株式会社フューチャーファクトリー 代表取締役社長 清水照久氏 | |
生年月日 | 1961年7月19日 |
プロフィール | 鳥取県生まれ。16歳で高校を中退し、料理の世界へ。10年間修業したのち、26歳で上京。31歳の時に独立し、移動式の弁当店をスタートする。33歳、ダイニングレストラン「pancia」を開業したが、ビルのオーナーが代わり、立ち退きを余儀なくされる。そんな時に、頭に浮かんだのが濃厚な味と圧倒的なボリュームで知られる「ラーメン二郎」。二郎フーズシステムに承諾を得て、「ラーメン二郎」を開業。これがラーメン店のスタートとなる。 |
主な業態 | 「らーめん大」「天照」「糀や」「鶏照」 |
企業HP | http://www.food-ff.com/ |
清水が生まれたのは1961年。戦後の復興の足音が高らかに響き渡る頃だ。といっても、清水が生まれたのは鳥取県。父親の転勤、転職に伴い広島や島根にも住むことになる。
料理人、清水の原点は母方の実家にある。「母親の実家は何百年も続く、老舗の旅館だったんです。小学生になってまとまった休みが取れるようになると、その度に泊まっていました。当時の楽しみがその旅館の『厨房』だったんです。板前さんたちの凛とした立ち振る舞いはもちろんのことですが、子どもの私には、彼らが魔法使いのように思えました。野菜や魚が、みたこともないうつくしい姿に生まれかわるのですから」。
少年清水は、料理が出来上がるたびに目を丸くした。これが、料理人清水の原風景ともいえるものだ。
父母からは「勉強しろ」とよく言われたが、勉強は得意な方ではなかった。代わりに運動は、群を抜いていた。
「勉強はしないから、得意になるわけもないですよね。でもね。スポーツは好きで、そこそこの成績をおさめました。中学から始めた棒高跳びでは、市大会で優勝しています。もっとも県では3位。記録は3メートル20センチでした」。
3メートル20センチ。想像してみて、うえをみあげた。ビルでいえば、2階まで軽々、届くような高さである。
「もともとは水泳部に入ったんです。でもある日、陸上部の選手が棒高跳びの練習をしているのをみてやってみたくなったんです」。
「棒高跳びは、ジャンプ力があればいいという単純なスポーツではありません。助走のスピードがあればいいというわけでもないんです。当時からグラスファイバーを使っていましたが、あの棒がしなって、そら高くほうり上げてくれる、そのタイミングが難しいんですね」。その難しさにハマったのだろうか。
空中高く舞い上がる、たしかに気持ち良さそうだ。
中学卒業後は、地元の私立高校に進んだ。しかし、すぐに中退し、家を出た。学校には1年も通わなかったことになる。
「もともと興味があったからなんですが、『料理をやろう』と腹をくくったんです。親許から飛び出したいという気持ちがあったのも事実です」。
「やる」と決めたからには、行動は早い。すぐに和食の店で、修行を開始。アパート代、数千円。これが料理人、清水の始まり。
「島根で8年、広島で2年、合計10年経ち、料理人としてそれなりの給料を取れるようになりました。それで思い切って上京したわけです」。
ホンダ「CITY」に荷物を積んで、スタートした。1000キロぐらいはあるのだろうか。未知の東京へ。
「アメリカンドリームですよね」。26歳、希望一杯の旅が始まった。
希望を抱えやってきた東京だが、むろんあてもない。
中野新橋、共同トイレで2万1000円の下宿を探し、住んだ。
「最初は路上駐車していたんですが、いつまでもそういうわけにはいかないでしょ。だからCITYの駐車場を探したんですが、なんと住むところより高かったんです(笑)。やむなく車を手放して、バイクにしました。なんともやりきれない気持ちになりましたよね」。
「東京での仕事ですか? 最初は新宿のサントリー館のパブに勤めました。でも、1ヵ月ぐらいかな。つぎに伊豆のホテルのレストランで2ヵ月だけですが、住み込みで働きました。2ヵ月でちょうど80万円たまりました。そのあとにもう一度、東京に戻ってイタリアレストランに就職します」
おりしもイタリアンブーム。和食からの転身だが、イタリア料理にもみせられていたから心おどった。「当時、TVに『料理の鉄人』というのがあって、道場六三郎さんが和食をアレンジした創作料理をつくって戦っていたんです。そういうのをみて、もう、わくわくしていたんです」。
レストランに就職すると、すぐに試みた。和食にイタリアンの技法を取り入れたオリジナルレシピ。これが評判となる。この店では3年半、働いた。
「この店は結局、オーナーと意見の食い違いがあって辞めることになります。その後、知り合いの店を手伝ったり、アドバイザーをしたりして2年ぐらい過ごします」。
そして、いよいよ独立、開業。
