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第361回 株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏
update 13/05/14
株式会社ハートリンクカンパニー
丸山鉄二氏
株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏
生年月日 1959年3月24日
プロフィール 兵庫県神戸市に生まれる。父は洋食店を経営。商店街の住人たちとともに暮らすような平和な少年時代を過ごし、大学で京都へ。大学時代は、ナイトクラブでアルバイトを続け、卒業後、日本マクドナルドに就職。アメリカの現地法人で副社長を務めるなどし、23年間、勤務する。2004年末、退職。2005年に(株)ペッカリィに転職したが、同社は2010年5月に民事再生を申請するなどの危機的な状況を迎える。「がってん寿司」を経営する(株)アールディーシーホールディングスの支援を受け、この難所を乗り越えた丸山は、同年7月、(株)パスタフローラ(2011年3月に「(株)ハートリンクカンパニー」に社名変更)設立と共に社長に就任。(株)ペッカリィの従業員全員の雇用も守り、ブランドも引き継いだ。
主な業態 「パスタフローラ」「パスタQ」「エニータイム」「けなりぃ」他
企業HP http://www.heart-link-c.co.jp/
日本マクドナルドの卒業生は多い。この「飲食の戦士たち」でも、何名かの日本マクドナルド卒の経営者にご登場いただいた。今回の「ハートリンクカンパニー」の丸山鉄二氏もまた同社卒の経営者。なかでも、丸山氏は、社歴でも、「営業推進本部部長」という肩書きからも、トップクラスの経歴の持ち主だということがわかる。
「役員の席」も目の前という段階で、どうして丸山氏は日本マクドナルドから飛び出したのだろうか。ではいつも通り、生い立ちから追いかけてみることにしよう。

神戸っ子。

丸山が生まれたのは1959年3月24日。父とおなじB型で、その血を濃く受け継いでいる。父はかつてサラリーマンだったが、のちに洋食店を経営するようになる。
1959年といえば日本経済が復興するスタートラインに立った頃で、その後の高度経済成長の恩恵を受け、父の洋食店も繁盛した。商店街は人で溢れ、人情義理にあつい商店街の住人たちに育まれながら丸山は育っていくことになる。
TVアニメ「巨人の星」に憧れ、小・中は野球に熱中。高校ではバレーに熱中した。ところで、憧れたのは主人公の「星飛雄馬」ではなく、ライバルの「花形満」。縦縞のピンストライプ、そう丸山は、神戸っ子らしく、阪神タイガースの大ファンとなっていく。余談だが、現在も「東京虎の会」に所属している。試合ともなれば、六甲おろしを謳っているにちがいない。

ナイトクラブ。

「名前と番号を一致させるのがたいへんだった」、と丸山は学生時代を振り返る。地元でも有名な進学校に進んだのち「京都産業大学」に進学する。
大学に進学したのか、それともナイトクラブに就職したのかわからない暮らしが始まった。「祇園でも有名で大箱店です。ホステスさんの数も多い。ボーイは、ホステスの名前と番号を一致させなければいけないのですが、最初はそれがわからず苦労しました」。
最初はあごで使われるような立場だったと想像できるが、次第に周りのスタッフにも信頼され、ホステスに頼まれ1年半、スナックのマスターを兼務したこともある。
時給は700円。当時では、通常のアルバイトの倍ちかい額である。入学当初は、共同トイレのアパートに住んだが、生活レベルもアップした。
「大学よりもアルバイトで学んだことのほうが、意味があったかもしれません。あの時、身に付けた、たとえば、お客様の次の行動を察知するちからは、その後にも生きてきます」。
微妙な手の動き、からだの動きで察知するのだろうか。
ともかく、有名人や政治家、芸能人たちを満足させるサービスを丸山はこの時、体得したことになるのだろう。

日本マクドナルドへ。

日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンしたのは、1971年のことだから、丸山12歳の時である。丸山が住む神戸に出店するのは、まだずいぶんあとの話である。
この「日本マクドナルド」に丸山は就職することになる。「ナイトクラブでアルバイトしていたわけでしょ。ハンバーガーなど食べたこともなかった。ジャンクというか、ね。それでも給料がいいことは知っていたし、実は単位が足らなくて卒業見込証明書が出なかったんです。そんな状況だったから、とにかく卒業見込証明書が無くても採用してくれる太っ腹な会社を選んだわけです(笑)。まぁ、それが縁といえば縁でした」。
以来、23年間、丸山は日本マクドナルドの発展に貢献することになる。
藤田田氏というカリスマ経営者にも惹かれた。
直接会ったことは、それほど多くないが、期待もかけられた。
丸山は2001年から、アメリカ駐在員現地責任者として、アメリカ法人の副社長を務めている。藤田田氏が社長だから、社長と副社長の関係になったこともあるわけだ。薫風もうけた。
「日本マクドナルド」が外食のトップ企業に登りつめていくなかで、丸山はその最前線でがむしゃらにはたらいた。
「神戸を皮切りに大阪・岡山・広島・四国・大阪と転勤の連続で、とどめにアメリカにも行き、帰国の地が東京でした。マクドナルドのおかげでずいぶん勉強させていただきました」。
「ハンバーガー大学」では講師として教壇に立ったりもした。
小さい頃は、まさか日本マクドナルドに就職するとは思っていなかっただろうし、逆に入社してからは、そう簡単に退職するとも思っていなかっただろう。
ところが、日本マクドナルドを卒業する日がきた。
「簡単に言うならば、日本マクドナルドも世界のマクドナルドのFCの一つなんです。むろん、藤田さんがオーナーです。日本マクドナルドが、他国のマクドナルドに比べかなり自由に仕事ができたのは、藤田さんと米国マクドナルドの創業者が親密な関係であったこともありますが、実は、藤田田という大きな器に守られていたからなんです。しかし、私がアメリカに赴任した頃から、日本マクドナルドの業績に少し蔭りがみえはじめます。業績も悪化し、藤田さんが退任され、社長が代わります。八木さんが一時社長をされていましたが、日本マクドナルドが大きく変わっていくのは、原田さんが来られてからです」。

