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第376回 株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏
update 13/07/16
株式会社トライ・インターナショナル
田所史之氏
株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏
生年月日 1963年4月8日
プロフィール 福島県生まれ。東洋大学中退。21歳で独立開業に成功したが、バブル経済時の投資が負担となり29歳で倒産。40歳。自己破産から再生し、再度、起業。「味噌」をキーワードに、現在、「蔵出し味噌 麺場」などの味噌ラーメン店を直営店5店舗、FC45店舗展開。海外進出も果たし、ブラジル、アメリカ、カナダ、タイ、台湾に出店している。
主な業態 「麺場 田所商店」「味噌屋」他
企業HP http://www.misoya.net/
味噌はからだにいい。
トライ・インターナショナルのHPによれば、「栄養価値が高く、必須アミノ酸・ミネラル・ビタミンが豊富で、ビタミンB2やカルシウムの補給にも役に立つ」とのこと。海外で日本食が注目されるなか、「味噌」もまた、特有のタンパク質を豊富に持つ栄養価の高い加工食品としてクローズアップされている。
ただし、我々日本人にすれば、からだにいいという理屈など抜きで愛する食材の一つということができるだろう。ふとんから起き出すと漂ってくる味噌汁の香りは、日本の朝餉の原点でもある。
さて、今回は、この「味噌」を武器に海外にも展開するラーメン店、その総帥でもある代表取締役社長、田所史之氏にお話を伺った。では、いつも通り、生い立ちから追いかけてみることにしよう。

「味噌屋」の息子の少年時代。

田所は、人口わずか1〜2万人の小さな町、福島県白河市、通称「中通り」で産声を上げた。実家は、明治から続く「味噌」の製造店。兄妹は、4つ下に妹が1人いる。
「代々、続いていましたが、そんなに大きな味噌屋ではありません。父は、別に仕事を持っていたぐらいですから」と田所。
規模の大小はともかく、この味噌屋が田所を育てたことになる。むろん、朝餉には旨い味噌汁が出されたことだろう。
田所に少年時代を振り返ってもらった。
「そうですね。子どもの頃は、ぜんぜん勉強しませんでした。テストでは30点取ればいいほう。勉強に興味がなかったから、寿司職人になりたいと思っていたんです」。
勉強より、スポーツが得意な少年だった。
特に小学校から始めた野球では、メキメキ頭角を表し、キャッチャーで打順も3番など、主要なメンバーとしてプレイした。
「高校では、県でベスト4。チームはそれ止まりでしたが、私は、それなりに評価され、社会人野球からも誘っていただきました。いただいたんですが、私も高校生になるとバイクに熱中したりして。もう、野球はいいかなと思っていたんです」。

野球とバイクと好きな子を追いかけて。

野球は好きだったが、勉強はイマイチ好きになれない。バイクに熱中し、ろくに学校にも行かなかった。だから、卒業の段になっても、単位が足らなかった。社会人野球の話ももらったが、それどころでもなかったのが実情である。
「いい先生というか、まぁ、おかげで卒業できたんだけど、真冬の2月にプールですよ。25メートル泳いだら単位をくれるっていうんです。それで、海パンになって(笑)」。
25メートル無事、完泳。それで、無事に高校も卒業することができた。進路は、決めていた。「好きな子が東京に行くっていうから、とにかく私も東京へと」。

在学2年。通算通学、5日のみ。

東洋大学に滑り込んだ。最初に暮らしたのは新宿。福島育ちの青年には、刺激が強すぎた。それとも、動機が動機だっただけに、学業にはとんとちからが入らなかったのか、興味がなかったのか。なんと大学在学2年間で、キャンパスを観たのはたった5日間だけ。もっぱら、バイトに明け暮れる学生時代がスタートした。
「新宿のマルイシティーでウエイターをして、1年厨房にも入りました。その頃からお金を稼ぐのが楽しくなり、独立心も芽生えてきました。当時から埼玉に『ロヂャース』という、いまのドンキ・ホーテのようなディスカウントスーパーがあって、そういうビジネスをしたいと思うようになりました。ところが、調べてみると初期投資に1億円もかかることがわかったんです。到底、用意できる額ではありません。それで、まずは準備だと、とあるラーメン店に就職したんです」。
1億円と、ラーメン店。ちょっとかけ離れているように思えるが、21歳でFCとして独立。「ディスカウントスーパー」設立の計画は着々と進行していたようだ。もちろん、大学は2年で中退。日割り計算すればとんでもない学費を払っていたことになる。

