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第377回 フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
update 13/07/23
ラ・ロシェル
坂井宏行氏
フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
生年月日 1942年4月2日
プロフィール 3人兄弟の長男。17歳でフランス料理の世界に入り、19歳で、単身オーストラリアに渡る。帰国後、銀座「四季」や青山「ココ・パームス」、「西洋膳所 ジョン・カナヤ麻布」にてシェフを務め、1980年、独立。南青山に「ラ・ロシェル」をオープンする。1994年、「料理の鉄人」出演。2005年にフランス共和国より農事功労章「シュヴァリエ」受勲したほか、前年の2004年にはフランスロワール地方「ガストロミー騎士団」よりシュヴァリエ勲章受勲、2009年には厚生労働省より「現代の名工」に選定されている。
主な業態 「ラ・ロシェル」
企業HP http://www.la-rochelle.co.jp/
英語の「ミスター」をフランス語で言い換えれば「ムッシュ」となる。1990年代に放映された人気のTV番組「料理の鉄人」で「ムッシュ」といえば、坂井宏行。言わずと知れた「フランス料理」の鉄人である。コスチュームのカラーは赤だった。

「貧しさ」と「豊かさ」。

坂井は、戦時下、両親の故郷である、鹿児島県出水市で生まれている。3人兄弟の長男。3歳の頃に父を亡くし、母方の実家で幼年期を過ごす。出水市は鹿児島県の北西部にあり、熊本県は目の鼻の先だ
母一人で支える家計は、けっして楽ではない。「白米」の代わりに「ひえ」や「あわ」が食卓に上り、「さつまいも」は“つる”まで食べていたそうだ。弁当箱には、蒸した「さつまいも」が一つだけの時もあった。恥ずかしくて、弁当箱の蓋で隠しながら、食べた。
もっとも当時は日本全体が貧しく、坂井家だけが特別だったわけではない。自然に恵まれていたぶん、食べることには困らなかったほうだろう。
山には山菜があり、川には魚がたくさんいた。仕掛けをつくって、鳥を獲ったこともある。むろん、獲った魚や山菜は、食材になる。
畑からは「キュウリ」や「ナス」「トマト」を頂戴した。それを清流で洗い、採りたてを食す。
「ぼくはこういう自然のおいしさを口にして育ったんです」と坂井。「貧しさ」の反面、「豊かさ」にも包まれていた。
「運動神経は良かった」と坂井。「かけっこ」の大会に出ては、賞品を獲得した。ノートやエンピツ、それが兄弟たちの筆記用具になった。
母には「人に後ろ指を指されることだけはするな」と育てられた。もっとも坂井はこう言っている。「ちっちゃい頃はやんちゃだったから、けっこう母の言いつけに背いて、後ろ指を指されるようなこともしていましたよ(笑)」と。
こちらを笑わす気配りも忘れない人である。

コック服に憧れて。

「貧しかったけれど、ひもじい思いはしなかった」と坂井はいう。ただ、「まんぷく」という意味ではなかったのだろう。「料理人になれば、とにかくひもじい思いはしないで済むだろうと。これが、料理人をめざすきっかけの一つになった」とも言っている。
むろん、それだけではない。母からは「手に職をつけろ」と叩き込まれていた。料理にも興味があった。母の代わりに台所に立つことも少なくなかったから。中学生になると、早くも坂井家のシェフを務めていたそうだ。
「幸いなことですが、ぼくは手先が器用なんです。だから、料理もうまかった。つくるのも、たのしかったし」。たのしいと言っても、食材は限られている。台所に立って、家族を喜ばすために悪戦苦闘している、坂井のすがたが思い浮かんだ。
「ところで、何故、フランス料理だったんですか」と尋ねてみた。
「そりゃ、恰好よかったからですよ。コック帽をかぶってね。最初は、貨客船のコックに憧れていたんです。客船のコックになって世界を周ってやろうとね」。
「ぼくは恰好から入るほうだから」と坂井。料理人⇒フランス料理は、恰好いいコック服よって、つながっていたようだ。
坂井は、いったん高校にはいったが、1年の2学期で退学してしまう。家計を案じれば、勉強に費やす時間がもったいなかったし、はやく料理人になりたいとも思っていたからだ。
ちなみに、料理人以外にもう一つ目標があった。「宮大工」だそうだ。「料理人になってなかったら、宮大工になっていた」と坂井は当時の思いを語っている。