好きだから、辞めるんだ。

本国、アメリカから有能な幹部が送り込まれた。帰国した丸山とは意見が合わない。
「マクドナルドはマニュアルが整った、合理的な会社と思われがちですが、実は、義理人情といった浪花節的な繋がりや人の育成も重視する会社でした。合理性だけを追及する会社だったとしたら、誰があれほど働きますか? みんなマクドナルドが好きで、藤田さんが好きだったから。ルールじゃなく、『心』でみんなが結ばれていたんです。そういう関係がいいかどうかはわからない。ただ、私は、そんなマクドナルドが大好きだったんです」。
ところが少しずつ風土も変わる。丸山が好きだった日本マクドナルドではなくなった。ある会議で、とうとう丸山は席をけった。
アメリカから派遣された幹部が「キミはマクドナルドが好きだったんじゃないのか?」と問いかけてきた。丸山は振り向き、「そうだ。だから…。私は日本マクドナルドが好きだから、辞めるんだ」と言い放った。
すでに営業部長。次期、役員の椅子も約束されているような立場だった。
しかし、丸山は「心」がなくなった会社に居座ることができなかった。これが2004年末の話。丸山45歳の時の話である。

神が与えた、もうひと波乱。

米国在住経験があり、あの日本マクドナルドで部長にもなった丸山をほうっておく手はなかった。いろんな会社からオファーがあった。そのなかから、株式会社ペッカリィに就職した。「ペッカリィ」は、フレンチレストラン『マ・シャンブル』、ポルトガル料理店『ヴィラモウラ』などの西洋レストランほかを運営する会社。JR駅構内での飲食店の運営受託なども行っていた。次期社長という約束で、入社した。
ところが、それが、もうひとつの波乱の幕開けであり、試練の始まりだった。「将来的には私を社長にして、店舗展開をいっそう加速させようという狙いだったと思います。ただ、高業績がそれほど長く続かなかったことや、過去から引きずる負債の問題等もあって。会社は民事再生を申請します。それが2010年の5月31日のことです」。
丸山としてはせっかく転職した会社である。社長含みということもあり、社長という言葉にも少なからず惹かれたはずだ。しかし、それどころではなくなった。
甘い判断と言われればそれまで。ただ、その時は、自分のことを心配している余裕もなかった。
アメリカの数年間の生活で楽天家に拍車がかかったと丸山はいうが、さすがの楽天家でもスタッフや社員たちの生活を考えると、なんとかなる、と楽天的にかまえるわけにはいかなかった。そこで、当時株式会社アールディーシーのオーナーであった故大島氏に相談を持ちかけた。株式会社アールディーシーは「がってん寿司」などを手がける有名な会社だ。
ありがたいことに、丸山も一緒にという条件で、多くの店を買い取ってくれた。そして、丸山は同年7月、(株)ハートリンクカンパニーの社長となり、事業を継続することができた。そのおかげで社員も、スタッフも路頭に迷わせずに済んだ。一人も、である。

ファストフードから、レストラン事業の社長へ。

それから、2年と10ヶ月。2013年6月でまる3年目を迎えることになる。引き継いだ事業は順調だ。運営の柱は「パスタ」「韓国料理」「中華料理」「ポルトガル料理」の4本。レストラン事業には、ファストフードビジネスとまた違った経営力が必要とされるのだろうが、丸山は見事にスタッフ全員をひっぱり、スタッフまで惹かれる店づくりに成功しているようだ。
当然、日本マクドナルドで学んできたことも大きな意味を持つ。その一方で父が営んでいた洋食店、また学生時代の大部分を埋め尽くしたナイトクラブでのアルバイト、この両者がいまの丸山を支えている、そんな気もしなくはない。
今後2〜3年は「守りを固めつつ、進んでいく」とうこと。
積極的に出店する気持ちはないが、リスクを分散する意味で、都内から、名古屋や大阪にも進出する、その速度は加速させていくとのことだ。
「日本マクドナルド流+丸山流」、その2つが混在した、新たな流儀が、新たな飲食のパワーを生み出していくに違いない。その根底にあるのは、いうまでもなく義理人情と浪花節だ。

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