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第362回 クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏
update 13/05/21
クオルス株式会社
高波利幸氏
クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏
生年月日 1968年 2月18日
プロフィール 新潟県上越市、生まれ。子どもの頃から勉強にも、スポーツにも長け、中学は国立の附属中学に。中・高では陸上部にも所属し、800メートルでは県の強化選手として活躍。高校卒業後は、「服部栄養専門学校」に入学。料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修に行ったことがきっかけでイタリアに興味を持ち、その後、イタリアレストランで修行を開始することになる。7年間、東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月にイタリアレストランを開業する。これが記念すべき1号店となる。
主な業態 「LA PENTOLACCIA」「ALLA VECCHIA PENTOLACCIA」「IL PACIOCCONE」「CASALE DEL PACIOCCONE」「IL PACIOCCONE DI CHIANTI」「TRATTORIA DEL PACIOCCONE」
企業HP http://www.quals.jp/

山間の村で。

「東頸城郡安塚町大字…」。「いまでは合併され上越市になっている」と笑いながら、高波は生まれ故郷の名を口にした。地図で調べてみると山間の村のようで、高波が生まれた1968年当時は、それこそ山と川、自然に抱かれた村だったに違いない。
高波家は、この小さな村に東京から疎開し祖父の代から蕎麦屋を経営していた。「蕎麦屋といっても、村の食堂のようなものだった」と高波。村には床屋が一軒、郵便局も一軒、そして食堂も、高波家の店が一軒あるだけだった。
あけび、桑の実、わらび、山菜を採りに山に入り、魚を獲るために川に潜った。小学生は全校で100名ぐらい。高波の学年は、男子10名、女子8名で1クラスだけだった。それも、歯がかけるように少なくなっていったに違いない。過疎化が進んでいく。
高波家も、高波が中学になる頃には、上越市の中心地に店を移すことになり、一家もそちらで暮らすようになった。豊かな自然のなかで育った高波にとって、新たな生活がスタートする。

運動神経抜群。アスリートとして軌跡。

勉強も、スポーツもできた。小学生の頃は、「体育の先生になれる」とみんなが言っていた。先生は、子どもたちの憧れだったのだろう。勉強も、スポーツもできる高波なら、「先生になれる」。この一言も賛辞だったに違いない。
春夏は陸上、冬はスキー、夏はもちろん水泳に精を出した。
中学は受験し、見事、国立大学の附属中学に進学している。頭が良かった証拠だろう。中学・高校では、勉強よりスポーツに傾倒した。なかでも陸上部で、800メートルという距離を走り、県の強化選手として全国上位レベルの記録を残した。
「大きな大会になると結果を残せず、悔し涙を流せた純粋な青春時代でした(笑)」。
高校では、バイクにも夢中になった。400ccのバイクを駆り、無断で学校に通学したりもした。暴走族というのではない。レーサーを目標にライセンスを取った。「かっこいい」、そういう一つの尺度が高波を動かすようになる。

飲食店経営者をめざして。

偏差値でいえば、地元では上から3番目ぐらいの高校だった。だから、大学に進学する生徒も多くいたはずだ。だが、高波は大学進学という道を進まず、料理の世界に入るため専門学校の門を叩いた。
「良く通っていた喫茶店のオーナーに刺激されて…」と高波。進んだのは東京にある「服部栄養専門学校」だ。
「服部栄養専門学校」はわずか1年制だったが、この1年のなかで、ヨーロッパに研修に出かけたことが高波の人生を決定づけることになる。当時、本人はそのつもりではなかったかもしれないが、その後「イタリア」が間違いなく、高波の人生のテーマになるからだ。
「フランス、スペイン、イタリア、どの料理も良かったんですが、私にはイタリアがいちばんよく似合うような気がしたんです」。
専門学校卒業後、イタリアレストランに就職する。

新潟へ帰郷。

料理人の転職回数はけっこう多い。和食、フレンチ、イタリア、中華。客単価もまったく異なるさまざまなブランドがあるなかで、これは!という一つをみつけるのはむずかしい。まして、これだ!と思うものがある人は決して多くはない。そんななかで、高波はイタリア料理をひたむきに追及するようになる。そういう意味では恵まれていたのだろう。
恵比寿にあった「イル・ボッカローネ」というイタリアレストランの影響が大きい。日本人に交じってイタリア人もいた。話をするうちに、イタリアにさらに興味を持った。
このイタリア料理を地元で、という構想が浮かんだ。

