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第382回 株式会社たちばな 代表取締役 小清水 孝氏
update 13/08/06
株式会社たちばな
小清水 孝氏
株式会社たちばな 代表取締役 小清水 孝氏
生年月日 1966年4月3日
プロフィール 横浜市生まれ。小・中は野球、高校・大学はアメフトと運動神経は抜群。実家は、小さな「とんかつ店」。大学時代に経験した「マハラジャ」でのバイトで、飲食・サービス業の面白さを知る。ところが、病に倒れた母の代わりに実家の「とんかつ店」を運営するようになると、何もかもがつまらなくなってしまう。改革の一歩として、盛岡に洋食の「たちばな亭」を出店。この店が、赤レンガの「たちばな亭」など、現在の店舗の原点となる。2010年、スタッフの1人である紺野賢一氏が、人気テレビ番組「ぷっすま」(テレビ朝日)にオムライスのカリスマとして出演。「たちばな亭」の人気アップに貢献する。
主な業態 「横濱たちばな亭」
企業HP http://yokohama-tachibana.net/

横浜「赤レンガ倉庫」の話。

横浜赤レンガ倉庫は、明治の終わりから大正にかけ造られたものだそうだ。1992年、「横浜みなとみらい21」の整備に伴ってウォーターフロントの再開発計画が進み、2002年、赤レンガ倉庫は、さまざまな店舗からなる商業施設に生まれかわった。 「小さな頃から、赤レンガの倉庫が好きで、あのあたりで良く遊んだんですよ」と、店の向こう側を指差すのは、今回ご登場いただく「株式会社たちばな」の代表取締役、小清水孝である。奇しくも、2002年。赤レンガ倉庫が再生オープンするときに、数ある中から選ばれたのが小清水の店だった。

背番号「1」を追いかけた少年時代の話。

小清水が生まれたのは1966年。母は再婚で、姉と兄をともなって父に嫁いだ。そういう経緯もあって、姉とは12歳、兄とは10歳離れている。
母は横浜の「旅館」の女将をしていた。父が、その旅館に泊まったとき、偶然、「女風呂」を覗く悪漢をみつけ、捕えた。それが2人の縁のはじまりだという。結婚してまもなく、父は脱サラし、4坪の「とんかつ屋」を開業する。
母が店を切り盛りし、父は、買い出しやソースづくりに励んだ。小清水が小学校を卒業する頃には「ラスカ」に。高校に進学する頃には「ルミネ」に。20歳の頃には、「新横浜の駅ビル」に店をだし、ブレイクする。
一方、小清水の方は、年の離れた姉貴や兄貴から可愛がられ、育つ。王貞治が好きで、1本足に挑戦するためリトルリーグに入る。高校で「王さんになるのは無理だと気づき(笑)」、野球からアメリカンフットボールに転向。弱小校だったが小清水の代には関東大会にも出場している。
「当時はアメフト一本でした。大学も、アメフト推薦で。もちろん4年間つづけました。でも、アメフトってけっこうお金がかかるんです (笑)」。
かくして、小清水のバイト生活がスタートする。

マハラジャに魅せられた。Staff時代の話。

「学校でしょ。それが終わってアメフトの練習。そこからバイトで、深夜までです。睡眠ですか?いま考えればよくもったと思いますが、電車のなかで寝るしかなかったです」。バイト先は横浜のマハラジャ。「マハラジャ」が一世風靡していたこ頃だ。すぐに仕事にハマった。名前は出せないが、いまをときめくダンス&ボーカルユニットのリーダーも当時、いっしょにはたらき、いっしょに怒られていたなかまの1人である。
「最初は、アメフトが終わってからなんで、深夜までやっているという理由だけで選んだんですが、そのうち、マハラジャの経営や、集客、リピートにつなげる方法などに惹かれていくんです」。
すっかり魅了された小清水は、20歳から3年間、マハラジャでバイトをすることになる。

マハラジャとのギャップ。その違いを理解できるのは小清水1人。

もし、母が病になっていなかったら、小清水の人生は大きくかわっていたかもしれない。24歳、母が病に倒れ、代わりに店の運営を任された。
マハラジャとの「落差」に、殴られた思いがした。すでに5店舗の規模になってはいたが、「ぜんぶに納得できなかった」と小清水はいう。それもそうだろう。客の横で平気でまかないを食べる。むろん、マハラジャでは考えられないことだった。
「でも、改善しようにも、古参のスタッフばかりです。手をつけようにもつけられない」。
業績が悪ければ、思い切ったメスを入れることもできたろう。しかし、時代はバブル。言い方は悪いが、店を開けてさえいれば、良かった時代である。
それでも、小清水は黙っているわけにはいかなかった。業績がいいだけでは満足できなかったからだ。スタッフを含め、店全体が感動できる空間でなければならない。
小清水は盛岡に、「とんかつ」ではなく、洋食「たちばな亭」をオープンする。いままでとはすべて違った。何から何まで、小清水流。好きなオムライスを小清水なりにアレンジして看板メニューにした。いよいよ「たちばな」のなかにあって小清水の時代が始まる、はずだった。

