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第363回 株式会社凪スピリッツ 代表取締役社長 生田智志氏
update 13/05/28
株式会社凪スピリッツ
生田智志氏
株式会社凪スピリッツ 代表取締役社長 生田智志氏
生年月日 1977年7月30日
プロフィール 福岡県北九州市で生まれる。兄弟は4つ離れた兄が1人。中学からテニスを始め、高校までテニス三昧の生活。県大会2位という成績も残す。白バイ隊員をめざし、専門学校に進み4度挑戦したが、失敗。アルバイトで入店していた「一蘭」」に正式に入社し、ラーメン人生をスタートさせる。起業は28歳の時。新宿のゴールデン街に毎週火曜日だけ営業する小さなラーメン屋が誕生したのである。
主な業態 「ラーメン凪 豚王」「ラーメン凪 新宿煮干」「ラーメン凪 煮干王」「ラーメン凪 炎のつけめん」
企業HP http://www.n-nagi.com/

テニス三昧の日々。

 「人生の99%はテニスだった」と、今回登場いただく、凪スピリッツの社長生田はそう振り返る。中学時代から、テニスに没頭するようになり、高校では県大会2位の好成績を残すまでになっている。目が覚めればラケットを握り、寝るまで離さなかった。高校時代には学校までの5キロの道のりを走った。これが、生田の「原風景」となっている。
好きなモノにはとことん没頭する。そのうえで、その日々を肥やしにする強い意志もある。「当時、テニスで学んだことはいまの経営にも生きています」と生田はそう語っている。

「パイロット」か「警察官」が、子どもの頃の夢。

生田が生まれたのは、福岡県北九州市。土日は、家族で「山口」の海に行ったというから、九州の入り口あたりということになるのだろう。変わり者で人気者だったそうだ。子どもの頃の夢は、パイロットか警察官。この頃の夢を覚えていたのだろうか、高校を卒業したのち、生田は一旦、白バイの隊員になるべく、真剣に勉強を開始している。

白バイ隊員をめざして。

テニス三昧の中・高時代が終わった。大学進学という手もあったが、生田は専門学校を選択した。高校2年の時、父が他界したことも多少は影響したのかもしれない。
ともかく生田は白バイ隊員になるべく公務員ビジネス専門学校に進学した。
親許を離れ、新聞配達所に住み込みではたらかせてもらった。朝配達を終え、学校に行き、夕方、もう一度、配達する。それで学費も、生活費もまかなった。
むろん、学校もちゃんといった。しかし、公務員試験は当時の倍率で24倍。毎回、面接で落とされてしまった。合計、4回。21歳になるまでチャレンジしたが、白バイとは、縁がなかった。
代わりに出会ったのが、ラーメンである。

19歳から始まったラーメン人生。

学生時代、生田は福岡の名店「一蘭」で、アルバイトを経験している。白バイ隊員が目標だから、あくまでアルバイトに過ぎなかったが、20歳でリーダーを任されるなど高く評価されていた。4度目の試験に落ちた生田は、社員になる決意を固める。むろん、「一蘭」は大歓迎。入社してからは、まさにエリート街道を突っ走る。
「一蘭」の東京進出といっしょに生田も上京。六本木店店長からエリアマネージャーへ昇格し、20代半ばで450人の部下を抱えるまでになった。
「450人でしょ。もう一杯一杯です。会話の内容を忘れないように、450人の部下との会話を毎回メモっていました。それが私の20代半ばの限界でした。しかし、会社は更に出店をつづけます。2001年にも出店がつづき、休みもまったく取れなくなりました。2002年になってようやく休みが取れ、9日間、ニューヨークに行ったんです」。
このニューヨーク旅行が、新たな旅の始まりとなる。

ニューヨーク、9日間の旅。

いっぺんでニューヨークという街が好きになった。「私は英語もろくにできませんでしたが、夜中でも、みんなが楽しそうに働いているんです。自由といえばそれまでですが、はじめて見るニューヨークは衝撃のかたまりのようなものだったんです」。
海外志向が芽生えたのはこの時。
「当時の私は、取りつかれたように仕事、仕事の毎日でした。26歳にもなって、風俗も知らない。読む本も、経営に関する本。毎日、ノートをつけ、アイデアを必死になって探し続けていました。そんな私だったから、ニューヨークはより新鮮に映ったのかもしれません。ともかく、このニューヨークでさまざまなことに出会って私の人生には、さまざまな色が混じり始め、海外という目標が私の足元を照らすようになったんです」。

28歳の起業。行列ができる曜日限定のラーメン店。

ニューヨークから帰った生田は、「一蘭」に退職届を出す。1年間、さまざまなラーメン店で修行し、「一風堂」にもアルバイトとして勤務する。28歳。いよいよ「一風堂」も卒業し、その1ヵ月後、友人が経営していた新宿ゴールデン街のバーを週に1日だけ借り、火曜日限定でラーメン店を開業した。
HPには次のように書かれている。
「小さなバーを間借りしたお店ではあったが、食べられるラーメンは本格的。コミュニケーション重視の営業スタイルや、毎週違う味を楽しめる週替わりラーメンは瞬く間に話題になり、いつしか狭い路地裏には行列ができるようになった」。
いつしか行列は100人を超えるようになり、150人になってからは週1日の営業を週2日にした。この人気のラーメン店の店主をやりながら、他の曜日も、ラーメン屋ではたらいた。モスバーガーで仕事をしていたこともある。
なにしろ、資本金がない。朝から晩まではたらき、なんとか出店できる資金がたまった。「自己資金に加え、借金もし、西尾、夏山と3人で『ラーメン凪』第1号店を立ち上げました。」
「凪」という名前の由来は、何もないところから風を吹かすことだという。そのネーミング通り、創業以来、生田と凪スピリッツは、ラーメン界に新たな、いままでなかった風を吹き込んでいくことになる。
多くのコンテストで優勝し、メディアにも多数取り上げられている。その全容は、HPに記載されているので、ぜひ、ご覧いただきたい。
そうすれば、生田が、起こした「風の音」が聴こえてくるに違いない。
今後の展開も聞いてみた。海外では「フィリピン」「マレーシア」「シンガポール」「中国エリア」が基本となるそうだ。(すでに香港、マレーシア、ジャカルタに出店済)。
一方、国内は、新宿・渋谷・池袋などに30店舗。最終的には、100店舗というのが当面の目標らしい。
人づくりも欠かせない。「海外・独立志向の人で会社を作っていきたい」と生田。人材育成においても、またまた新たな風が起こりそうだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム1 思い出のアルバム1
中学生時代 高校テニス部時代 ラーメン凪第1号店立ち上げ時代
 

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