株式会社稲田屋本店 代表取締役社長 梅原俊治氏 | |
生年月日 | 1942年3月21日 |
プロフィール | 鳥取県、生まれ。7人兄弟の6番目で、5男坊。早稲田大学卒。卒業と同時に大倉事業株式会社に入社。永年のサラリーマン生活。56歳で飲食業界に転身。長兄の経営する蔵元の販売部門として3兄弟で株式会社稲田屋本店を設立する。 |
主な業態 | 「酒処 稲田屋」他 |
企業HP | http://inataya.co.jp/ |
長兄はいまもそちらにお住まいらしい。そちらというのは、今回、ご登場いただく「稲田屋本店」、代表取締役社長、梅原俊治の実家。住所は「鳥取県西伯郡南部町御内谷」となる。米子駅から車でわずか40分らしいが、地図で確認してみるとたしかに閑散とした山奥である。「40軒程度の集落だった」と梅原は語っている。
梅原家は、この山間の村の地主であるとともに、明治初年からつづく「梅原酒造」の蔵元でもあった。ところが戦後、食料米が不足するなかで、「酒米を食料米に」という時の政府が発令した企業整備法により、5〜6軒の酒蔵が1つに集約され、「梅原酒造」は姿を消すことになる。
むろん梅原は、当時の様子を知らない。終戦の時にはまだ3歳に過ぎない梅原である。戦後の食糧難の時代も、それを当然のように受け入れ育った年代。明治生まれの母の躾はきびしく、教育にも熱心だったそうだ。とはいえ、豊かな自然に囲まれ、山も川も少年にとっては、かっこうの遊び相手。机に向かってばかりはいられない。
「当時は、鰻もいたんですね。鰻を獲って帰ると母親がほめてくれるから、がんばって獲った記憶があります。松茸も、秋にはよく採れました。こちらも採って帰ると母が喜んでくれるんです」。
夏は川に潜り、秋には山に入る。
自然が持つ脅威も学びながら、少年、梅原はこの山間の村で大きくなっていった。
梅原は、7人兄弟の6番目で5男坊である。長兄とは12歳離れている。梅原が小学校高学年にもなれば、長兄はもう20歳。その長兄や姉は、戦後、父が米子に出店した酒屋を手伝うようになっていた。
この長兄も含め、上の兄姉全員が「米子東高校」に進学。「米子東高校は県内でも有数の進学校だったんです。でも、私と言えばあまり勉強もせず、山や川を相手の毎日だったんで進学前には結構、焦りました(笑)。兄たちがみんなそこだから、私一人違う学校に行くこともできないでしょ。結果的には、なんとか滑り込むことができました」。
「高校時代の思い出というのは、この齢になるとだんだん薄れてくるんですが、父親が畑仕事もしていたものですから、そちらの手伝いもありましたし、米子の店も手伝っていましたから、早くから商売というのを観てきた気もします。大学ですか? 大学は『早稲田』に進みました。長兄が行きたくても家業の関係で大学へ行けなかったものですから、『かたき討ち』だと受験したんです」。
「最初は、私1人で東京に行く予定でしたが、上京する段になって当時家業を手伝っていた3男の兄も『いっしょに行く』と言い出しました。それで2人して、大都会『東京』に出てくるんです。彼もがんばって、現在日本蕎麦屋さん向けの食材商社「日辰」を経営しています。のちに今回の話にも登場します」。
奨学金をもらう一方で、ガソリンスタンドのバイトもした。家庭教師もした。長兄からも仕送りをもらった。離れて、いっそう兄弟のきずなはつよく結ばれていった。
早稲田大学で学部を卒業した梅原は、教授の勧めもあり大学院に進んだ。長兄にももちろん相談した。長兄にすれば「早く就職してほしい」というのが本音だったに違いない。それでも結局、梅原を許し、梅原は大学院に進むことになる。
「行くからにはいちばん厳しいと言われている先生の下で」と、当時会計学の権威でもあった教授の下で2年間指導を受けることになる。
大学時代の思い出はいくつかある。友だちと東海道を歩いた「貧乏旅行」もその一つ。教授たちを誘って開催した「教授・学生交流会」もその一つである。大学創立80周年の寄付集めのため、梅原がプロモートし、米子の公会堂を借り切り開催した「早慶軽音楽会」も思い出深い。
初めての東京、昭和35年の年は学生運動も盛んな年で田舎者には驚く事ばかりだった。
同じ年、東京6大学野球で早稲田、慶応の優勝をかけた早慶6連戦も忘れられない思い出の一つ。そういう一つひとつの思い出を残しながら、教授や友人たちとのきずなを深めつつ、大学生活が終わる。就職先は、学部時代に何かと相談に乗って頂いた教授に紹介された会社だった。
「大倉事業という会社です。大倉商事とよく間違えられるんですが、戦後大倉当主が財閥本部に代わるものをと言う事で設立したものです。最初に手掛けたのが、ご自分の屋敷跡にホテルオークラを建設した事でした。また子会社として、出身地新潟の「ホテルオークラ新潟」や『川奈ホテル』『赤倉観光ホテル』も、タクシーやガソリンスタンドも別会社にて経営していました」。
