって6年生時には姉の教科書をひっぱりだしてきて、中学2年の数学まで理解できるようになっている。
とはいえ、むろん勉強漬けではない。多感な少年時代を机に向って過ごすことを強要するいまの父母たちに、田中の子ども時代の話は、どう映るのだろうか。
「私は、面接でね。キミ、昔カブト虫を採ったことがあるかい? と聞くんです。私にとっては、そういうのが原風景。そういう原風景といえる少年時代を過ごすことが大事だと思っているんです。少年時代は少年らしく生きる。大人になって振り返っても、楽しくなるような、そういう時代を過ごしていることで人は強くなれると思うんです」。
田中はそういう風に、言っている。
さて、遊びまわった少年時代が過ぎると、田中は「人生」と向き合うようになる。「中学から人生を考えた」というから早熟だ。社会に蔓延する差別についても考えた。
「明日テストなのに、家の手伝いをしなければいけない子もいれば、勉強に専念できる子もいる。それ自体、格差であり、差別だと思うんです。この頃になると姉の影響もあって本もよく読んだ。頭のなかでいろいろなことを想像するのも好きだった。あの頃から好奇心は人一倍旺盛だったんでしょう。数学の公式もね。あれこれ、考えるんです。頭のなかで。机に向かって勉強しないけど、そういう風に、頭のなかで想像することで、好奇心を満たしていた気もします」。
もともと思考に傾倒する傾向が強かったのだろうか。まだ中学生に関わらず生きる意味まで探そうともがいた。そんな時に、高村光太郎氏の「道程」と出会った。「あの有名な、僕の前に道はない…という奴です。そうか、創造するってことが生きる意味なんだと、その詩を読んで気づくんです」。自立ということも、学んだはずだ。だからといって、まだ中学生。人生を達観したとしても、なかなか自由にはふるまえない。高校進学も目のまえにあった。
勉強嫌い。でも、頭は良かった。地元でいちばん有名な進学校に進んだ。もっとも何か目的があったわけではない。
高校時代には2つの思い出がある。一つは冷ややかな心、もう一方は温かい心との出会いである。ただし、いま振り返っても高校時代は暗澹たる時代だった、と田中はいう。「生きること」に向き合うと自然と「死ぬこと」も意識するようになった。当時のエピソードを2つ挙げてみる。
「1年生の時です。応援団の団長に指名されたんです。その時、クラスの女子が高下駄を持ってきてくれて。その下駄がなくなってしまったんです。たしかに私も、何度かそれを履いたのは事実です。しかし、盗るわけはない。にもかかわらず容疑者のように扱われてしまうんです」。教師に「白状しろ」といわんばかりに冷ややかな目を向けられた。いまよりも当時の教師は、生徒たちの尊敬の対象だったに違いない。その教師から白い目でみられる。
「何を言っているんだと。教師でもこうかと愕然としました」。ただし、恨みに思っているわけではない。
「当時のことはいまも忘れてはいませんが、けっして憎んでいるわけじゃない。それどころか、このおかげで、教師だって間違うんだから、そりゃ誰だってミスはする、だから、許そうと。そう思えるようになったんです」。
「一方で、これは3年生の時です。『何をしていいかわからないからとりあえず大学に進学する』とある先生に言いました。すると、『じゃぁ少しでいいから英語を勉強しよう』と誘ってくださったんです。それからです。半年間ずっと朝、授業が始まるまでマンツーマンで英語のレッスンです。まだ若い先生でね。当時28歳。私と10歳くらいしか離れていません。それでも、教師だったんですね。先生です。英語もそうだけど哲学というか、生き方を教えていただきました。急がば回れだぞ、とね」。
教師の目に当時の田中はどういう風に映っていたのだろう。田中は言われるまま休まず、先生の向かいに座り続けた。ただしく言えばいまも座り続けていると言える。
「あれから40年経ちますが、いまでもあの時の英語の教科書を持っています。勉強も言われたようにずっとやってきました。いまでもペラペラじゃないけど、たとえば任天堂さんから出ている英語のゲームがあるでしょ。あれなら上級でも満点です(笑)」。
この教師とはいまも親交がある。「いつの間にかうちの息子まで、あの時の先生を抜いちゃったけど、立派な先生だったといまでも思うよ。先生って凄いよね」と田中。
良い思い出も、悪い思い出も、田中は血肉にしている。ひがまず、羨まず、まっすぐに生きているからできることなのだろう。
そののち田中は大阪の桃山学院大学に進み、ここで奥さまを出会っている。
学生結婚。「自立」という二文字がテーマとなる。
哲学的な少年が青年になり、奥さまと出会い、2人でお金を出し合い、ささやかだが爽やかな青年らしい式を挙げた。友人たちがギターを弾いたり、バスを運転してくれたりした。
「自立というのが早くから私のなかにあったんです。これは女房もいっしょです。私は、大学に入学した時に父から40万円もらって、『これからは、一人で生きていくように』と言われたんです。それ以来、自活していましたから、ある意味、もう一人前だという気持ちもあったんだと思います。親の手を借りず2人の力だけで式を挙げました。つつましい式だったけど、2人にとっては何よりも、豪華な式に思えました。あの時の写真を観ると、ずいぶん若いのに、いっちょうまえな格好をした2人が映っているんです(笑)」。
結婚をしたことで制約も生まれたことだろう。夫になったとはいえ、まだ定職も持たない青年だ。しかし、田中はまったくハンディとは思っていない。
