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第367回 株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏
update 13/06/18
株式会社飄香
井桁良樹氏
株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏
生年月日 1971年1月13日
プロフィール 千葉市生まれ。高校卒業後、調理師育成の専門学校で中華料理を学び、講師だった斎藤文夫氏が経営する料理店に就職。8年間勤務したのち、こちらも中華の名店「知味斎」を経て、単身中国へ。2年間、修業に明け暮れ、500以上のレシピを習得する。帰国後、3年半の準備期間を経て、2005年4月独立。店名の「老四川 飄香」(ラオシセン ピャオシャン)は「昔の四川が漂い香る」という意味。
主な業態 「老四川 飄香」
企業HP http://www.piao-xiang.com/
TVでも、雑誌でも取り上げられる中華の名店はいくつかある。「老四川 飄香」(ラオシセン ピャオシャン)も、その一つに挙げられる中華の名店だ。オーナーシェフである井桁良樹氏は、まだ40代前半。修業時代には「中国人にもなりたいと思った」という井桁氏に、今回はお話を伺った。

喘息と料理。

井桁は、1971年、千葉市で生まれる。高度成長時代の波に乗り、日本経済が世界を意識するようになった頃である。父は鉄工所に通うサラリーマン。母は、洋裁を仕事にしていた。2つ上の姉を合わせ、4人家族。小さな頃から料理番組が好きで「オイスターソースって?」と、調味料を知りたがる少年だったそうだ。
料理を作るのも好きで、小学4年生の文集には「野球選手かコック」と綴っている。実際、父や姉が何か食べたいといえば、井桁は喜んで鍋を使い、フライパンをふった。ただ、できるメニューはチャーハンか、インスタントラーメン。それでも、お客さんたちは「旨い」「旨い」と、我が家のシェフをほめたたえた。
この井桁家の小さなシェフは、当時、喘息を患っていた。一度、咳が出始めると朝まで止まらない。そんな夜も何度かあった。
「喘息とは長い付き合いですね。中学2年生ぐらいまで続きました。おまけにぼくは目が弱いんです。小学4年の検診で判ったんですが、左目が0.04。矯正しても治らないんです」。
喘息と、弱視というのだろうか、2つの病を抱えた少年。そんな少年がふるまう料理が、家族にとってまずいはずはないだろう。

ひたすら走って、走って。

「将来は、野球選手」といっているぐらいだから、からだを動かすことはキライではなかった。ただ、激しい運動はできない。それにもかかわらず中学生に上がった井桁は、自らのからだに挑戦するかのように陸上部に入部する。種目が長距離というのだから尚更、驚かされる。しかも、千葉でも有名な陸上が強い中学校だった。
「部は強かったんです。ぼくは弱かったけど」。井桁はあっさりそういう。それはそうだろう。喘息を抱え、走るのだ。
「辛くて、辛くてしかたなかった」とも。それでも井桁は駆け、そしてからだの弱さを克服していく。
「監督がとてもいい先生だったんです。市大会で記録を残されている先生でした。毎日、日記をつけ、先生と交換していました。ぼくが3年間続けられたのは、この先生のおかげです」。
「もっともぼくだけ特別扱いではありません。練習はおなじメニューです。週に100キロが基本で、休みの日以外で80キロしか走っていなかったら、1日で残りの20キロを走らなくてはならないんです。そういう辛い毎日でしたが、3年間続けられたのが、自信にも、財産にもなった気がします」。
3年かけ、駆け抜けたゴールには、「自信」という文字が刻まれていた。

