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第359回 株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏
update 13/04/30
株式会社竹若
竹若 勝氏
株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏
生年月日 1946年2月22日
プロフィール 福岡市博多区に生まれる。福岡大学卒業後、トヨタカローラ福岡に入社。営業マンとして断トツの成績をあげる。新人賞をはじめ、数々のセールス記録も打ち立てた。26歳で新人教育の講師まで行うようになる。その後もハイレベルな成績を残すが、30歳の頃、「明太子」で有名な「やまや」の立ち上げに参加するため退職。「やまや」では創業者の片腕として明太子を全国区にし、「やまや」を10年で100億円の企業にする。その後、同社を退職し、まったく未経験にも関わらず数億円の投資を行い、築地本店を開業する。これが1988年のこと。現在では、懐石料理以外にも、行列が耐えないスウィーツ店やスカイツリーのスカイタウンに「江戸MYスイーツ竹若」など展開している。
主な業態 「さかな竹若 築地本店」「蕎麦家 竹若」「UDONカフェ SAKURA参道」「PLUME」[江戸MYスイーツ竹若]
企業HP http://www.takewaka.co.jp/

博多区古門戸町

福岡市博多区は、いまでは繁華街のど真ん中である。地図で調べてみると竹若が生まれた古門戸町は天神にも近く、中洲にも近い。とはいえ、竹若が生まれたのは1946年、一般にいう終戦の翌年。街はただただ荒廃していたに違いない。
竹若は5人兄弟の5番目だか、長兄とは20歳も離れている。「それでも兄弟は兄弟」というが、物心がつく頃にはもう兄は父の仕事を手伝っていた。竹若家は父の代から和菓子の卸を行っている。
戦後の復興に歩調を合わすように竹若も成長する。中・高とバレーボール部に所属するが、どちらでもキャプテンに祭り上げられている。
「いちばん下ということもあったんでしょう。けっして甘いわけではありませんが、父も母もなにも言いません。どちらかといえば自由奔放に育てられました」。
金銭的に苦労したこともなかった。大学も私学の「福岡大学」に進学している。

いつか東京へ。

「いやぁ、九州大学のほうが近くにあったんですよ。でも、あちらは国立。勉強ができない私には、距離的に近くても遠い存在です。それで学力的に近かった『福岡大学』に進んだんですが、『なんで、近くの九大に行かないのかって』。そういう風に言われたこともありました(笑)」。
私立の良さもあった。勉学はほどほどでも遊びに熱中できたから。いい仲間とも出会えた。大学でバンドを始め、グループを組んでコンサートも開いた。パーティチケットを売る、それがバイト代わり。グループ全員が長身でイケメン。ファッションもクールに決めていた。ただ、演奏はぜんぜんダメ。演奏が始まると会場は静まりかえった。いま思えば若気の至り。穴があれば入りたくなる。だが、このバンド活動のおかげで最愛なる奥さまと出合っている。
当時の竹若はエネルギッシュだった。バントをやる一方で、いずれ九州を離れるという目標ももっていた。「漠然とですが、カレー屋を東京のど真ん中でやりたいな、と思っていました。何より当時はカレーが大好きでね。クルマで大阪や東京までカレーを食べに行ったぐらいです」。カレーといっしょに都会の空気も味わった。
いずれ東京へ。そういう思いがいっそうつよくなったはずだ。

カーディーラーに就職。敏腕営業マンになる。

竹若の結婚は早い。大学時代から付き合い始めた奥さまと23歳で結婚。子どもも授かっている。そうなると、就職も生活の手段である。
紹介で、トヨタカローラ福岡に就職。東京はいったん棚上げとなった。
この会社での敏腕ぶりが、「凄い」の一言。「当初は、先輩といっしょに喫茶店でサボっているような奴でしたが、ある事故をきっかけに心を入れ替えました」。小さな事故ではなかった。心を入れ替えるだけで許されるものでもないとわかっていた。
ただ、「その人の分まで頑張らなあかん」といわれた。その言葉にすがるしかなかった。一方で人と人のつながりを重視するようになった。本人いわく「持ち前の要領の良さ」もあったが、誰もが竹若をサポートし、契約がどんどん取れるようになった。
新人賞をはじめ、数々のセールス記録も打ち立てた。数字をみればあきらかだが、当時月4台販売すればいいと言われていた。竹若は、そのなかで年間600台販売している。月で割れば50台という結果となる。
「もちろん、月によって違いますが、平均50台。割と有名にもなって、新人教育の講師も頼まれました。会社のなかでは昇格もはやく、昇格しても、今度は任された課がトップクラスの売上を記録していくんです」。
売上の秘密は周りの助けだった。竹若のためには、誰もが何かとしてあげたくなるようだ。

「やまや」入社。

30歳の時、転機がふいに訪れる。会社のなかでも将来を嘱望されていた竹若である。しかも、トヨタカローラ福岡といえば大手カーディーラーの一つ。将来、取締役などになることもできたのではないか。
だが、竹若はあっさり、将来を捨てた。
「ある日、同級生が訪ねてきたんです。彼は奥さんと2人で明太子を作っていました。でも、ぜんぜん売れないというんです。それで、私の営業力を見込んで『来てくれないか』と。ええ、転職のお誘いでした。彼も奥さんのほうも幼馴染で良く知っていました。彼らがつくる明太子を食べるとこれがまた旨い。まさか、いまのようになるとは思ってもいませんでしたが、この明太子ならなんとかできるんじゃないか、そう思って転職を決意し、彼の申し出に快諾するんです」。
竹若がこの時入社したのが、あの有名な「やまや」である。しかし、当時は創業して間もない頃。明太子が売れず、言葉を選ばなければ、竹若の営業力にすがらなければならなかった時代である。