料理の世界へ。

ともあれ、坂井は17歳で料理の世界に足を踏み入れる。むろん、フランス料理からのスタートだ。オーストラリアに渡り、1年半、パースにあるホテルでも修業した。
帰国したのは坂井が、20歳の時。ハードルが高い面接を何度も通過し、東京・銀座にオープンしたフランス料理店「四季」に就職する。
本格的にフランス料理を研鑽できたのは、この時と坂井はいう。銀座「四季」には、フランス料理の先駆者的存在だった志度藤雄氏がいたからである。
坂井は、3年間、志度藤雄氏に師事した。この3年間が、料理人、坂井の基礎をつくったのは間違いない。

当時の料理の世界。

ところで、当時の料理界のことも伺った。もう50年も以前の話である。
「食べるのに困らないから飲食の世界に入った」。坂井と同年代の料理人たちからよく聞かされる話である。もう一つ、同年代の料理人が共通して言うのは、料理の世界の理不尽なまでの厳しさだ。坂井にもその点を確認してみた。
「そりゃ、厳しいよ。ぼくは何事にも要領が良かったから、先輩にも好かれていたほうなんだけど、それでも辛いことが少なくなかったもの。親方(料理長)っていうのは絶対で、親方がいえば、黒いカラスでも白くなっちゃうんだから(笑)」。
「もちろん、いまみたいには教えてくれない。ぼくら見習いは、鍋や皿に残ったソースを舐めて勉強するんです。でもなかには、それすらできないようにわざと水にジャブンとつけちゃうシェフもいる。下の奴らを育てたらおびやかされるでしょ。そういう発想だったんです。食材の横流しも横行していた。当時は、『シェフを3年やれば家が建つ』って言われていたぐらいだから」。
「ぼくらも、それが当たり前だと思っていた。だけど、そのあとぼくはオーストラリアに渡るでしょ。向こうはぜんぜん違うの。後輩ができるようになれば、そのぶん、上が楽できるって発想だから、どんどん教えてくれるんです。仕事も、させてくれる。あたり前の発想なんですが、日本にはそれがなかったんですね。既得権にしがみつく日本人シェフとは、守るべきものも違っていたんでしょう」。
それから50年。いま、料理の世界はどうなっているのだろう。もう、少し坂井の話をつづけてみる。

「金谷鮮冶」との出会い。

銀座「四季」や青山「ココ・パームス」などで頭角を表した坂井に興味を持った男性がいた。金谷鮮治氏である。
「金谷さんに出会えたのは、ある会社の常務に推薦いただいたからなんです。当時、金谷さんは『日本と西洋の食文化の融合』という発想で『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布』の出店を計画されていました。でも、大事な料理長がなかなか決まらなかったんです。『懐石料理をベースに洋のスタイルを採り入れる』という野心的で、パイオニア的な発想に共感するシェフは少なかったんでしょう。当時のぼくは、29歳。野心はもちろんありました(笑)」。
スーシェフとして、採用された。スーシェフとは総料理長を直接補佐する、キッチンではナンバー2の位置づけである。
「でも、待っても、待ってもシェフが来ない。金谷さんのおめがねにかなわないんです。それでも彼は、『安心しろ、すぐに連れてくるから』と。ところがオープンになっても決まらないんです。それで結局、スーシェフのぼくが、初代のシェフになるんです」。
「金谷さんに出会っていなかったら、いまのぼくはない」と坂井は断言する。それだけ何から何まで、金谷氏から学んだ。
「金谷鮮冶氏」については、一言で説明するのは難しいのでネットで調べていただいたほうがいいだろう。ともかく伝説的な人物である。
坂井がこの時、金谷氏から教わったことをいくつか紹介しよう。そこからも金谷氏を少しはイメージすることができる。
「従業員は財産である。辞めていくのは、店側に責任がある」。当時としては、いや、むしろいまでも、卓越した発想の一つだ。
「物を大切にしろ。10万のスーツを3着買うのではなく、30万のスーツを1着買え、と教えられた」ともいう。物事の核心に迫る話である。
「暇でもいい。暇なうちに勉強しろ」とも。…。