「三鷹に15坪のスペースを月7万円か8万円で借りて、調理器材を入れて弁当をつくりました。購入したハイエースに、それを積んで移動式販売を始めました。うまくいったんですが、朝4時起きで、夜8時ぐらいまでですから、さすがにからだがもたなくなって。それから、六本木の店に1〜1年半いまして。そのあとに、そう33歳の時にダイニングレストラン「pancia」を開業するんです」。
ところが、ビルのオーナーが代わり、立ち退きを余儀なくされる。「立ち退き料として200〜300万円いただきました」というが、せっかくオープンした店である。そのままつづけたかったというのが本音だろう。
ところが、この撤退があったから、いまの「ラーメン大」がある。どういうことだろうか。
「もともとラーメンが好きだったんです。母も、私が小さい頃のことですが、家でラーメンを生めんからつくっていました。そういうのをどこかでおぼえていたんでしょうね。一方で、ラーメン二郎との出会いがありました。たまたま『ジローフードシステム』の方と懇意にさせてもらっていまして。それで了解をいただいて私も『ラーメン二郎』をはじめることになったんです」
この店を蒲田と堀切に出店する。いままでの和食でもなく、イタリアンでもない新たなカテゴリーでの勝負がスタートした。
業績は順調。ただ、しばらくすると「ラーメン二郎」の看板などをめぐって問題が起こった。清水にとってはおどろくばかりの話だった。
そもそも了解を得てから始めたわけだし、言い換えれば、「ラーメン二郎」で修行したこともない。たしかに、厨房に入って(もちろん了解を得たうえで)、置かれていた食材の伝票はみたが、接点といえばそれだけである。にもかかわらず商号を無断で使っているかのように言われた。結局、良かれと思って名前を貸してくれた人の顔も立てるために、900万円を相手側に支払った。
「もう、許さないと思いましたね」、と清水は語っている。
どちらの言い分にも与することはないが、清水の言い分を聞いていると「あまりに」という気がしないでもない。ただし、それを言っても900万円が返ってくるわけでもない。清水とて、おなじ気持ちではなかったか。代わりに、清水は怒りの火を燃やした。
「あれがなければここまでやっていなかったかもしれません。私は、ラーメン二郎から、ラーメン業態に入りましたが、あの一件で、二郎を越えてやろうと思ったんです」。
看板も付け替えた。店名も「二郎」から「大」に替えた。味にはもともとアレンジを加えている。女性客を意識し、塩分も脂分も減らしている。ストレートの極太麺も、ちぢれタイプに。量も若干抑え気味だ。似て非なるものといえようか。
ただ、どちらもボリューミーで、旨いことにかわりはない。
おどろくのは、店名を替えても売上が落ちなかったことだ。「ラーメン二郎」というだけで訴求力がある。だから、「のれん」を欲しがる人も多い。
しかし、「ラーメン大」の場合は、新たな名称になっても客数も売上も落ちず、逆に上がった。その結果だけですべてを語ることはできないが、「そもそも、二郎という看板にみあうだけのチカラ」が、清水にあったといえるのではないか。
うがったものの言い方をすれば、その1点からも清水は「二郎という名前にフリーライドする気はなかった」と判断することができるのではないか、と思う。
ただし、この時のことがあったことで、清水の野望に火がついたのも事実。「少なくとも全国に50店」。その構想を実現することが目標になった。
その店舗は、現在、直営・FC合わせ23店舗ある。
FCは、「頼まれたから」と断り切れずに開いた店である。
その意味で、今後も直営店中心になる、そうだ。
その一方で、37歳の時、無国籍料理「天照」をオープンさせている。
「37歳といえば、料理人になってもう20年以上です。道場さんの料理に魅せられたように、もともと和食からスタートしていますが、ジャンルのボーダーはなくていいと思っています。だから韓国料理の『チヂミ』に中華のソースをかけたり、逆に生春巻きに韓国のソースを加えてもいい。韓国や、中国、マレーシアやベトナム、またタイなど、そういうアジアを一つにするような料理があってもいいと思ったんです。それが「天照」の始まりです」。
中心にすえるのは「ラーメン」。だが、アジアのさまざまな文化を取り入れることで、その「ラーメン」もまた変化するかもしれない。そういう期待がある。いまでも、試作品づくりは清水の仕事ということだ。
最後に今後の展開を伺った。まず西日本での展開が第一だそうだ。「福岡、広島、神戸、大阪、名古屋、京都の6都市で20店舗ぐらいはいきたいですね」。西日本進出のための布石はすでに打ってある。実は7年越しで責任者の採用もかなった。そういう意味ではいよいよ次の展開が待ったなしになったとも言える。
高校を中退し、意をけっしてスタートした料理人、人生。紆余曲折はあったが、清水は清水だった。
それは、けっしておごらず、卑屈にならずしっかり前を向きつづけたという意味で。この先に何があるのか。和食の料理人が生み出す、一杯のラーメンの、その次にも期待したい。
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