10年で、100億円。

「自分の力だけではない」と竹若はいう。人の和、天の時、地の利が重なった結果だともいう。むろん営業の最前線に、つねに美味しい明太子を供給してくれた製造スタッフたちの力を抜きに語ることもできない。
しかし、単身、東京に乗り込み、竹若が寝る間も惜しんで得意先を開拓してきたのは、まぎれもない事実である。「最初は真夜中に起きておにぎりをむすんで市場の仲買さんに配りました。それから仲買さんに紹介してもらって百貨店やスーパーの催事場にも営業範囲を広めていったんです」。
「明太子」。博多ではむろん知られていたが、当時、東京では知る人もいなかった。ただ、幸いしたのは、ちょうど新幹線が福岡まで延び、「明太子」そのものも認知されていく時と重なったことだ。これを竹若は天の時と言っている。
全国どこかの催事場で明太子が販売された。竹若は、3年間、全国を駆け回った。
「やまや」の明太子、また明太子の「やまや」。明太子とともに「やまや」という名前がブランド化する。
竹若が転職した当時の従業員は創業者夫婦を入れ、4名。それが、600人にまでなり、年商は100億円にも達した。創業から数えて10年目のことである。
会社は、株式上場に軸足を置くようになった。それもきっかけとなり、竹若が「やまや」を去る時が来る。

築地本店開業、4億円の投資。

いまの築地本店のある場所で何かやらないかという誘いがあった。当初の話では250坪。福岡に接待にも使っていた「稚加榮」という生簀料理の名店があった。あの店のコンセプトを模した店を東京でという構想を思いついた。しかし、これが退職の引き金となる。
「上場前だったからでしょう。本業と違ったビジネスには社長も及び腰でした。幹事証券もリスクがあるから許してくれません。でも、こちらはもう話を進めていたんです」。
結局、これが同級生だった社長と、「やまや」を全国ブランドにした立役者である竹若を引き離すことになる。
竹若は、裸一貫、やってやる、と決意した。
とはいえ、飲食はまったくの素人である。旨いものは食ってきたが、それだけといえばそれだけである。一方、構想を実現するには、投資する額も億単位になった。
「株はもちろん持っていました。しかし、いろいろあって私の計算とは違って、結局、退職金と合わせても1億円ぐらいにしかならなかったんです。これには、困りました。バブルになりかけの頃だったので、ぜんぶで4億円もかかったものですから」。
知り合いにも投資してもらい、銀行からも借り入れた。
その銀行の融資担当者に言われたことがいまも記憶にある。「まったく素人のあなたに周りの人が投資している。その事実だけで、あなたという人間を信用することができます」。そう言って融資を承諾してくれた。ぜんぶで予定通りの4億円が集まった。資本金に1億円をあて会社も設立した。
しかし、ぜんぶで4億円の投資。失敗すれば、すべてが泡となって消える。
「失敗したら裸一貫でやり直せばいい」、大学時代からいっしょに歩いてきた奥さまは、そう言って、竹若を後押しした。

東京のど真ん中で成功の二文字を勝ち取った。

まったく未経験者の無謀なチャレンジは、彼を信頼し、投資した人たちの勝利に終わった。1店舗だけではなく、次々に店舗を開業し、東京のど真ん中にいくつもの名店をオープンさせている。
アッパーな料理店だけではなく、スウィーツショップなども展開し、スカイツリーのスカイタウンに「江戸MYスイーツ竹若」もオープンしている。
現在は13店舗だが、2013年9月には八重洲再開発「グランルーフ」に「お米」をテーマにした店舗を出す予定だ。
「近江八幡のお米(古代米)を使い、鯛めしや鯛焼き(スイーツ)などを展開する予定です。20〜60代の女性が好まれるような商品開発中ですので、楽しみにしておいてください」とのこと。ちなみに古代米は、ポリフェノールやミネラルが豊富でヘルシー。美容にも良い。
「日本人の米離れに、いま一度お米のよさ、日本の良さを伝えたい」という思いがあるということだ。

竹若の魅力。

いままで苦しかった時がなかったわけではない。
「東北の震災で、大打撃を受けました。1日1組。さすがにダメだと思い、妻にも相談しました。妻は、『あなたのせいじゃない。ただし、白紙にする時は、(業者や従業員といった)周りの人たちに迷惑がかからないようにしよう』といって、一切合切の資産を処分しようとしたんです。あれにはさすがに頭が下がりました」。
「でも、我々の思いが届いたんでしょうか、少しずつお客様が戻ってきてくださいました。2ヵ月後には95%まで戻し、6月には反動もあって100%を超えることになったんです」。
「誰かが助けてくれる」。
助けを期待するのは、戦士らしからぬことである。しかし、本人にその気がなくても、助けてあげようと思う人がなかにはいる。
竹若はひょっとしたら、そういう人なのかもしれない。
中・高でも自然とキャプテンは竹若と決まっていた。
トヨタ時代も、あの抜群の成績を残すことができたのも、事務など周りのスタッフが陰ながら竹若を支援してくれたからである。
何より計算が狂い出店も危ぶまれたなかで、素人の竹若を信じ、何と2億円があつまった。この2億円がなければ、銀行の融資も下りなかったのである。
これが竹若という人となりのすべてを物語っているのではないか。
たぶん、スタッフたちも彼のもとで、彼を信じいきいきと働いているに違いない。
奥さまがおっしゃった一言を改めて思いだした。
「失敗したら、もう一度裸一貫からやり直せばいい」。
竹若を心底、信じているから言える一言だったんだと気づいた。

思い出のアルバム
 

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