株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏 | |
生年月日 | 1963年4月8日 |
プロフィール | 福島県生まれ。東洋大学中退。21歳で独立開業に成功したが、バブル経済時の投資が負担となり29歳で倒産。40歳。自己破産から再生し、再度、起業。「味噌」をキーワードに、現在、「蔵出し味噌 麺場」などの味噌ラーメン店を直営店5店舗、FC45店舗展開。海外進出も果たし、ブラジル、アメリカ、カナダ、タイ、台湾に出店している。 |
主な業態 | 「麺場 田所商店」「味噌屋」他 |
企業HP | http://www.misoya.net/ |
田所は、人口わずか1〜2万人の小さな町、福島県白河市、通称「中通り」で産声を上げた。実家は、明治から続く「味噌」の製造店。兄妹は、4つ下に妹が1人いる。
「代々、続いていましたが、そんなに大きな味噌屋ではありません。父は、別に仕事を持っていたぐらいですから」と田所。
規模の大小はともかく、この味噌屋が田所を育てたことになる。むろん、朝餉には旨い味噌汁が出されたことだろう。
田所に少年時代を振り返ってもらった。
「そうですね。子どもの頃は、ぜんぜん勉強しませんでした。テストでは30点取ればいいほう。勉強に興味がなかったから、寿司職人になりたいと思っていたんです」。
勉強より、スポーツが得意な少年だった。
特に小学校から始めた野球では、メキメキ頭角を表し、キャッチャーで打順も3番など、主要なメンバーとしてプレイした。
「高校では、県でベスト4。チームはそれ止まりでしたが、私は、それなりに評価され、社会人野球からも誘っていただきました。いただいたんですが、私も高校生になるとバイクに熱中したりして。もう、野球はいいかなと思っていたんです」。
野球は好きだったが、勉強はイマイチ好きになれない。バイクに熱中し、ろくに学校にも行かなかった。だから、卒業の段になっても、単位が足らなかった。社会人野球の話ももらったが、それどころでもなかったのが実情である。
「いい先生というか、まぁ、おかげで卒業できたんだけど、真冬の2月にプールですよ。25メートル泳いだら単位をくれるっていうんです。それで、海パンになって(笑)」。
25メートル無事、完泳。それで、無事に高校も卒業することができた。進路は、決めていた。「好きな子が東京に行くっていうから、とにかく私も東京へと」。
東洋大学に滑り込んだ。最初に暮らしたのは新宿。福島育ちの青年には、刺激が強すぎた。それとも、動機が動機だっただけに、学業にはとんとちからが入らなかったのか、興味がなかったのか。なんと大学在学2年間で、キャンパスを観たのはたった5日間だけ。もっぱら、バイトに明け暮れる学生時代がスタートした。
「新宿のマルイシティーでウエイターをして、1年厨房にも入りました。その頃からお金を稼ぐのが楽しくなり、独立心も芽生えてきました。当時から埼玉に『ロヂャース』という、いまのドンキ・ホーテのようなディスカウントスーパーがあって、そういうビジネスをしたいと思うようになりました。ところが、調べてみると初期投資に1億円もかかることがわかったんです。到底、用意できる額ではありません。それで、まずは準備だと、とあるラーメン店に就職したんです」。
1億円と、ラーメン店。ちょっとかけ離れているように思えるが、21歳でFCとして独立。「ディスカウントスーパー」設立の計画は着々と進行していたようだ。もちろん、大学は2年で中退。日割り計算すればとんでもない学費を払っていたことになる。
田所が、青年社長としてデビューしたその頃、世の中はバブル経済に向かっていた。田所もその波に乗り、バブルはピークを迎える頃にはラーメン店以外にも、居酒屋などを手広く経営するようになっていた。
ところが29歳でバブルが弾けた。先行投資がすべて裏目にでる。35歳で抱えた借金は、億単位となり、「ディスカウントスーパー」が何店も出店できる額になっていた。
「自己破産するしかなかった」と田所は苦しい胸の内を明かす。幸い、知人が誘ってくれたおかげで、仕事に困ることがなかったが失意のどん底。
いったん自己破産すれば、いくつもの制約が課せられる。5年間、しのんだ。もう一度という思いも頭にあったが、自信があったかどうかは別ものである。
5年間の雌伏の時を経て、田所はもう一度、起業に乗り出した。子ども達のためにも、それ以外は思い浮かばなかったからである。
「もともとは味噌をメインにした居酒屋だったんです。1店舗オープンし、好調だったんですが、ちょうど道路改正法が施行され、飲酒運転の取り締まりが強化された時と重なったんです。店の前で検問をやられて、これはもう無理だと居酒屋は辞めてラーメンに業態を絞ったんです」。
これが幸いしたのではないか、と思う。味噌はたしかに、調味料ではなくそのものが食材にもなり、田楽など味噌料理も多い。しかし、洋食にも慣れた日本人の、特に若者の味という観点からすれば、味噌料理をたのしむという感覚は薄い気がするからだ。
冒頭にも取り上げたが、HPを観ればわかる通り、味噌に対するこだわりは強い。
改めてスタートした経営者田所の人生は、堅実で、たしかな足取りだった。着実で堅実な店舗網の拡大にも、その在りようをみてとることができる。ただし、縮こまっているわけではない。むしろ、事業の翼は広がり、海外にも出店。2013年5月現在、ブラジル、アメリカ、カナダ、タイ、台湾に店舗がある。国内では直営5店、FC45店という布陣。田所、自身、見事にマイナスから再生したということができるだろう。
日本一の、味噌ラーメン店。これも、いまの目標の一つ。
「盛和塾に入塾させてもらったことが、私のなかでは大きな意味を持っています。たまたま外車を購入しようと思って行ったディーラーの社長が盛和塾の塾生だったんです」。紹介で、盛和塾の門を叩いた。
いままで、あやふや、もしくはあいまいだった「事業」をする意味が明確になった。理念を口にするようになる。
「とくにね。ブラジルに行った時のことです。快晴でね。青空を観ているうちに電気が走ったんです。それをなにかと言われたら、言葉にするのはむずかしいんですが、味噌というものを世界に広げようと。それが私の使命のように思ったんです」。
味噌は、醤油と同じように日本の食文化を代表する調味料であり、一方では、日本の食文化を代表する保存食でもある。そういう意味では、味噌を広めるということは、日本の食文化を輸出することにもなり、グローバル化したいまの社会のなかで、その役割は極めて高いといえるだろう。
たとえば、味噌を通して「日本」を好きになる人が増えれば、その一滴を持って平和にも貢献することができるからだ。
世界にMISO文化を! どん底をみた経営者田所はいま、そんな広い視点で事業をみつめている。
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