回鍋肉(ホイコウロウ)と少年。

高校に入学すると念願のバイトを開始する。念願というのは、本格的に料理がしたかったからだ。バイト先に選んだのは、50席ある中華料理店。
「中華に進むきっかけの一つになった店です。なかでも、まかないで最初に食べた回鍋肉(ホイコウロウ)が旨かった。甘味噌の炒め物なのに、なんともいえない奥深さなんです。あの回鍋肉のおかげで、中華をめざしたと言えるかもしれません」。1年間の、バイトだった。辞める時にはバイトなのに涙がとまらなかった。「最後に何が食いたい」と言われリクエストしたのは、もちろんあの回鍋肉だった。
この店で井桁は「料理の世界に進みなさい」という助言をもらっている。
ベテランシェフは、井桁のセンスを見抜いたのだろうか。
ためしに、いまの井桁に聞いてみた。「料理のセンスってすぐに判るものなんですか?」と。
「わかりますね。とくにまかないをつくらせればスグにわかります。上手い下手もそうですが、サービス精神までみえてきますから」。
なるほど、判ってしまうものらしい。井桁の才能を最初に見抜き評価したのは、その店のシェフだったかもしれない。同時に、井桁の豊かなサービス精神も見抜いたことだろう。「美味しい料理をつくって誰かを喜ばせる」。井桁にとって、それは昔から何よりも嬉しいことだった。

師との出会い。

「千葉調理師専門学校」進んだ井桁は、中華コースを選択する。わずか1年という短い期間だったが、この学校で「斎藤文夫氏」と出合っている。
「斎藤さんが講師でいらっしゃっていたんです。斎藤さんといえば『四川飯店』にいらした中華の名料理人です。ぼくは、卒業後、斎藤先生が経営する料理店に就職します。8年間、お世話になりました。いろいろなことを勉強させていただいたのが、この店です。辞めたのは、どうしても次に行きたい店があったからです。それで辞表を書くんですが、斎藤先生は退職を認めてくださったばかりか、その店に紹介までしてくれたんです。斎藤さんの紹介がなければ、入店できないような店だったんです」。
斎藤氏との出会いで、中華料理人の一歩を踏み出した井桁は、貪欲に中華の技術を修得。次に行きたいと思ったのは、柏市にある、こちらも中華の名店「知味斎」だった。
「『知味斎』では、野菜もじぶんの畑でつくっているんです。中国人のコックもたくさんいる。そういう点に惹かれたんです」。
「知味斎」で働くうちに、一層、中国への興味、関心が高まった。
「『知味斎』では、前菜を任されました。いままで指示通りつくればよかったのですが、任されてからは、ぼくが決める立場になりました。すると四六時中、メニューばかり考えるようになったんです。ずいぶん食べ歩きもしました。中国料理の専門書も読みます。すると、どうも違うんです。日本の中華料理は、日本人好みにアレンジされているからなんですが、勉強すればするほど、ぼくはアレンジされていない、純粋な中国料理をつくってみたいと思うようになるんです」。
3年間、世話になった「知味斎」を去る。井桁、29歳。中国という磁石に惹かれるようにして、井桁は海を渡った。

中国へ。500以上のレシピ。

井桁が29歳というから、2000年である。当時の中国は、アメリカやヨーロッパの国々より、日本人にとっては、まだ遠い国だったはず。イタリア通はいても、アメリカ通はいても、中国通はそれほどいなかったと記憶している。そんななか中華料理に魅せられた井桁は単身、中国に渡る。
「できるなら中国人になりたい、と真剣に思っていた」と当時の心境を語っている。もちろん準備もした。中国語も、日本にいる時から勉強した。ただし、上海と四川では、発音がまるで違っていた。それには閉口させられたそうだ。
ただ、そういうのも含め中国である。日本の何倍もの国土を持つ国を、日本人のモノサシで測ること自体が間違っているのだろう。
ともかく、中国で井桁は、黙々と、そして貪欲に働き、吸収し続けた。上海で1年働き、翌年には、ついに憧れの地、「四川」に降り立ち、四川省成都にある「四川料理店」で修業を開始する。
井桁はある雑誌で「500以上のレシピを手に入れた」と紹介されている。本サイトでもそれに準じ、そう紹介させていただいた。しかし、いったい500とはどういう数字なのだろうか。
百菜百味(バイツァイバイウェイ)という言葉がある。これが「四川料理」の真骨頂なのだそうだ。
「一つの素材を百通りに料理でき、そのいずれもが素材本来の味を生かしつつ、高い完成度を誇るに至っている」のだという。
どうやら、これが「食は中国にあり、味は四川にあり」とされる由縁でもあるそうなのだが、考えてみてば、気が遠くなるほどの深遠さである。
この深遠な「食と味」の世界の本質をつかんだ。それが500という数字の意味するところに違いない。つまり、中華の本質が500という数字に凝縮されているのである。
ともかく2年があっという間に過ぎた。

