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第368回 株式会社アールズカンパニー
     有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏
update 13/06/18
株式会社アールズカンパニー
土田良治氏
株式会社アールズカンパニー
有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏
生年月日 1967年3月10日
プロフィール 福井県福井市に生まれる。高校を卒業後「大阪デザイナー学院建築科」に入学も3ヶ月で中退。1年間のアメリカ生活の後、家出同然で上京。遊び歩いていた六本木で芸能会にスカウトされ1991年、映画「翼の折れたエンジェル」で主役に抜擢されデビュー、幾つかのドラマ等に主演などをするも、負けん気が強すぎスタッフ、共演者との衝突を起こし事実上7年間の芸能生活にピリオドを打つ。1997年11月、『らーめん専門店いちや』を会員制として開店。ここから快進撃をスタートする。ちなみに現在までの16年間で『らーめん専門店いちや』や、その他のブランド、プロデュース物件、」FC物件を含め現在までで(2013年5月現在)路面店、SCやアウトレットモール、駅内ショップなど35店舗のオープン、空港や高速道路、ゴルフ場でのお土産品の販売にも力を入れている。直営店最高売り上げでは何とSCフードコートにて月商3400万円という売上記録を持っている。それも客単価800円たった10坪の店舗だと言うから驚きだ。その裏には徹底したオペレーションのシステム化、スタッフの完全な持ち場意識改革と役職インセンティブによるモチベーションアップがある。現在両社アルバイトも含め250人以上のスタッフ、グループ会社含め10億円を超す売り上げを上げる企業にまで成長する。
主な業態 「いちや」「いっぱち」「せからしか」「海猫屋」他
企業HP http://www.ichi-ya.com/
飲食の戦士を取材していると、時に強烈なキャラクターに出会うことがある。今回取材させていただいた土田良治もその一人。アウトロー的な人生を生き、まばゆい舞台にも立った。強烈なキャラで、いきいきした人生を生きる。最初に言っておくと、土田良治は歌手、中村あゆみが歌って大ヒットし1991年映画化され全国ロードショーで封切られた「翼が折れたエンジェル」の主人公役を演じていたのが土田良治である。

父と子と。

父親が、尋常ではなく厳しかった。小学校時代、父親がコーチをしている野球チームの試合に土田のエラーが原因で負けると息子の土田はもちろんチームメイト全員を殴ったそうである。男気がありすぎたとも言えるが、父の陰で息子の土田は小さくなるほかなかった。
土田自身も、喧嘩っぱやい。問題も起こしている。悪いことはたいていやった。中学時代には既に400ccの単車をころがし暴走族にも入っていた。
それでもあれほど厳しかった父親は学校にも行かず、行けば先生を殴って問題を起こす少年に一言も文句を言わなかった。「ある時、改造バイクを家に止めていたら、親父が近寄ってきて鍵を貸せと。そんなに楽しいのかと一言いうとそのままステテコ姿、足元は裸足に雪駄のまんま爆音を響かせ乗っていくんです。あの時は、凄いなと初めて尊敬しました(笑)」。親父と息子、血筋は争えない。しかし、土田には反面教師といえる父親がいたことが幸いした。

不良というレッテル。

土田が生まれたのは、1967年。福井市出身である。3つ違いの兄がいる。家庭のなかでは父親は絶対的な存在で、子どもたちは父の機嫌をうかがいながら暮らしていたそうだ。元々口数の少ない父親は母親はもちろん私達子供にも容赦なく鉄拳を振り下ろした。もちろん自分が気に入らなければ近所の人間であれ親戚であれ同じで彼を止められる人間は誰もいなかった。小学5年生に上がるまで殆ど父親と口を聞く事がなく時折話さなければの時は常に敬語を使っていたというから驚かされる。
もともと幼少期は大人しいタイプだったが、野球をやるようになってから「活発さ」が出てきたようだ。ただ、野球では、辛い思い出もある。
「小学生時代福井市の大会でした。開会式の入場行進でぼく独りだけ体操服だったんです。そのとき父は欲しいのなら自分で働いて買えと。まだ小学生の子供にですよ?母や祖母にすがって泣いたのを覚えています。しかしいくら泣いても父が言う事が絶対の家でしたから・・。しょうがなくユニフォームが欲しくて新聞配達を始めるんです」。
「中2ぐらいからは、野球もおざなりになりいわゆる非行の道に走るんですね。(笑)今度は僕が手を付けられなくなるんです」。
タバコ、シンナーは当たり前、喧嘩もカツアゲもした。中3の時には既にでバイクや車に乗っていた。悪いと思うことは率先してやったという。きっと父親への逆襲だったのだろう。16、7歳になると父親と同じ背格好になり、やれば勝てる気がしていたが父親に手を上げた事だけはないという。「何故か自分の中の絶対が壊れるのが嫌だったんでしょうね(笑)」近所でも学校でもどんどん不良というレッテルが貼られる。貼られれば貼られるだけ悪い気はしなかった。俺はここに存在している、そして表現しているような錯覚に酔っていたのかもしれない。