「グループ会社には、『大倉商事』を始め『大成建設』『日本無線』などがありました。従業員数は40〜50名の会社ということもあって、実にさまざまな勉強をさせてもらいました。 持ち株会社でも有りましたから、経営者を育成する、学校のよう一面もあったかもしれません。ところがバブル崩壊によって、状況はいっぺんします。資産も処分しなければいけない時期が始まりました。
そんな時に、世話になっていた長兄から相談を持ちかけられるんです」。
「私が東京でバブルの崩壊と戦っている頃でしょうか。地元でも、1673年創業の『稲田酒造』という会社が経営不振に陥り、その会社の社長が昔から親しくしていた長兄に『蔵元を引き継いでくれないか』という話を持ってこられたそうなんです。長兄は昔の縁もあり引き受けたものの、内情を知ると台所は火の車。しかも思うように酒が売れなかったそうなのです」。
「長兄は東京にも営業に来ていたが思う様に売れない、その度に私と3男の兄が呼ばれ、『どうにかできないか』と相談を受けたものです。3人で『ああでもない、こうでもない』と、どうやって日本酒を売ったら良いかを話し合っているうちにひらめいたのが、『エンドユーザーをつかまえるというメーカーの鉄則』でした」。
「私と言えば、ずっとサラリーマンだったものですから、あと5〜6年で退職してのんびりした生活をと考えないでもなかったのですが、私より12歳も上の長兄が、鳥取から東京まで来て、必死にがんばっているのを放っておくわけにはいきませんでした。それで、3男と私も出資して、<エンドユーザーをつかまえる>ために『稲田屋本店』を設立するんです。2人の兄はそれぞれの会社を経営していましたから、私が会社を辞め、経営の舵を取ることになりました」。考えてみれば50代半ばからの飲食デビュー。初めての飲食業、必ずしもうまく行くとは限らない。しかも、酒蔵の酒を流通させると言う目的もある。
梅原自身も出資している。それもあるが、何より世話になった兄のために負けられない戦いが始まった。
業態は自身がサラリーマン時代に、軽い接待にも使え、プライベートでも利用できる店があればいいなと思っていたという。一般の居酒屋クラスよりも少しアッパーな明るい店内をコンセプトにして作り上げた。出店場所にもこだわった。縁があって、出店したいと願った場所に1号店をオープンすることができた。
「縁あって、元中央区小学校の跡地、日本橋プラザビルの1階に無事出店させていただくことができました。コンサルタントの先生にも入っていただき、従業員にも恵まれ、ホテルの総料理長などにもアドバイスいただいたりして」。
300年以上続く蔵元の存続をかけて10店舗を目標にスタートした。2年後に「新宿西口店」をオープン。4年後には飯田橋(現在はクローズ)・品川店をほぼ同時に開業している。アッパーな業態にも関わらず、出店速度はきわめて速い。2013年現在では9店舗になる。店が増えれば、できることも多くなるが、舵を取る梅原の肩にかかる責任も年々、重くなっているはずだ。最後に、今後の展開も聞いてみた。
「そうですね。息子(専務)も大分成長してきてくれたものですから、いずれはバトンタッチと思っていますが、もう少し私がハンドルを握っていきます。日本酒は日本独自の文化ですから、蔵元の歴史とおもてなしの心、を海外の人にも広めていく、そういう仕事をしていきたいなと思っているのが一つです」。
それと、オープン当初から意識して来ましたが地元鳥取や山陰の地産品を今まで以上に首都圏でPRしていきたいとも考えています」。
「酒という文化は、最近、海外の食文化との融合が進んでいて、これは息子のほうが進めているのですが、日本酒の提供方法一つとっても色々なサービスが流行っています。
こういう面だけ捉えても、まだまだアレンジできることが多く、広がりがある気がしています。当社でもソフト面をもっと意識し、試行錯誤しながら進めて居ります。色々な事を考え今の時代に乗り遅れ無い様にしなければと思って居ります。ただ、最近は世の中のスピードが速くて (笑)」。
社長後継候補もできた。店も順調に推移している様だ。「稲田酒造」の発展にも貢献することができたのでは。
遅咲きデビューの飲食経営者だが、サラリーマンの経験が随所に活きているのも事実である。スタッフに計数管理を徹底的に仕込んだあたり、ふつうの飲食経営者には真似ができないところだろう。もう、東京に来て、50年以上になる。
この東京で、サラリーマンで終わっていたら出会う事のなかった、多くの従業員、そして多くの知人友人に、また故郷の諸先輩に支えられていると、感謝の言葉を口にする。
そんななか、梅原の頭にはいつも生まれ故郷の「御内谷」があるのだろう。
兄弟のきずなが生んだ飲食事業。
この店は、また事業は、いずれ東京と鳥取、日本と海外を「一つのきずな」でむすんでいくに違いない。
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