株式会社ユウ・フード・サービス 代表取締役社長 谷 祐一郎氏 | |
生年月日 | 1975年9月2日 |
プロフィール | 大阪府八尾市に生まれる。兄妹は4つ下の妹が1人。大学には進学したが、独立・起業をめざし中退。日本料理店で修業したのち、23歳で独立開業。10坪の店、1店舗からスタートした飲食人生は、順風満帆。2013年で14年経ち、その間24店舗の店を立ち上げ、同数の店舗プロデュースも行っている。これからの若手起業家には、「独立までにしっかりと勉強を重ね、独立してからの成功確率を上げることに専念せよ。数字に強いことも、当然大事」というメッセージを送ってくれている。 |
主な業態 | 「鶏鳥Kitchen ゆう」「鶏豚きっちん」「鶏魚Kitchen ゆう」「つけ麺 きゅうじ」他 |
企業HP | http://yuufood.co.jp/ |
谷は、1975年、大阪府八尾市に生まれる。父は高知出身で、母は八尾市の隣町、東大阪市出身だそうだ。兄妹2人、4つ離れた妹がいる。父は、小さいながら工場を営んでいた。H型鋼を加工する仕事である。母も父といっしょに働いていた。典型的な家族経営。谷も何度か、工場を覗いたことがある。「つまらへんわ」。仕事をみて、生意気にそう思っていたそうだ。
谷が生まれた1975年は、ベビーブームの時代である。学校はいつも生徒たちで溢れていた。そのなかでも、谷は元気が良く、目立った存在だった。小学校から野球を始め、中学まで続けている。高校は県内でも有数の進学校に進んだ。
谷が高校1年といえば、1991年のこと。バブルの真っ最中である。父が営む工場の景気も良かった。むろん、父の会社だけではない。すべての企業がバブルに沸いていた。
「私は高1の冬から居酒屋でアルバイトを始めました。いま思えば、あの頃はオープンすれば儲かる、そういう時代。逆にスタッフは足らなかったのでしょう。アルバイトも貴重な戦力とみなされていました」。
この時のアルバイトで、「飲食」の楽しさに出会ったと谷は、語っている。
ちなみに関西出身。「根っからの阪神ファン」だ。「バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発」からスタートし、優勝した1985年は、谷が、野球を始めた頃と重なる。
バブルが弾けるのは意外にはやい。1992年、景気は下降線をたどりはじめ、「弾ける」という言葉がぴったりなぐらい、あっというまに暗転する。父の会社の経営が苦しくなったのもこの頃である。
「仕事がないもんですから、工場にも行かず家で飲んだくれているような時もありました。幸い、叔父がおなじような仕事をしていたので、会社を畳んで、一時はそちらで世話になっていましたが、結局、母と離婚し、高知に帰ります。私たち3人の生活が始まりました」。
大学進学と重なった。高校時代のバイトといままで貰ったお年玉を全部使って100万円の入学金と授業料を支払った。ただ、大学に行ってみると、それほど意味があるように思えなかった。
「籍がある限り、年間100万円ぐらいかかるんです。いまから3年通ったとして計300万円。その金があれば、独立できるんじゃないかと。それに大学にも週1回ぐらいしか行ってなかったもんですから、関西人らしく『もったない』と思って(笑)。退学することを決意しました」。
大学を辞め、独立の資金づくりにまい進した。23歳の時には、600万円がたまっていた。目標に向かってまっすぐ進む、意志の強さが伺える。
いつ頃から独立しようと思っていたのですか?という質問に、谷は、「そうですね」といったん考えるしぐさをして話だした。「高校3年の時に、『秋吉』という有名なやきとりチェーンでバイトをしていたんです。あの頃からでしょうか。ただ、独立しようと心を決めたのは大学生になってから。大学を辞めるのは、ほかに道がなくなるわけですから、この時にはいっぱしの覚悟をしていました」。
大学中退。ある意味、「独立」にジブンを追い込んだことになる。
「大学を辞めてからは、日本料理割烹で料理を勉強しました。いままで影響を受けた人と聞かれたらいつもまっさきに挙げるのが、この時の店長です。料理をするたのしさも、この店長から教えてもらいました。たった4つしか違わないのに、とてもかなわないような人でした」。
秋吉では、経営のノウハウをかじった。割烹では、料理をもう一度、勉強した。資金600万円もたまった。国民金融公庫に行き、600万円を融資してもらって、計1200万。いよいよ独立、これがまだわずか23歳の時のことである。
飲食店で働いてきたとはいえ、「F/Lコスト」もわからない。独立に「いったいいくらかかるのか、かければよいのか」も正確にはわからない。立地についても同様である。
八尾市のとなりの東大阪に「布施」という街がある。大阪市に隣接した、繁華街。とはいえ、東京のそれとは比較にならない。飲食店やパチンコ店が、小さな街のなかで軒を並べているような街だ。そのなかにピンク街の一角があった。
「10年以上の空き物件です(笑)。もちろん、家賃は高くはなかったですが、格安というわけでもありません。結局、1200万円のうち1000万円を初期投資に使い、残り200万円を運転資金にしました」。
「ピンク街の真ん中に店だしても客はけえへんで」が周りの店主の共通した意見だった。とはいえ、もう1000万つぎ込んだ。辞めるわけにはいかない。
もしこの時、「もっと初期投資も抑え、だれもが『いける』というような立地でオープンしていたらどうだったろう」と考えてみた。タラレバの話だが、ひょっとすれば気の緩みから、もしくは同業との競合のなかで埋没し、店は軌道にも乗らなかったかもしれない。そう思いたくなるほど、不利な立地を顧みず1号店は繁盛することになる。ハンディが、谷を奮い立たせたと言えなくもないだろう。
「初月の売上は120万円でした。親族、友人総動員です(笑)」。10坪、バイト2人だから、まずますの結果である。ただし、オープン初月がピークという店も少なくない。
「私も、そうなるのが怖かったんですが、友達の友達が、またその友達を連れてきてくれるような、ええ循環になって。そのうえ、ラッキーなことに半年くらい経った頃に『関西ウォーカー』という雑誌がうちの店を取り上げてくれたんです。ピンク街で、多少、評判になっていたことで取材してみようという気になってくださったのかもしれません」。
掲載後、一気に売上は膨らんだ。みるみる売上がアップする。2年後には、関西一の繁華街、「梅田」に2号店を開店するまでになった。
「この2号店が、ビックリするぐらいヒットしたんです。初日から満席です。布施と比べれば家賃も格段に高かったですが、どうってことないぐらいの売上が上がったんです」。2年後というから、まだ谷は25歳。人生経験だけではないが、若い経営者は、ともすれば調子に乗って落とし穴にはまることがある。良くあるパターンと言えなくもない。谷の場合はどうだったんだろうか?