青年社長の凋落。

田所が、青年社長としてデビューしたその頃、世の中はバブル経済に向かっていた。田所もその波に乗り、バブルはピークを迎える頃にはラーメン店以外にも、居酒屋などを手広く経営するようになっていた。
ところが29歳でバブルが弾けた。先行投資がすべて裏目にでる。35歳で抱えた借金は、億単位となり、「ディスカウントスーパー」が何店も出店できる額になっていた。
「自己破産するしかなかった」と田所は苦しい胸の内を明かす。幸い、知人が誘ってくれたおかげで、仕事に困ることがなかったが失意のどん底。
いったん自己破産すれば、いくつもの制約が課せられる。5年間、しのんだ。もう一度という思いも頭にあったが、自信があったかどうかは別ものである。

日本一の、味噌ラーメン。

5年間の雌伏の時を経て、田所はもう一度、起業に乗り出した。子ども達のためにも、それ以外は思い浮かばなかったからである。
「もともとは味噌をメインにした居酒屋だったんです。1店舗オープンし、好調だったんですが、ちょうど道路改正法が施行され、飲酒運転の取り締まりが強化された時と重なったんです。店の前で検問をやられて、これはもう無理だと居酒屋は辞めてラーメンに業態を絞ったんです」。
これが幸いしたのではないか、と思う。味噌はたしかに、調味料ではなくそのものが食材にもなり、田楽など味噌料理も多い。しかし、洋食にも慣れた日本人の、特に若者の味という観点からすれば、味噌料理をたのしむという感覚は薄い気がするからだ。
冒頭にも取り上げたが、HPを観ればわかる通り、味噌に対するこだわりは強い。
改めてスタートした経営者田所の人生は、堅実で、たしかな足取りだった。着実で堅実な店舗網の拡大にも、その在りようをみてとることができる。ただし、縮こまっているわけではない。むしろ、事業の翼は広がり、海外にも出店。2013年5月現在、ブラジル、アメリカ、カナダ、タイ、台湾に店舗がある。国内では直営5店、FC45店という布陣。田所、自身、見事にマイナスから再生したということができるだろう。
日本一の、味噌ラーメン店。これも、いまの目標の一つ。

世界へ。MISO文化を。

「盛和塾に入塾させてもらったことが、私のなかでは大きな意味を持っています。たまたま外車を購入しようと思って行ったディーラーの社長が盛和塾の塾生だったんです」。紹介で、盛和塾の門を叩いた。
いままで、あやふや、もしくはあいまいだった「事業」をする意味が明確になった。理念を口にするようになる。
「とくにね。ブラジルに行った時のことです。快晴でね。青空を観ているうちに電気が走ったんです。それをなにかと言われたら、言葉にするのはむずかしいんですが、味噌というものを世界に広げようと。それが私の使命のように思ったんです」。
味噌は、醤油と同じように日本の食文化を代表する調味料であり、一方では、日本の食文化を代表する保存食でもある。そういう意味では、味噌を広めるということは、日本の食文化を輸出することにもなり、グローバル化したいまの社会のなかで、その役割は極めて高いといえるだろう。
たとえば、味噌を通して「日本」を好きになる人が増えれば、その一滴を持って平和にも貢献することができるからだ。
世界にMISO文化を! どん底をみた経営者田所はいま、そんな広い視点で事業をみつめている。

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