大学卒業後、あるお酢のメーカーに就職するのだが、選択した理由は給料が良かったから。家族を養うことは、自立の始まり。そう認識していたのだろう。
「もう結婚もしていましたから、普通の初任給では生活ができない。だからこの会社を選んだんです」。老舗の大手企業で、名前をいえば、誰もが知っている会社である。
会社ではもちろん必死に努力した。なにしろ生活がかかっている。
「自立」はある意味、逃げ場をなくすことかもしれない。現実が、哲学少年の目をお得意先に必死に走らせた。
田中が、小さな寿司屋をひらいたのは1977年、26歳のことである。こちらはまだ一般的な寿司屋で、回転寿司店を開業したのは、その7年後のことである。翌年には株式会社くらコーポレーションを設立。快進撃を始める。
「親が商売をしていたこともあって、小学生の頃からいずれ私もと思っていました。でも、飲食店をやるとは決めていませんでした。前職の営業で、お寿司屋さんを回っていたのが、縁の始まりです」。
田中の目に、当時の寿司店の経営は極めて非効率に映った。改善方法を提案したが、受け入れてもらえない。その旧態依然とした寿司店という世界に、ビジネスのチャンスをみた。
「寿司は日本の国民食でしょ。しかも、高級です。経営がずさんでも、ちゃんと儲かるんです。だから、私がもっとこうすればと言っても耳を貸さないんです」。
「営業としては辛いですよね。でも、私は起業を考えていましたので、逆にビジネスチャンスととらえることができました。大阪の堺市で持ち帰りと出前専門の寿司屋をオープンさせたのです」。
この店が「くら寿司」の創業店となる。もっとも、回転寿司業界に参入したのは、前述通り、7年後の1984年のことである。ちょうど時代はバブルに向かっていく頃。回転寿司は、雨後の筍のように生まれ、「くら寿司」は後発の1社として大手を追いかけるようにスタートを切った。
その後の「快進撃」は誰もが記憶していることだろう。「回転寿司」でなければ、こうはいかなかったかもしれない。田中は寿司職人でも、料理人でもないからだ。だが、逆にそれが功を奏しているように思う。「くら寿司」の発展は、田中が、料理人や寿司職人とは異なった目で、経営を捉え、その経営に専念したからだと思うからだ。
アイデア社長らしいシステムも数多く導入してきた。経理のシステムもいち早くコンピュータ化している。企業努力は、一皿100円という値段のなかで「見える化」され、「旨い」という一言に凝縮されていく。
しかし、それ以上に消費者の心をつかんだのは、田中の思想そのものではないか、という気がする。「くら寿司」では、化学調味料を一切使わず、すべてが無添加である。「たとえばシーチキンとマヨネーズには化学調味料が入っています。これでは無添加とは謳えない。だから、自社工場で研究を重ね、無添加のものを作り出しました。味噌汁もそうです。『くら寿司』では、天然のカツオと昆布で出汁を取っています。経営の合理化とはまた違う意味で、これは私のこだわりです。この無添加、つまり体に取り入れても何ひとつ問題がないものを食べていただくというこだわりがなければ『くら寿司』とはいえなくなるんです」。
うま味調味料を用いれば、簡単においしい出汁ができる。自社でマヨネーズやすし酢まで作るには、それなりのコストもかかるだろう。しかし、コストよりも大事なことがある、と、無添加にこだわる。これが「くら寿司」の生命線であり、田中流のビジネスのやりかた。言い方を替えれば、田中の無垢なまでの、まっすぐな生き様なのである。
このほかにも、「くら寿司」はさまざまなシステムを導入し、なかには特許を取得しているものも数多くある。時間制限を設け、自動で寿司が廃棄されるシステムもその一つだ。「時間制限管理システム」と呼ばれるこのシステムは特許を取得するとともに、食の安全・安心に対する考えを見事に証明した。
これ以外にも直線型レーン、タッチパネル式注文システム、皿カウンター、子どもたちに大人気の「びっくらポン!」、予約システムの導入など、その先進性はいうまでもない。2011年12月からは、すべての皿にカバーが付けられた。これは「鮮度くん」と呼ばれている。
これらも合わせ、全部で50件以上の特許を持つ。アイデア社長、田中がひっぱる会社らしいといえなくもない。
ただし、もう一度いうがこれらのアイデアは、単に経営効率化のためではない。むしろ逆にコスト増につながるしくみも少なくない。だが、田中にはお金の多寡では測れない「価値ある商売を」という志がある。お金に心を売った時点で、田中の起業の意味も、商売の意味も失せる。
「中学の時にね、人生について、また生きることについて考えていたでしょ。するとね。結局、生きるってことは死ぬことなんですよ。そう考えると、死ぬ時に『いい人生やったな』と言えるように生きていきたと思うようになったんです。その時の考えをいまも私は守っているんです」。
「くら寿司」には、田中の「後悔なく、生きる」という思いが具現化されている。だからやすきに流れず、驕らず、負けず、媚びない。ひょっとしたら、我々は、その「純粋さ」に惹かれ、店に向かっているのかもしれない。
高級店のような寿司はないかもしれないが、積み重ねられていく皿の数に「くら寿司」の強みが表れている。一皿100円の、幸福を誰もが味わっている。
席の向こう側で私の枚数を越え、山のように積み上げられた息子たちの皿をみて、改めて大きくなったなと、ほほ笑む。そんな父はけっして私だけではないだろう。これもまた「くら寿司」に行く楽しみだ。
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