株式会社IKD 代表取締役 笹間 章氏 | |
生年月日 | 1951年10月16日 |
プロフィール | 東京都港区六本木生まれ。祖父も、父も、タイプライターの輸入販売を手がけた実業家。祖父は成功して財を成すが、父は時代の波に飲まれ、事業を撤退。成功と失敗を学んだ笹間は、慎重と大胆さを併せ持つ経営者。「人が求めているもの」をつねに模索し、事業を継続。21歳で起業し、すでに40年以上。日本の飲食の歴史を語る資格を持つ、数少ない経営者でもある。2013年7月現在、イタリアベースのオリジナル料理とワインの店、「キャンティ」を直営店を15店舗、フランチャイズを24店舗出店し、コンサルティング店舗も9店舗まで拡大している。 |
主な業態 | 「iL-CHIANTI」「SOMETHING」「CAPTAIN’S COOK」「bar LEM」他 |
企業HP | http://www.chianti.co.jp/ |
1951年10月16日、笹間は、港区の六本木に生まれる。2人兄弟の長男。母方の祖父は九州から東京にでてタイプライターの輸入、販売で財を成した敏腕経営者。父もまた祖父同様、タイプライターの輸入・販売で独立したが、ワープロの普及とともに経営が悪化する。
記憶では笹間が小学2、3年生になったあたりから、きびしい経営状況が子どもたちにもわかるようになったとのことである。
それ以前、つまり笹間がまだ幼い頃は、会社もまだ好調で「六本木の高級レストラン」や「有名なホテルのレストラン」にしばしば通っていたそうだ。
一方、「小学生の頃はコマ劇前の広場が遊び場だった」と笹間がいうように、いまと違って当時は新宿もまた子どもたちの喧騒が聞こえる街だったようだ。
「父の事業が傾き始めたのは、私が小学2、3年生の頃。かなりの借金を抱え、家族4人で夜逃げ同然で町を離れたこともあります。親たちは暗澹たる気持ちだったんでしょうが、私たち兄弟はまだ子どもだったんで『貧乏だろうとそれはそれで別に構わない』という心境でした」。
家族4人の生活は、そう長くつづかなかった。笹間が中学生になったとき、両親が離婚したからだ。兄弟2人は、父の下に引き取られた。
多感なときの両親の離婚だったが、笹間はけっして非行には走らなかった。母を恨むこともない。「もう少し大きくなってからは、母とも、母の再婚相手とも自然と付き合っていました。いま振り返れば、人を色眼鏡でみることなく、また偏見を持つこともなく、どのような人ともフランクに付き合えるような性格になったのは、あの頃の経験があったからだと思います」と笹間は語っている。
「偏見を持たない」。これは経営をするうえでも大事な視点である。ちなみに辞書によれば「偏見」とは、<かたよった見方・考え方。非好意的な先入観や判断>のことを言うらしい。
「ホテル業」に興味を持ったのはいつ頃からだろうか。高校時代には「大学生だ」と嘘をついて、いろんなホテルでバイトをさせてもらった。高校卒業後は「ホテル部門」がある観光専門学校に進学。卒業後は「はとバス」直営のキャピタルホテルに就職した。
ところで、笹間が就職した1970年は、大阪府吹田市で万国博覧会が開催された年である。翌年には「マクドナルド」や「ケンタッキー」の1号店がオープンする。またチェーンストア理論をひっさげ、多くの「ファミリーレストラン」が誕生するのも、この頃である。
食文化という一点でみれば、日本の大衆のなかで洋風化が進み始めたのが、1970年代であり、その突端の年に、笹間は社会に出たことになる。
ホテル業に興味を持ち、ペンションで起業しようとも考えていた笹間であったが、あることがきっかけで、「飲食」で独立しようと心を定めることになる。これが21歳のとき。社会に出てわずか1年で「キャピタルホテル」を退職し、「飲食の戦士」の一歩を踏み出すことになった。
ホームページに創業当時のことが社長の言葉で記載されていたので引用する。
<『1972年』、キャンティは渋谷区笹塚の水道通り沿いにある本店から生まれました。当時はまだイタリア料理店やワインも今ほどポピュラーではない時代。そこで、多くの人にワインを飲みながらゆっくり食事を楽しんでいただけるようにとキャンティを始めました。素朴ながらも一品一品に程よいインパクトのあるオリジナルなイタリア料理を目指し、その一皿には今でも続いている『真夜中のスパゲッティ』があります>。
今回のインタビューで、もう少し詳細も伺えたので追記する。
「『キャピタルホテル』を退職して、3人でイタリア料理店『キャンティ』を開業しました。私は21歳で、後の2人は20代後半です。ある方がスポンサーになって3人で店をスタートするのですが、3人とも素人です。思ったように客足ものびず、一緒に創業した2人はすぐに離れていってしまうんです。残されたのは、私1人。私まで逃げだすわけにはいきません。それからです。私の試行錯誤が始まりました」。