「2店目も順調だったもんですから、その1年後に3店目を出店します。今度は、心斎橋です。でも、街のはずれだったんです」。それで、コケた? 「赤字ではなかったのですが、ギリギリ採算ラインに乗るぐらいで、利益はぜんぜん。ほかの店と比べれば、いうまでもなく物足りない数字でした」。
こうした場合、2つの選択肢がある。キズのないうちに撤退するか、トコトンねばるか、である。むろん後者はキズが深くなるリスクを負う。
しかし、谷は、このいずれの方法も取らなかった。店は、残し、スタイルを刷新した。「たぶん、やきとり初の、食べ飲み放題です。繁華街から少し外れていたこともあって、わざわざ足を運んでいただくためには斬新なことをやらなければならないと思って。採算ギリギリだったのが、幸いした気もします。赤字だったら撤退していたし、少しでも利益が出ていたら、もう少しおなじスタイルでねばっていたからです」。
「幸い」という言葉から想像できるように、この戦略は見事にハマった。串を打つ手間、食材費、ぜんぶ計算すれば、無謀な戦略でもある。ただ、無謀な戦略がかえって功を奏した。競合はない。月商はそれまでの2倍、600万円に達した。売り上げが、すべての経費を飲み込んだ。
むろん失敗し、撤退したこともある。ただし、1回きり。
「ラーメン博物館というのがあるでしょ。アレと同じコンセプトのが大阪にもできたんです。うちも、それに乗っかって出店したことがありました。家賃に販管費などをプラスするとけっこうな額でした。それでも人が来ればいいんですが、施設そのものの集客がうまくいかなかった」。唯一の、失敗と言えるのが、この話。
「けっこう、キツかった。赤字というのが初めてだったこともあって、私自身にも耐性がなかったのでしょう。毎月、赤字を埋めるためにほかの店の利益を突っ込む。この恐怖に耐えられずに撤退しました」。ただし、こちらでも早めに決断したためにキズは浅かった。いい意味の教訓になった。現在、谷率いる店舗は、直営24店、プロデュース店舗も同数ある。直営のなかには、独立組の店舗も含まれていて、「無事10人が独立している」という。こちらも驚異的な数字といえなくもない。
「石橋を叩いて渡る」、そういうタイプではない。それはやきとり食べ放題や、ラーメン店の出店からもわかるし、いきなり梅田に2号店を出店したところからも伺える。では、どうして、これだけ順調に失敗もせず出店を行うことができたのだろう。
要因はいろいろあるが、それはやはり谷本人の性格や考えに起因するに違いない。最後に、その点を聞いてみた。
「東京にも出店できるようになりました。これはコツコツと、積み重ねた結果だと思っています。一店舗一店舗に注力してきたことで、全店が利益をだし、その利益がある程度たまったところで、次の店をだしてきました。この繰り返し。ただ、それだけです」。
大きな野望を抱えていたわけではない。目の前のことをクリアする、その繰り返しが、時にはスピーディな、時にはじっくりとした出店につながってきたのだろう。
ただ、ここで注目したいのは、「利益がある程度たまった」という一言である。そういえば、谷は大学入学のために、「バイト代」と「お年玉」を使ったと言っている。大学進学のために、小さい頃からお年玉をためてきたわけではないだろうが、それが幸いした。この「ためる」というチカラ。谷に言わせれば、自然とたまっただけというだろうが、正攻法で、「成功」の二文字をつかみとるつもりなら、忘れてはいけないチカラだと思った。それは「大言壮語」に頼らない真のチカラ。「誠実さ」とも読み取れる。
スタッフを含め、みんなが谷に惹かれるのは、谷が、このようにつねに素のままの姿で接するからではないのだろうか。
飲食が好きで、事業が趣味のような人である。だから、素のままに事業が運営できる。
彼の人生に、キャッチフレーズをつけるなら、素のままの生き様である。
3歳の頃 | オープン時のユニホーム姿 | 布施本店1号店 |
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