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第352回 株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏
update 13/03/12
株式会社麺食
中原 誠氏
株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏
生年月日 1973年12月12日
プロフィール 埼玉県出身。3人兄弟の長男。都立大学卒業後、「第一勧業銀行」に入社。起業を志し、28歳で退職。飲食のノウハウを修得するため、「ベンチャー・リンク」に転職。2年後、現場体験を求め、「グローバルダイニング」へ。3年間、勤めたのち、父、明氏が経営する株式会社「麺食」に入社。2012年6月代表取締役社長に就任する。
主な業態 「喜多方ラーメン 坂内・小法師」
企業HP http://ban-nai.com/
2013年2月に、この記事を書いているのだが、現在期間限定で<ガツンと辛い「青唐うま塩ラーメン」>がリリースされている。辛みは野菜からということで、均一化されていないそうだ。その素朴さがいい。辛みの素となる「青唐」もまたいい。「青唐」はアジアで好まれる食材。このあたり、「モンスーンカフェ」出身の中原氏ならではのアイデアという気がする。福島が生んだ「喜多方ラーメン」。そのご当地ラーメンに新たな1ページが加わろうとしているのかもしれない。

父と、自立と。

さまざまな商売をやった。中原ではなく、父であり会長である中原 明氏のことである。もともと北海道の酪農家の息子に生まれた明氏は大学進学で上京したものの、すぐに大学を中退。それ以降、ハンドバックや窓ガラスのサッシを販売するなどをして生計を立てた。結婚は早くて、長男の中原が生まれたのも、父、明氏がまだ21歳の頃のことである。
起業家精神旺盛な明氏は「信州そば中原」などを開業するが、なかなかうまくいかない。結婚したばかりの妻を店に残し、何度も修行に出かけた。その結果、料理職人として腕をあげていく。その一方で、一時期、会社組織に入り、フランチャイズ展開を任されるなどして経営ノウハウも吸収していくことになる。JR関連の子会社の役員に名を連ねたこともあった。のちに福島の名店「坂内食堂」に教えを請うため単身乗り込み、「喜多方ラーメン」を全国区にしたことは有名だ。
ただ、仕事に熱中すればするほど家庭を顧みる時間は少なくなる。「特に、会社を立ち上げる前後数年は家にもなかなか帰ってこなかった」と中原も語っている。たまに帰ってくると、「子どもにスグに雷を落とす怖い父」だったそうだ。
そういう環境のなかにあって、中原は小さな頃から自立しようと何度も己を奮い立たせていた。「父に反抗しているわけじゃないんですが、父にぜんぶ頭を押さえられているような気がしていたんです。でも、食べさせてもらっている以上、文句も言えません。だから、早く自立したかったんです」。
小学6年生の卒業文集では「将来、店をやる」と宣言したし、中学卒業時には「就職する」と先生に言い切った。稼いで家を出る、それが狙いだった。
そんな当時の中原には、父の会社を引き継ぐなど思いもよらない選択だった。

剣道一直線だった生真面目な少年が一転…。

ところで小学生から成績は優秀で中学校の入学式では、新入生の挨拶も任された。剣道の道場にも毎日通う、文武両道の少年だった。今でも付き合いがあり、「合宿の時には米を差し入れる」という関係の、この時の道場主は、中原にとってある意味、父親代わりだったそうだ。
「週6日は通いました。学校が終わればスグ道場に向かいます。けっこう強くなって、警察の道場で練習したり、大学の練習に参加させてもらったりしていました。でも、ある時、このまま剣道をつづけていっても警官か、消防士か、そういう将来しかないと思うようになって。それで中学3年の時にあっさり辞めてしまうんです」。
高校は県内でも指折りの進学校に進んだ。しかし、高校進学は、中原にとって気乗りがしない選択だった。すでに書いた通り、中学の先生には「就職する」と一度は言い切った中原である。
「できるならそうしたかった。でも、まだ子どもです。巧く丸め込まれたというか、結局、長い物に巻かれてしまったというか。そういうジブンもイヤで」。
中学に「志」を置いてきてしまった。そんな思いだったのだろうか。高校生になると勉強をする気もうせた。悶々とする日々がつづく。だが、けっして高校時代が楽しくなかったわけではない。
「私服が許された、自由な校風だったんです。朝、出席簿を付けるためだけに登校して、スグにふけるんです。パチンコに行って、そのままアルバイトです。イベント関連のバイトで1回、1万円ぐらいもらえましたから、パチンコの分と合わせると結構な額になりました」。
流されるままの生活。「楽しくない」ことはなかったが、「むなしさ」をかみしめるような日々だったのも事実である。

