株式会社アティックプラニング 代表取締役社長 五味 啓氏 | |
生年月日 | 1968年8月12日 |
プロフィール | 茨城県日立市に生まれる。国鉄に勤務する父の転勤に伴い、関西方面も転々とする。3人兄弟の長男。早稲田大学高等学院から早稲田大学に進学し、JTBに就職。そこで出会った先輩と広告会社を起ち上げ、斬新な広告手法で業界にセンセーショナルを巻き起こす。在籍中に「カフェ」をオープンし、のちに自らも広告会社を起ち上げ、「カフェ」と「広告会社」の2軸で経営を展開。カフェ事業では、2013年中に店舗数を二けたに乗せ、翌2014年より本格的に出店していく計画を立て、現在、準備に追われている。その一方、店舗プロデュース事業、ユーズドリペア家具事業なども展開している。 |
主な業態 | 「attic room」「astral lamp」「attic room」「ARMWOOD COTTAGE」「analog」他 |
企業HP | http://atticplanning.jp/ |
父は、東大から国鉄に入社した国家公務員。母は山梨出身で、母の父、つまり祖父は鉱山会社を経営する敏腕事業家。実家は武田信玄に兵糧米を納めていた由緒ある家柄で、地主だったそうである。
兄弟は3人。五味は長男である。
高校生になるまで父が転勤する度に、家族5人で引っ越した。茨城県出身だが、関西にも6〜7年住んでいる。
あちこちに引っ越したが、どこにいっても成績は群を抜いていた。
「長男ということもあったと思う」と断りつつ、「とにかく期待も寄せられ、勉強も強いられた」という。習い事も多くさせられたが、そのなかでバイオリンは、本人の意思で長く習っていたそうだ。「勉強はできたが、スポーツは苦手」。そんな少年だったという。
「子どもの頃は、両親とも勉強しろと、ともかくうるさかった。ところが、大学に進学したとたん何も言わなくなるんです。父は良く『いい大学に入れ、そうすれば選択肢が広がる』とそんな風に言っていました」。子ども時代は、「ゲームやスポーツもやらず、テレビすら見ない生活だった」と語っている。
とはいえ、小・中は公立。ただの英才教育とは少しちがう。雑多な生徒たちのなかで、五味の人間教育も行われていた気がする。
中学を卒業すると、早稲田の付属高校に進んだ。父母にとっては一つの既定路線だったかもしれない。ただし、五味本人は意外な事実を知ることになる。
「小・中まではスポーツはできないけど、頭はいいほうでした。ところが、高校に入るとぼくより頭のいい奴がいっぱいいるんです。でも、代わりにスポーツがぜんぜんできない(笑)。『アレ? オレってスポーツできるんだ!』って高校で初めて知ったんです。それで初めてスポーツ部に入りました。バスケット部です」。
当時は、高校から入学した生徒は、ストレートで早稲田大学に進学できるシステムだったそうだ。だから、早稲田大学への進学はもう間違いなし。自由な校風だったこともあって、文字通り青春を謳歌した。
その大学時代は、バイトもしたが、思い切り遊んだ4年間だったそうだ。ただ、4年経っても、これといった目標はなかった。卒業後、JTBに入社するのだが、それも「いちばん早く内定をもらったから」だそう。選択肢は多かったが、心が定まっていなかった。
いちばん早く内定をくれた、そういう理由で入社したJTBだったが、「仕事は予想以上に面白かった」という。法人営業のセクションに配属された五味は、法人向けに海外旅行を企画し、販売する仕事を行っていた。添乗もあったので、海外へもひんぱんに出かけた。JTBという看板もあるから、契約を取るのに四苦八苦することもない。たしかに話を聞いているだけで面白そうだ。
「博報堂さんともいっしょに仕事をしたことがあります。クイズで『正解者には海外旅行を!』そういう企画をいっしょに立てるわけです。もともと入社した時には国家資格を取得して辞めるつもりだったんですが、結局、7年もいたのは、仕事にヤミツキになっていたからだと思います」。
入社7年と言えば、29歳。ある意味、もっとも脂が乗っている時でもある。どうして退職することになったのだろうか。
「もちろん仕事がイヤで辞めたわけじゃありません。当時、上司だった先輩が、起業に誘ってくれたのがきっかけでJTBを退職します。起業にも興味があったし、立ち上げたのは広告会社だったんですが、広告やプロモーションの仕事にも興味があったというのがこちらを選択した理由です」。
この新会社が、画期的な広告・プロモーションの手法を採り入れ、脚光を浴びることになる。「一時は利益が出過ぎてJリーグのサプライヤーにもなるほど、好調だった」と五味も語っている。起業から参加した五味は最終的に取締役にも名を連ねていた。
しかし、好調な時期が、いつまでも続くわけはない。五味は、35歳の時に退職し、今度は自ら会社を起ち上げるのだが、その時には一時の勢いが色褪せていたのも事実である。
「もともと人数は少なく、それでいて多くの利益を上げていたんですが、最終的には、社長1人とアルバイト数人でやっていけるような状態になってしまいました。それで、身を引いたわけではないですが、ぼく自身も、独立したほうが面白いことができるのではないかと思って。それで35歳の時に広告会社を起ち上げたんです」。
「広告」や「プロモーション」は、人を動かすという意味で「飲食」とどこか似ている。人気の飲食店があれば、そこに人がつどい、街がうるおうことも少なくない。「カフェ」は、その好例だろう。ファッションの発信もできるから、尚更だ。
さて、広告会社を起ち上げた五味だが、飲食の戦士にとって大事な飲食事業はどのように立ち上がっていくのだろうか。その点も伺った。
「最初は、妻が犬とはたらきたいと言い出したんです。それじゃぁ、カフェだろって(笑)。もともと妻はプログラマーだったんですが、そこから転身しました。私は、このカフェがオープンした時には、まだ前職の会社にいました。ちょうど退職の1年ほど前だったと思います。このカフェ事業も軌道に乗ってきたこともあって、ぼくも広告会社をつくって独立したわけです」。
いずれの事業も、順調に成長してきた。
奥さまは、現在、飲食などの専門スクールである「バンタン」で講師も務められている。
「ぼくがいなくても、会社は回ると思います」。そういうぐらい奥さまを信用している。「彼女が講師を勤めているおかげで、採用にも有利」とも語る。ただし、事業の舵取りは、五味にかかっている。それだけにカフェ事業の未来を誰よりも強く思い描いているのも事実だ。
「財務とブランドマネジメントがぼくの主なミッションです。現在、9店舗を展開していますが、年内に2桁に乗せ、来年からは4〜5店舗のペースで出店を行っていきます。これは、ぼく自身の挑戦という意味もある」。
「ぼくらは、料理にもこだわっていきたいんです。いまもフレンチの1つ星シェフが料理をつくってくれていますが、このスタイルでどこまでいけるか、そういうのも試してみたいと思っているんです」。
プライベートでは、5年ほど前から「茶」を習っているという。師匠は、母。「茶の教室も開いている母親について習っています」とのこと。茶の世界の奥深さに思考を沈め、リラックスしたひとときを楽しんでいるようだ。
将来の夢は、野山を歩いて茶葉を摘むことと地ビール工場を造ること。
そういう考えも、生き方もかっこいい。いくつもある選択肢は、いまカフェ事業という一つの仕事にたどりついたが、これでカードがなくなったわけではない。「カフェ」をコアコンテンツに、さまざまな事業を行っていく、そんな選択肢もまだまだ残っている。
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