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第357回 株式会社藤一番 代表取締役社長 牧野正義氏
update 13/04/16
株式会社藤一番
牧野正義氏
株式会社藤一番 代表取締役社長 牧野正義氏
生年月日 1960年12月8日
プロフィール 愛知県名古屋市に生まれる。子どもの頃から会社を継ぐ長男として期待され、育てられるが、20歳の時、父が長年営んできた会社を整理する。愛知工業大学卒業後は、トヨタ系のディラーに就職。新人ではトップの成績を残したが、翌年1月に退職。起業を志し、京都で食べた一杯のラーメンをもとに「藤一番」を開業。2013年2月現在、「藤一番」のほか「総本家しなとら」「炙厨房こんろ家」という3業態を名古屋中心に77店舗展開している。
主な業態 「藤一番」「しなとら」「こんろ家」
企業HP http://www.gf-gf.jp/

殿様のように育てられ。

牧野が生まれた1960年は、昭和でいえば35年。ちょうど復興の足音が鳴り響き、戦争で傷ついた日本の経済が息を吹き返す頃である。
4年後の1964年には東京オリンピックが開催され、牧野が10歳になる年には万国博覧会が開催されている。
名古屋市も時代とともに区画整理が進み、現在の16区になったのは1975年頃だと思われる。ちなみに名古屋市に新幹線が開通したのは1964年。東名高速が開通したのが1968年のことである。
牧野の父は、この名古屋市で繊維会社を営んでいた。事業は順調で、資産も少なくなかった。3人兄弟の真ん中だが、長男の牧野にはいずれ会社を継ぐという、父との間に暗黙の了解があった。
「父は、男尊女卑を具現化したような人です。私は長男だから、夕ご飯も姉や妹より一品多いんです。でも、けっして姉や妹をないがしろにするような人でもなかった。姉や妹には早くから着物を与え日本舞踊の稽古もさせていました」。
「私にはそういうのがなかった。いずれお前には会社を渡すから、というのが父の言い分だった気がします。それはともかく、姉とも1歳しか違わないから、兄弟のなかで私がいちばん偉いんです。殿様のようなものです。男は、女より偉い。こういう古めかしい考えが染み込んでいました。これが、中学になってちょっとした事件につながるんです」。

シカトされる中学生

小児ぜんそくだったこともあって、スポーツはあまりやらなかった。だが、引っ込み思案というタイプではなかったのだろう。どちからといえば親分のように振る舞っていた。小学生の時は、それでも許されたが、中学生になるとそうはいかなくなってしまう。
「シカトされるようになったんです。そりゃそうですよね。女の子は最初からみくだしていましたし、お殿様のように振る舞っていた、それも悪かったんだと思います。傷つきましたが、当時はジブンが悪いとは思いません。だから『もう、オレは一人で生きていく』と心に誓うんです」。
「たしかに辛かったです。ただ、いま思えば、あの時があったから人間を観察するチカラも洞察するチカラもついたんだとプラスに考えられるようにもなりました。なにを大げさな、と思う人がいるかもしれませんが、40人ぐらいのクラスで何をするにしてもシカトされるんです。そのなかで生きていくわけです。これは壮絶ですよ。観察力や、洞察力がなければ、いっそう傷つけられるわけですから」。
部活は、3年の時、バスケットボールを少しやっただけ。成績は学年で中クラス。孤独と戦いながら、卒業する。

父、会社を整理する。

同じクラスからも数名、同じ高校に通ったが、高校では中学のようにシカトされることもなくなった。「私もさすがに、どう振る舞えばいいか、をわかるようになっていましたから(笑)」。
「一人で生きる」という決意もしばらくは胸にしまった。高校では陸上部に入った。「3年はいたけど、2年生はいなかったんです。ま、サークルや同好会みたいなゆるい部です。大会なんか出ても、ハナから勝とうとは思っていません。まぁ、こういう部だから続いたんだと思います」。
足は速くならなかったが、友だちはできた。
中学とは違い、学校に行くのも楽しかったはずだ。だが、今度は、父の会社が傾きかけた。「将来は社長」という前提が崩れ始めたことを意味する。
「薄々は気づいていましたが、大学進学の時に、父から『東京にはやれない。下宿代をだせないからだ』と言われました。ただし、『入学金だけは、出してやる』とも。愛知工業大学を選択したのは、ほかに入れるところがなかったからという理由もありますが、名古屋から出られなかったというのも理由の一つです」。
大学2年の時、父は会社を整理した。「倒産してしまうと迷惑をかけますから、まだ余力がある時に整理したんだと思います。広い土地も、家も、車もすべて処分。小さなマンションに引っ越しましたから、私は、その時から独り暮らしを始めることになります」。
授業どころではなかった。月10万円。授業料と生活費、合算すれば、これが最低ライン。だから少しでも時給がいいアルバイトを求め転々とした。肉体労働もしたし、水商売もした。大学生か、いまでいうフリーターかわからない生活が続いたが、大学は辞めなかった。大学を卒業する、それが苦しいなかでも、大学に行かせてくれた父への恩返しだと思っていたからだ。