赤レンガ倉庫は、成功の始まりと、躓きの始まり。

子どもの頃に遊んだ赤レンガ倉庫が、キリンビールを中心にした第三セクターにより再生オープンするのは2002年のことである。オープン情報を知った小清水は大胆にも独り、キリン本社に乗り込んだ。
「直談判です。子どもの頃から好きだった赤レンガ倉庫に店を出す、それだけで心が躍りました。でも、いかに直談判しようとも出店させてもらえるとは正直、思っていなかった。相手にしてもらえるとも思ってなかったぐらいです。でも、縁があったんでしょうね。社長自ら会ってくださって、赤レンガ倉庫のテナントリ―シングを担当していた三菱地所の方もわざわざ盛岡まで食べに来てくださって。最後には、大手さんとどちらにするか、となったそうなんですが、結局、うちの店を選択してくださったんです」。
これが成功の始まり。だが、同時に躓きの始まりでもあった。

天狗になっていた頃の話。

「天狗になっていた」「正直、調子に乗っていた」と小清水は舌をかむ。「調子が狂い出したのは2004年ぐらいからです。それまで設計をやってくれていた義兄が他界。ある意味、ブレーキ役だった義兄がいなくなって、だれもブレーキをかけられなくなった。それもあったかも知れません」。
信頼する義兄を亡くす。しかも、この時、新横浜の駅ビルがリニューアルされることになり、主力の2店舗の閉鎖に追い込まれた。2店舗で会社の年商の大部分を担っていたから痛手だった。「5億円ぐらいあったと思います。赤レンガの方も順調でしたが、この2店舗の閉鎖分を補うことはできません。リニューアルには3年かかると言われていました。3年間、乗り切ればという思いがあったんですが、ともかく、スタッフの雇用のこともあって」。
赤レンガ倉庫の成功で、「オレはできる」と天狗になっていた。若き経営者の成功ストーリーを知って、出店オファーも殺到した。雇用のため、みんなのため、と言いつつ、次々に店をだした。それがことごとく失敗する。
彼らの雇用を守るために出店した店が次々、不採算となり、業績が陰り始めると、今度は、スタッフたちが自ら店を出て行った。
「どの店もコンセプトが曖昧だったんです。しかも、ほかでやっていないことをやろうといきがっていましたから、投資もかさみました」。
いままで両親が蓄えてきた資産も、底を付き、借金だけが膨らんでいく。2007年には約束通り、駅ビルがリニューアルしたが、もう出店する体力は残っていなかった。

最後の頼みの綱ももろかった。

「それでもなんとかしようと、金融機関に頭を下げに行くんですが、最初は門前払いです。倒産確率90%という数字でしたから、融資も何もなかったんです。でも、当時の担当者が、うちの店をご存知で、それでようやく融資を受けることができました」。
なんとか受けた融資金で、ふたたび駅ビルに出店。これでまた再浮上が叶うと安堵したが、それまでの3年でガラリと周りの状況はかわっていた。リニューアルしたのだから当然といえば当然。
浦島太郎のように唖然とするしかなかった。最後の頼みの綱が、いまにも切れそうな綱だと知る。「もうだめだ」と思ったことも何度もある。
態勢を立て直すだけでも、奇跡の風が吹かなければ無理と思える状況だった。

風が吹いたその時。

奇跡の風は、インターネットのなかから吹いてきた。ユーチューブで流れたいっぺんの映像である。
「2010年は、横浜港の開港150周年だったんです。それで、来客数がある程度、増えたんです。その時、うちの店を訪れたあるお客様が、紺野といううちのスタッフがオムライスをつくっているのを撮影され、ユーチューブで流されたんです」。
「紺野は、結婚しマンションを買った直後に、勤め先の店舗が閉店し失職するなど、けっこう苦労人なんですが、寡黙でオムライスをつくりつづけてきた奴です。それがユーチューブにアップされ、なんとオムライスのカリスマとして「ぷっすま」(テレビ朝日)に出演し、注目されるようになるんです。紺野が注目されることで、うちの店も、爆発的に売上を拡大していきます。すべては彼のおかげと言ってもいいぐらいです」。
ネットのなかで吹き始めた風は、TVというマスメディアを動かし、「たちばな」の業績そのものを動かすまでになる。
ちなみに紺野氏のオムライス製造食数は、2013年7月現在で、22万食を越えている。ためしに映像を観てみたが、うっかり仕事を忘れ見惚れてしまった。

まだ社長にはなれない。小清水の後悔と決意と。

「たちばな亭」が人気になり、業績が上がったとしても、まだまだ負債を解消するまでには至っていない。小清水本人もまだ納得がいっていない様子。だから、まだ「代表取締役」という肩書を背負うのは早いと思っている。
しかし、いまの話を伺っているともうすぐ、という気がしないでもない。
「年に1回だけですが、社員の家族やアルバイトを含め、みんなでディズニーランドに行くんです。これが、いまのうちの会社ができる、小さな贅沢なんです」と小清水。
母から店の運営を託された時には、なかなか思い通りのことができなかった。古参のスタッフたちを慮ってのことでもあった。
しかし、いま小清水の周りにいるのは、紺野氏をはじめ、小清水を慕うものばかりである。それは、次の成功を保証するものではないかもしれないが、確率は間違いなく高まっている。そういう意味では、小清水を中心とした「たちばな」の第二ゴングはまだ鳴らされたばかりである。7月には新横浜、9月には渋谷に新規出店が決まっているなど、業績も好調だ。
関係ないかも知れないが、HPに紺野氏の好きな場所が載っていた。「ディズニーランド」だそうである。たぶん、「社長やみんなで行く」というフレーズが、その目的地の前につく気がするのだが、どうなのだろう。

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