1号店オープン。

東京で7年間、暮らしたあとに、高波は新潟に帰郷する。
「父が残してくれていた土地があったもんですから、そこに3階建ての商業ビルをつくったんです。2階に私のイタリア料理店を開業しました。これが本店、というか1号店です。3ヵ月間は良く流行りました」。
当初は良かったものの3ヵ月もすると客足が遠のいた。
「だいたい、新潟には早すぎたんだと思います。米の芯を残すとか、アルデンテとか。それがいいというような時代じゃなかったんですね」。
やりたいことと、現実のギャップ。しかし、高波はもともと、いざという時のために、次の仕掛けも用意しておいた。
「だめだったら、これをしようというスタイルのお店を用意しておいたんです。料理のグラムをまず3倍にしました。80gのパスタを3倍の240gにしたんです。それが結局、功を奏しました」。
1995年には、新潟市にも2店舗目を開業した。距離にすれば140キロ、当初は高波が付きっきりになる。この店はスタートすぐに軌道に乗った。店の評判が140キロ先にも届いていたからだ。そして、準備万端。1998年には、いよいよ東京に殴り込みをかけることになる。
「南青山です。勝算はなくもなかったたんです。7割の価格で同じクオリティの商品をだせばお客様はついてくださると思っていたんです」。狙い通り、あたった。
この頃から出店のオファーもくるようになる。
新潟では伊勢丹からオファーがきた。同時期、森ビルから六本木ヒルズへの出店要請もきた。1号店からは、年月が経っていたが、高波、絶好調の頃である。むろん、ヒルズ出店も有頂天になって推し進めた。

撤退。

六本木ヒルズに出店、それで、構えたわけではないが、改めて業態を絞るために海外に行った。その時、NYで「Dean & Deluca」などをみて感銘を受けた。それを日本に持ち帰る。
ただ、六本木ではなく、新潟でテストした。これが、失敗の始まり。構想は悪くなかったが、赤字を毎月垂れ流した。
会社を清算する、と思ったのは後にも先にもこの時だけ。
「毎月250万ぐらい持っていかれるんです。でも、私は負けたくなかった。ヒルズへの出店がかかっていたからかもしれません。結局、ぐずぐずひっぱって2年。それで退散します。借入も膨らみ、実際、会社を倒産させたほうがいいんじゃないか、そう思ったこともあったぐらいです」。
他店は好調だった。だが、目算違いで、利益をぜんぶ吸い上げることになる。未来を語るまえに食いつなぐ、それがミッションになった。もちろん、ヒルズ出店はお預けとなる。

1本の電話。

東京の責任者から電話があった。2006年のことだ。「川崎の『ラ・チッタ・デッラ』に出店しないかというオファーをいただいたという内容でした」。
高波は3回、断った。しかし、最終的に条件も見直され、出店を決意する。この店が起死回生の店となり、V字回復を実現する。
この店舗のおかげで、負債もすぐに消えていき、新たな体制が出来上がる。
1本の電話ですべてが生まれかわった。
しかし、好機をつかむのは、1本の電話ではない。高波の考え、実力、経験のすべてがもう一度のチャンスを呼び寄せたに違いない。

最後に。

高波はいま、イタリアにも店を構えている。2012年6月にオープンしたローマの店舗がそれだ。中心地から電車で10分程度にある住宅街にある、ということだ。
この店は、イタリアへのある意味殴り込みとも言えるが、高波には、日本とイタリアを結ぶ何かになればいい、という考えがある。
イタリア料理を目指す料理人たちに、本格的にイタリア料理の勉強をする機会も提供できるからだ。
日本にイタリアンを! 生まれ故郷にイタリア料理を広めた男が、いま、日本にほんとうの意味でのイタリアンを広めようとしているのかもしれない。まだまだイタリア料理の奥は深い。飲食の奥もまた深いと高波の話を聞いて、そう思った。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
イタリア研修時代 1993.12本店オープン時 2004.12本店10周年記念
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
2008.05南青山キャストと 2010.12全店舗責任者集合in新潟 2012.06.24ローマ店レセプション
 
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