トップセールスマン、1年も経たず離脱。

無事、大学を卒業した牧野はトヨタ系の自動車ディラーに就職する。しかし、この会社を1年も経たず退職。その後、起業への道を進むのだが。
「母がこの年に他界します。何もしてやれなかった。何もできなかった。父が会社を整理する時もそうです。私にもっとチカラがあれば、と何度も思い返しました。そういう視点からみると、当時の仕事の意味合いが急速に色あせたんです。失礼な言い方ですが、何年もうえの先輩の年収が、ぜんぜん、だったんです。これでは、意味がないと退職を決意しました。ずいぶん、引き止められました。私の成績が新人のなかでは群を抜いていたからだと思います」。
「才能? いえいえ、新人のクセに売れたのは、ドンドン値引くからです。最初から限度額いっぱい。何でこんなに値引くんだって、始末書も何枚も書かされました。それでも引き止められたというのは、結果主義の表れ。だいたい駆け引きっておもしろくないでしょ。だから、私は上司が値引ける限度額を知っていたから、最初からそこまでドンと安くするわけです。もちろん、それ以上なんて値引けません。買うか、買わないか、商談も2つに一つです」。
せっかく、優秀なセールスを記録したにもかかわらず、あっさり退職。この思い切りの良さも牧野の神髄である。

京都で出会った一杯のラーメンに魅せられて。

「もともと飲食をやるつもりだったんですか?」という問いに牧野は首をふる。起業という志を抱いたが、飲食業は頭の隅にもなかった。ところが京都で出会った一杯のラーメンでスイッチが切り変わる。
「当時、名古屋にはほとんどラーメンチェーンといえる店がなかったんです。あっても中華料理店のラーメンとか、そういう奴です。そんなとき、京都で一杯のラーメンに出会います。『藤一番』の原点となるラーメンです」。
一杯のラーメンに魅せられた牧野はさっそく半年間、修業。その後、名古屋の繁華街に8坪のラーメン店を出店する。それが「藤一番」の始まりである。
「奥まった半地下で目立たない場所でした。朝の11時から翌朝の5時までの営業です。深夜になってようやくお客様がやってきてくださるんですが、日商5万円が精一杯でした。そういうのが半年ぐらい続きます。もともと一つのことを長く続けたことがないタチです。店主という責任がなければ、早くにサジを投げていたかもしれません」。
日商5万円は、ギリギリ赤の出ない数字だった。言い換えれば店を開け、20時間はたらいても、儲けがまったくなかったことを意味する。
店は徹底的にキレイにした。学生時代の水商売の経験がものをいう。お持ち帰りができるようにして「お持ち帰りラーメン」を売り出しもした。周辺の飲み屋に行って、サービスもした。そういう地道な努力が実り、1年後には日商が倍増した。10万円。8坪の店が叩き出す数字とはしても、申し分ない。
一杯のラーメンに魅せられてはじめた事業は見事、軌道に乗り始めた。

「人生の仕上げに取り掛かろうと思う」

取材時、牧野は52歳。60歳までの8年間で最後の大仕事をしようとしている。起業した「藤一番」は、リーマンショックをはじめとした様々な時代の局面にも、左右されず、少しずつだが、力強く成長してきた。
「藤一番」以外にも、「しなとら」「こんろ家」というブランドをリリースしている。海外でもグアムやタイに2店舗の店を構えている。
直営も多いが、主力はFC。共栄共存の考え方が、功を奏している。もともとは都心部への出店が多かったが、7年目ぐらいから郊外に大型店も出すようになった。収益は安定していて、揺るがない。
それでも、牧野は、いま以上を貪欲に求めているわけではなさそうだ。ここ一番の大仕事も、実のところ代替わりという意味だと思う。
ラーメン店を起業するといったとき、姉は、こういった。「恥ずかしいから、辞めてくれ」と。飲食がまだまだ水商売と捉えられていた時代である。それから、「飲食」の在り方も、世間からの評価もずいぶんかわってきた。その進化の一翼を牧野もたしかに担ってきたはずだ。
だからこそ、次へのバトンタッチがますます重要になる。
「名古屋にもまだ20店舗ほどの出店余地が残っています。FCを中心に、出店をしていく、この方向は決まっています。そして、今現在グアムに2店舗、タイに1店舗出店していますが、今後はグローバルの時代。海外出店もさらに積極的に行っていきます。」。
さて、最後の仕上げに走り出した牧野は、この数年間でどんな進化を私たちに見せてくれるのだろうか。
走り出したら、とまらない。思い込んだら、一直線。そんな戦士のいまからがますます楽しみだ。

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創業当時 小牧本社外観 経営理念
 
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