激烈な思い。

実は、この2年間、井桁は、料理を教えてもらうために料理長たちにお金を払っている。逆に給料はいっさい受け取らなかった。これが、学ぶことに徹した、この2年間のもう一つの生き様である。中国での修業のために貯蓄した300万円がなくなる、それが帰国の合図だった。
「最後は、香港にいたんですが、もう残り7万円になっていました(笑)」。
資産家でもなんでもない。懸命に働き蓄えたお金である。それを異国で惜しげもなく使い果たした。中国という学校で教えを受けるためだけに、である。井桁はさも当然のように語るが、壮絶で、激烈な思い、という気がしてならない。293万円。はたして、それだけの価値はあったのだろうか。

メニューをみてもわからない料理店。

帰国してから3年半、井桁は独立の準備に追われた。
「中国にいた時に、ある中華料理店のオーナーから電話をもらっていたんです。最初は、その店でお世話になりました。副料理長です。待遇も悪くはなかった。でも、料理人って、ジブンを表現したくてしかたない生き物なんです。特にあの頃のぼくは、そうだった。だからそれをするには独立するしかない、と思うようになるんです。それからです。ホテルで働き、一方でアルバイトもしたりして。資金の準備をはじめました。それで、ようやく2005年の4月、代々木上原に『老四川 飄香』をオープンするんです」。
その後の活躍は、さまざまなTVや雑誌などで取り上げられている。グルメサイトでもむろん好評価だ。
現在は麻布十番に本店を移しているが、それまで代々木上原の人たちに「中華」という新しいジャンル、カテゴリーの「食」を提供したことは間違い事実だろう。
いたずらっ子のような話を、真剣な表情で、井桁は話してくれた。オープン当初の話である。
「ぼくにとっては商売じゃなかったんです。ジブンを表現する、それが何より大事だったんです。そうなると、日本人が知っている『チンジャオロース』や『エビチリソース』をメニューに載せたくなくなるんですね。だから、最初は、メニューをみても、たぶん何がなんだかわからない、そんな料理ばかりが並んでいたはずです (笑)」。
ただし、メニューをみてもわからない料理店は、オープン日から列ができた。広告といえば手書きのチラシ1枚だけ。
「ピンクの紙に、へたくそな字で、『四川で修行をしてきました。縁あってこの地で商売させていただきます。ぜひ一度、来てください』って書いたんです」。予想外の反響だった。4/6にオープンして、ゴールデンウィークに入る。
「GWの2日間、落ち込んだんです。それで、これから落ち込んでいくんじゃないか、とヒヤヒヤしながら、GWが明けました。すると、電話が鳴りやまないんです。GWの間に多くの人がブログに書き込んでくれたりしたのでしょう」。
「TVですか、TVは、『どっちの料理ショー』が最初です。TVも、凄いですが、ネットも凄いですね」。
料理は確実にネットとリンクし始めている。中国料理本来の「食と味」を追及し、日本に広めていく井桁にとっては、ネットも強力な味方と言えるだろう。

ほめられるのが、嬉しい。

「料理人というものが、かわってきている」、と中華料理を極めた井桁はそういう。料理に大事なものはサービス精神、そこがいままでとは大きく異なる点らしい。
そういえば、中華の鉄人「四川飯店」の総帥である陳健一氏も同じような表現をされていたことを思い出す。
しかし、偉大な料理人の父親を持った陳健一氏と、ごく普通のサラリーマンの父を持った井桁とが同じような表現をすることがおもしろい。
時代はこういう人たちの手によって変えられていくのだろう。
これからの料理は、サービス精神旺盛な、それでいて腕のいい料理人たちが作り出していく。なんとも、嬉しい時代がやってきた。

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