一年発起。

「もともと数学が好きで、この科目だけは、なんとかいい点を取ることができました。そういう理系の頭ですから、ある時、LEDとか、そういうのを発明する仕事に興味を持ちはじめたんです。環境にやさしい、というフレーズもストンと腹に落ちました」。
「それで環境にやさしい製品を発明してやろうと、化学をめざすんです。でも、現役で大学を合格するには時すでに、遅し(笑)。予備校通いをはじめます」。
いったん「こうだ」と決めれば、すごい集中力を発揮する。これも中原の特長だ。部屋にあった漫画はすべて捨てた。悪友との付き合いも断った。予備校では、欠席する友達の代わりに授業に出て、その講義も受けるという貪欲さも発揮している。
「結局、いくつかの大学に合格。もともと行きたかった埼玉大学にも合格したんですが、よく見ると都立大学の設備がいちばん優れていて、これだと思って、そちらに進むことにしたんです」。中原にとって入学は目的ではなく、あくまで手段。そう割り切った選択だった。
勉強熱は、大学でも衰えなかった。新たに抱いた「志」を胸に大学に通いつづけた。しかし、言葉を選ばずにいえば、中原はけっして研究バカにはなりたくなかった。
中原にとっては研究も、発明も、ビジネスを起こす手段だった。だが、深く知れば知るほど、研究とビジネスが別モノという気がしてならなかった、事実、教壇に立つ教授たちもビジネスとは無縁である。
経済学部の授業に顔を出すようになったのは、その頃から。得意のモグリである。3年になって教授にも勧められ学部をかえた。経済について勉強することは「起業」につながる、という思いからだ。
「2回は卒業できるだけの単位を取った」と中原は学生時代をふりかえる。パチンコ漬けの高校生が、見違えるように変身したことになる。この変化を生んだのは、間違いなく一つの「志」だ。起業という二文字が、中原をさらに変えていく。

第一勧業銀行入社。バンカー時代到来。

「教授には院を勧められました。将来はアナリストに、そういう考えもあって勧めていただけたようなんですが、私は、もっと現場がみたかった。企業の営みや、その方法を、です。そのために選択したのが第一勧業銀行でした。少なくとも3年、ここで修業しようと」。
バンカー時代の中原は、学生時代に負けないほど勤勉だった。朝も、夜もなくはたらいた。寮に戻っても部屋まで行けず、玄関で寝てしまったこともあるらしい。
「中国の、いまでは有名なコンピューターメーカーを担当していたんですが、向こうは外資ですから、為替を気にします。アメリカのマーケットが閉まるのが日本時間で朝の3〜4時なんですね。で、それを確認するともう寝る時間もありません。1日、数時間の睡眠時間でした。でも、苦になりません。中原家は代々仕事好きなんです(笑)」。
「銀行時代は、担当エリアにも恵まれていました。飲食のなかでもスポットライトを浴びるようなお店が、軒を連ねるエリアだったんです。当時はもう飲食での起業を考えていましたので、リサーチにはもってこいでした」。
バンカー時代の中原は、いい仲間とも出会い、いい上司にも恵まれた。だが、当初の「志」は、かわらない。「独立開業」である。5年目、みずほ銀行への合併が目前に迫り、これを機会に職を辞した。

ベンチャー・リンクへ。グローバルダイニングへ。そして。

中原がつぎのステージに選んだのは、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していたベンチャー・リンクだった。28歳、起業への思いは止まらない。
1年半後、今度はグローバルダイニングに転職した。日本の飲食でもっとも進んだ経営をしていたベンチャー・リンクと、片やレストラン業態で急成長するグローバルダイニングである。どちらも銀行時代同様、厳しい仕事が待っていたが、中原はむろん根を上げない。
グローバルダイニングでは2年足らずでお台場の店長まで任されている。
真剣、勝負。
そんな中原に魅了される人間も次第に増えていった。
いずれ起業を、という思いのなかに、父の跡を継ぐという選択肢が加わったのは、実は、ずいぶん以前の話だった。
「私が第一勧銀に就職するときに、母が他界するんです。その時、弱り果てた父をみて、企業を継ぐというより、父の面倒をみないといけないという思いに染まるんです。それでも、私から父にその話はいっさいふりませんでした。私からすべき話でもなかったし、跡を継がなくても父の面倒はみることができると思っていたからです」。
しかし、父親の明氏のほうでも、数年間のうちに変化があった。もともと「麺食」は3人の仲間で起業したのだが、明氏を除く2人が退職する。それがきっかけになったのだろうか。ある日、中原が店長を務める「モンスーンカフェ」に、社員を連れて明氏がやってきたのである。
「あれは、父からのサインでした」。違う道を進んできたような2人だったが、心は通じ合っていた。言葉を交わす必要もなかったかもしれない。だた、中原は、「いままでと違ったこともするが、それでもいいか」とたずねた。父、明氏は、快諾する。そうして、中原の「麺食」の第一歩がスタートした。

喜多方ラーメンは進化する。

回り道のように映らなくもない。まっすぐ「麺食」の2代目をめざす道もまったくなかったわけではなかったからだ。だが、この回り道は、けっして無駄ではなかった。
バンカー時代には金融や財務を学び、ベンチャー・リンク時代にはフランチャイズの経営手法も、科学的な経営手法も修得した。グローバルダイニングではいうまでもなく、ハイクラスなレストラン運営のノウハウを最前線で修得している。
初代、社長の明氏が、福島の名店「坂内食堂」に一人乗り込み、教えを乞い、「喜多方ラーメン」を開業した時とは、店舗数も、企業規模もまったく異なっている。時代そのものも多様に変化し、飲食に求められる「旨さ」も確実に進化している。
それだけに、麺食、それ以外で多角的な視点を取り入れ、自己成長を遂げてきた中原は2代目社長に最適だともいえる。
冒頭に「ご当地ラーメンに新たな1ページが加わろうとしているのかもしれない」と書いた。時代は変化する。その時代の変化は、一杯のラーメンにもみることもできるだろう。
その変化と進化の先を、期待したい。

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