大阪デザイナー学院建築科経由、アメリカ行き。

高校を4年かけて卒業後した。先生を殴ってしまったが退学は免れた。当時はそんなことで退学させていると生徒がいなくなってしまうからだ。入学してすぐに学校にいる上級生達を締め上げ、好き勝手な学生生活を送り始める。とは言っても水商売のバイト(今で言うホストクラブでしょうか)をしていたからとにかく朝が起きれず学校に到着するのは大抵午後の授業が始まった頃にふらりと現れる。そんな生活だから当然単位もとれず、高校2年生の時にはいわゆるダブリになった。学校を辞めようとも思ったが本気で仕事をするのが嫌だった事、とにかく自分に楽な道ばかりを探していた。
余談だがダブって良い事もあった。法律では18歳で車の免許を交付されるのでそれを理由に高校3年の時にはほぼ1年間学校に車で通った。
水商売のバイトをしていたお陰で当時月のバイト料は20万をゆうに超えていた。だから欲しいものは何でも自分のお金で買えた。確か当時セブンスターがまだ150円だった。
それでも19歳になると思い出したように、「大阪デザイナー学院建築科」に進学する。しかし、それはていのいい脱走だった。学校にも行かずまたもやバイトに明け暮れディスコの「黒服」に憧れる。黒服とは当時流行っていたディスコのスタッフである。黒服になれば、それだけで女の子に追いかけられた。だが、そういう生活も長く続かない。
福井に戻り、設計事務所にも就職した。気持ちを改めたつもりだが、どこに行っても馴染めなかったし長続きもしない。
嫌気がさして、アメリカに渡った。ウエストバージニアからスタートしピッツバーグ、ニューヨーク、最後にはハワイに行った。およそ1年間アルバイトをしつつその日暮らしの自由な生活をしていた。しかし、海外でひとつだけ感じた事がある。白人が黒人を人種差別するようにアメリカ人は東南アジアの人間を同じ人間としては決して扱わない事。仮にそんな事はないという人間もいるかもしれないが、それならどうして煙草を吸っていては出世が出来ないというアメリカという国が東南アジアへ、そして日本に向けて今だに煙草を売りつけているのだろうか・・やはり俺のいる場所は日本なんだと思った。

主役に抜擢。翼を広げ大空へ・・飛んだつもりが。

1年間のアメリカ生活から帰国。でも、やることはやはり何もなかった。「オレには何かあるんだ。そうだ東京へ行こう」。何の根拠もないままそう決意して、福井をあとにした。
持ち金は16万円。家の引出という引出をすべてひっぱりだしてみつけた金だった。
東京での生活がスタートする。家賃の検討もつかない。不動産屋に頼むと、辺鄙な町のおそろしく古いアパートに連れていかれた。それでも、ほかに行き場はなかった。
黙々と働いた。電車賃がもったいないと、捨てられそうな原付バイクをただ同然で手に入れ、それに乗ってどこへでも行った。原付なら満タンにしても500円程度で済んだし一度満タンにしたら1,2週間は乗れた。「横浜でも、六本木でも湘南でも全部、全部バイクです。だからいまでも、タクシーの運ちゃんに負けないほど道に詳しいんです。本当に貧乏した奴は毎日の電車にさえ乗れなかったんだ」、そういって土田は笑う。
そんな生活を送っていたある日のこと。とある芸能関係者と出会うことになる。何を見込まれたのか。訛っていた日本語を治す為に事務所から「日本語学校」に通わされ乗馬や殺陣(たて)、演劇論なども習わされた。もちろんすぐにサボり始めるのだが。
映画「翼の折れたエンジェル」のオーディションが、初挑戦だった。1回目の挑戦で、見事に映画の主役に抜擢された。
芸能界。そのきらびやかなステージで一時はまばゆいばかりのスポットライトをあびた。だが、また自分自身の性格がもとで摩擦が増え芸能界引退に追い込まれることになる。
光と影。再び土田良治は光を失ったかに思えた。