『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布』オープン。

「暇でもいい。暇なうちに勉強しろ」と、金谷氏が説いたのにはわけがある。「ジョン・カナヤ麻布」にはオープンより3年間、1日数組のゲストしかこなかったからである。客単価3万円。当然、お客様のレベルも決まってくる。ちなみに大卒の初任給が、10万円未満だった頃の話である。客が少ないのも頷ける話である。「キッチンで将棋ばかり指していた」と、坂井。坂井も、元来、楽天家である。
「金谷さんは、そんな時でも、『暇でもいいんだ。暇だからできることがあるだろ』って。ぼくも、行ったことのないような日本料理店に連れて行かれました。金谷さんの頼みなら、厨房もみせてくれます。最初は、抵抗があったのも事実です。オレはフランス料理のコックなんだぞ、って思いがありましたから。でも、日本料理を知れば知るほどたのしくなってくるんです。和と洋という2つの食文化を融合させたスタイルもみえはじめます」。
「ブレイクのきっかけをつくってくれたのは、『専門料理』という雑誌の編集記者です。彼女が雑誌で取り上げてくれたおかげで、ブレイクするんです。折しも、ヌーベルキュイジーヌという料理スタイルの波がやってきます。いわゆるバターやワインをたっぷり使ったコテコテのフランス料理ではなく、軽いフランス料理です。これが、金谷さんの「フランス懐石」という発想とマッチしたんです。あの時は、金谷さんの『先見性』を思い知らされた気がしました」。
坂井は「西洋膳所ジョン・カナヤ麻布」で10年、勤務する。7年目には、坂井を息子のように可愛がった金谷氏が他界する。それもあって、坂井は独立を決意する。坂井38歳の時である。

独立。「ラ・ロシェル」オープンと「80%」の方程式。

東京・南青山「ラ・ロシェル」。28坪30席。価格設定はランチ1980円、ディナー8000円、1万2000円。夜は以前からの坂井ファンが訪れ、ランチは主婦層に受けた。キッチンにも、ホールにもいいメンバーが揃った。
坂井は彼らに80%をめざせという。「100%」ではない。
「100%を追いかけると余裕がなくなるから」だという。
「わかりやすく言えば、100人のお客様を追っかけるのはたいへんなんです。80人でいい。それで経営は成り立つんですから。なのに、欲をかいて残り20人も追いかけるから、疲れてしまって何もする気が起こらなくなる。残り20人、つまり20%は、趣味でもなんでもいいから、仕事以外で使えばいい。そういう人のほうがいいんだって、ぼくはスタッフにいつも言っているんです」。
「断る勇気もいる」と坂井は自らの経験をもとに、そういう。料理人として、また経営者として、求められるレベルが高いだけに、つねに最高のパフォーマンスを示さなければならない。「100%」ではなく、「80%」は、最高のパフォーマンスを行うための鉄則、もしくは方程式と言えるかもしれない。

32階、天空のレストランで味わった天国と地獄。

東邦生命ビルの32階に店を出さないかと誘われたのは、バブル崩壊の2年前のことである。「東邦生命の社長から、直々にお誘いいただいたんです。でも、こっちは正直やる気がなかった。坪数も10倍の300坪です。たいへんでしょ。でも、正面から『やらない』とは言えないから、無理な条件を提示したんです。この店にはもともとフランス料理店が入っていたんですが、撤退されてしまったんですね。それで同じフランス料理ということで声をかけてくださったんだと思いますが、ぼくは、店のつくりが気に入らなかったから、全面改装してくれ、という注文までつけたんです。絶対、無理でしょ。もちろん保証金もゼロです。ところが、『わかった、それを受けたらやってくれるんだな』ということになって。もう、あの時は、テーブルの下で足ががくがくふるえていました」。
改装費だけで「8億円」もかかった。保証金もゼロ。スタッフ数は増えたが、ベテランを中心にみんな良くやってくれた。南青山の店は畳んだ。2つを追うほど器用じゃないから。
この店で坂井に「天国」と「地獄」をみることになる。
まず「天国」が先にやってきた。「とにかく、凄いんですよ。オープン初日から、300坪のフロアが客、客、客で埋まります。月商がもう少しで1億円に到達という月もあったぐらいです」。
ところが、「地獄」もすぐにやってきた。「バブルが崩壊したんですね。たしかに泡が消えるようにお客様がいなくなった。300坪のフロアにお客様1組という日もあった。スタッフたちに心配かけないように大丈夫だ、って言っていたけど、『料理人としての人生終わった』と思っていました。あの時、もし32階の窓が開けられるようになっていたら、間違いなく飛び降りていた」。楽天家が、そこまで追い詰められていたことになる。