「料理についても、ひらめいては試す、と言った繰り返しでした。そのなかから生まれたのが独自のレシピで作ったオリジナルドレッシングです」。
「これは、男性がサラダをなかなかお食べにならないことに着目して開発したドレッシングなんです。男性が食べれば『サラダはつまみ感覚になる』と考えたのです」。
「つまみ感覚」というのが、おもしろい。サラダがまだ一般的ではなかった頃の話である。笹間が開発したのは、日本人の、そう日本人のおじさんに合うドレッシング。「和」の食材でイタリアンの味をめざした。「41年前にすでに多国籍料理をやっていたということですよ」といって笹間は笑う。しかし、この視点が不振を極めた「キャンティ」を救い、日本にイタリア料理が広がるきっかけをつくることにもなる。
以上のことからわかるのは、笹間が「和」と「洋」、この2つの食文化を早くからブレンドしようと試みた先見性だ。同時に、庶民にはまだまだ憧れだった「洋の文化」の一つである「イタリア料理」を飾った料理ではなく「庶民的な料理」として展開しようと試みた行動力である。
タイプライターに目をつけ、先見性を示した祖父と商材は違うが、同質のセンスを感じる。しかも、笹間の「商品」は、自ら作り出す料理である。
「どこにでもあるような庶民的で、オリジナルなイタリアン」をコンセプトにしたメニューの開発に取り組む日々が始まったのは、いうまでもない。
それからすでに41年が経つ。1993年には、株式会社IKDを設立。20年間、単店のみで「システムの確立とスタッフの教育」に注力したが、この年に法人化したことからもわかるように、その頃から多店舗化をめざし出店を加速。現在では直営15店舗、フランチャイズ24店舗、コンサルティング9店舗という陣容だ。
ただし、いま「チェーン展開」と書いたが、どうも一般的なチェーン化とは雰囲気が違う。たとえば、多店舗化による仕入れコストの軽減、店舗の統一化による設計・デザイン費の低減を狙っているようには思えないからだ。
「私は、店を部屋のように考えています。普段着のままお招きする部屋は特段、ゴージャスでなくてもいい。いつも通り落ち着ける、それがいいんです。だから部屋によってはカラーが違ってもいい。でも、メニューだけは絶対におなじものでなければならないと思っています」。
もう一度、ホームページに目を向けてみた。笹間は「新しい店舗を作る時には『ここに座ったお客様はどう感じながら食事をされるのだろう』とイメージしながら構想を練っていきます。
その結果、どんなに小さな店でも異なる趣を持ったスペースを設け、一つではなく幾つかの表情を持たせることで、お客様のTPOや気分に合わせた空間を作ってきました」と、語っている。チェーン化が見落としがちな顧客目線を持っている。それが、一般のチェーン店と一線を画すと思う理由かもしれない。
笹間は「新しいことを常に考える」という。「お客さんが何を食べたいのか」を模索していることの裏返しである。たとえば我が家に招き入れたゲストたちが、新たな料理に出会ったときの驚きや喜び、そういうものを追及しているような気がしてならない。
「たとえばね。テラミスってあるでしょ。うちの店では、日本で流行る半年前からすでにメニューにあったんですよ」と笹間は誇らしげにいう。
「全体のメニューは、創業からそう変えていませんが、時代によって人気のメニューをいち早く採り入れていく、それもまた飲食のたのしみだと思っているんです」。
創業当初の苦しみがあったものの、いったん波に乗ってからは順風満帆。驚くことにバブル崩壊の際も、リーマンショックの際も業績は落ちることなく、逆にバブル後にはFC希望者が扉を叩き業績がアップしたという。
「キャンティ」の人気というのもあるが、20年(当時)に亘り、繁盛店を支えてきた笹間のノウハウを手にしたいと思った人が多かった証だろう。
しかし、もっとも大事なことは、パッケージやシステムではなく、「どうすればお客様に喜んでもらえるかを模索する心」だろう。その心も移植してきたからこそ、FC各店も順調に売り上げを拡大してきたに違いない。
ところで、いまもなお笹間は暇をみつけてはイタリアに旅行する。目は、知り尽くしたイタリア料理の、知り尽くしているからわかる「あたらしさ」を見抜き、日本にもって帰る。それもまた「和」と「洋」ブレンド。庶民派イタリア料理の先駆者は、いまもなお第一線を突っ走っている。
この企業にご興味のある方、コンタクトを取りたい方、また代表にメッセージを送りたいといった方は、下記フォームよりご登録下さい。当社が連絡を取り、返信させていただきます。
例)テレビ番組用に取材したい、自社の商品をPRしたい、この企業で働いてみたい、中学時代の同級生だった など