ラーメン屋店主に。1店舗で月商3400万円の数字を叩き出す。

心を入れかえても、元々人に頭を下げることが出来ない性格もあって今さらサラリーマンもできない。考えていてもしょうがないので何も勉強せず「ラーメン屋」を開業した。
ラーメン屋ならセオリーもない。元々和食やイタリアン、フレンチのように歴史がある料理ではないので修行も必要としないと思った。今となってはそれが逆に倒産率が一番高いラーメン業界の参入障壁を低くしている原因でもあるのだが。
「江古田で車庫を借りて会員制のラーメン店を開業しました。メニューは『醤油ラーメン』のみです」。
ラーメンは「醤油」1本で勝負した。というよりそれしか作れなかった。むろん自信はない。金もない。ただ、「悪い噂も評判のうち」は役者時代にいつも自分を励ました言葉で廻りを気にする事はしなかった。しかし工夫はした。看板代がなかったのでドアに鍵をかけ暗証番号で開閉する会員制にしたり、100円で永久会員になってもらったりした。
「どちらも、仕掛けなんです。会員制といっても、来られたお客様は全て断りませんでした(笑)。『まずかったら、お代はいらないから帰ってくれ』といかにもメニュー1品『醤油ラーメン』に命を賭けているように見えるか。まあいわゆるブラフですね。実際生活はかかってましたけど(笑)
会員制のラーメン店、この発想がおもしろい。たしかに「激ウマ」を想像する。そういう消費者の心理を巧みに操ったともいえる。
それから10年後には何とショッピングセンター内の僅か10坪の店で月商3400万円を叩き出す。1日110〜120万円の計算だ。

雑誌やTVで。

この会員制「らーめん専門店いちや」のオープンは、1997年の11月。土田30歳の時である。マスコミの取材を拒否するラーメン店としても有名になり、1999年には、取材拒否の店舗ながら、<テレ東「全国らーめんランキング第2位」>に選ばれている。こののち、2000年に『いちや』江古田店、そして高円寺店を開店。「有限会社アールズカンパニー」を設立し、一気に攻勢をかけ始める。
取材拒否を解禁しマスコミにも登場するようになり、雑誌でもひんぱんに取り上げられるようになる。また2003年には「どっちの料理ショー」にも出演。翌2004年にも日テレ「情報ツウ!」東京で言う所の地上波テレビ全局、に出演している。いったん芸能界を追われた男がブラウン管の向こうに帰ってきたことになる。
「最近になってようやく思うんですよね・・他人の感覚って凄く大事にしなきゃって。弊社には現在200人を超えるスタッフがいるんですけど、元々ご自身で鮨屋を経営していた人や、ホテルの料理長、パテシエや大手飲食会社の本部役員なんかを経験した人。だから考え方や物の見方はもちろん料理に関するレシピもその数だけある訳で・・んじゃ彼らの年齢の時の自分は?って自問自答するとよっぽど彼らの方が優れていて輝いている。だからこんなポンコツ社長でもやっていけるのでしょうね(笑)」現在は業態が居酒屋や鮨、うどんや日本蕎麦店など食に携わる事ならデベロッパーのリクエストにもお応え出来る会社になってきています。トップダウンでやってきたワンマン経営では限界があります。だからスタッフ達の声を聞けば聞くほどおのずとそうなるんですよね。
何も変わっていない私自身にひとつだけこの250人の仲間達が教えてくれた事があります。社の長である私がスタッフ達にしてあげられるべき仕事はひとつ。
判断する事ではなく決断をする事であると云うことです。

思い出のアルバム
 

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