レストランブライダルに光明をみた。

「店を、スタッフを守らなければならない」と思うと、恥も外聞もなかった。「恥も外聞も、そんな関係ないですよ。スタッフにチラシを撒いてもらうために、ぼくもいっしょに交差点で、『よろしくお願いします』って頭を下げてチラシを配りました。同業の友人にみつかって、『坂井さん、そんなに苦しいの』って同情されたりもしましたっけ」。
もちろん、当時のことを思い出せばぞっとすることだろう。しかし、その挫折や苦境を乗り越えたことで、いまの坂井があるのも事実。彼を取り巻く有能なスタッフたちとの絆もこの苦しい時期に生まれたに違いない。
ただ、店主である坂井が、孤独だったのも事実。悶々とし、さまざまなことと格闘した。この時、坂井は「レストランブライダル」に光明をみいだしている。これなら、300坪というスケールも活かせる。今度は、営業になってブライダル関連の会社をまわった。
「ホテルには、個室もあるし、綺麗なロビーもある。設備では勝てない。だけど、ぼくらには料理がある。だから、最高の料理をお出ししようとスタッフが一つになったんです」。
この「レストランブライダル」事業が功を奏す。ふたたび、人気店になりはじめた数年後、「料理の鉄人」の声がかかった。

6年間の「鉄人生活」。

「料理の鉄人」は坂井にとってどんな意味を持つのだろう。
「スタッフには、番組はいつか終わるんだから、『いつも通りにしていろ』って口が酸っぱくなるぐらい言っていました。『坂井は? と聞かれたら、収録じゃないですか』と返事しておけばいい、とも。だいたい半年で2〜3回対戦すればいいですよ、って話だったんです。それが、6年も続いちゃって」。
TVのなかの「ムッシュ・坂井」はいつも笑っている。敗者をいたわり、勝者は素直にたたえた。しかし、「負けるのはいやだから、勉強にもなった」と言っている。
陳氏や道場氏などとも交流が生まれた。1時間の真剣勝負。我々はその1時間番組に釘付けにされたが、その向こう側ではさらに多くの戦いがあったのは間違いないことだろう。
「あの番組のおかげで、田舎でもヒーローになった。母にも少しは親孝行できたかな、と思う」。ただし、スケジュールは、秒刻み。人気者には、大きなプレッシャーもかかっていたはずだ。だけど、80%の法則がある。「負けたくもないし、周囲の期待もあるし、そういう意味では毎回、強烈なプレッシャーのなかで戦うんですが、ぼくの場合は、開き直って『楽しんじゃえ』って。そういう風に言い聞かせていました」。

キッチンに立ち続ける覚悟。

「海が大好きだから、海の見えるとこで店を開きたいな」。将来の話を伺うと、そういう答えが返ってきた。健康管理にも気を使っている。「死ぬまで、キッチンに立ち続けたい」と願っているからだ。
「料理人」というものについても伺った。
「料理人にはセンスも、感性も大事。これがないといけない。でもね。それだけでもだめ。ぼくは『コックコートを着た自分に惚れろ』と言っている」。
「たしかにスーパースターがいれば、凄い料理はできるかもしれません。でも、料理はチームなんです。ぼくも、うちの店のなかまも、みんなそれを意識している」。
「ぼくは、みんなに仕事だけの人間になって欲しくないんです。人間の幅って、仕事だけでは広がらない気がしているからです。毎日、目の前の料理に取り組むよりも、時には一流の店に行って食事をする。そういうことのほうが、大事な時もあるわけですから」。
父がいない坂井にとって、金谷氏は、父のような存在だった。
料理は、生活の糧であると同時に、夢を手にする唯一の手段だった。32階の天空のレストランで味わったのは、月商1億と、チラシ配りといった天国と地獄。TVで「フランス料理」の鉄人となり、フランス共和国からも、賞を送られている。そのすべてが示すものはなにか。栄誉か、名誉か。
何か違う気がする。「料理」という二文字は、坂井にとって、もっとシンプルで、かけがえのないものとなっている。だから、「死ぬまでキッチンに立ち続けたい」という言葉も口をつくのだろう。
小さな町の、まずしい暮らしを送っていた少年が、いま「ムッシュ」と言われている。コック服が何より良く似合う人になっている。

思い出のアルバム
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
料理の世界に入った当初 ホテル新大阪にて 26歳。渋谷の洋食店にて
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
「西洋膳所ジョン・カナヤ麻布」
客席にて
「西洋膳所ジョン・カナヤ麻布」
厨房にて
38歳。南青山小原会館に
「ラ・ロシェル」を開店
 
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