株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏 | |
生年月日 | 1967年12月29日 |
プロフィール | 東京荻窪で生まれる。3人兄弟の長男。中学から大学まで立教。大学卒業後、「平成フードサービス」に入社。2年で退職し、農業を経験。「ちよだ鮨」に入社後は、「職人体質」の見直しや「オペレーション」の改善に取り組み、業界の常識を打ち破る。新卒採用にも熱心に取り組み、次世代の若きメンバー育成に注力している。2012年4月、現職の社長に就任する。 |
主な業態 | 「ちよだ鮨」「さうざん」「なか与」他 |
企業HP | http://www.chiyoda-sushi.co.jp/ |
中島が生まれたのは1967年もあと3日残す、12月の29日。東京の荻窪で生まれたが、父の仕事の関係で幼稚園に入学するまでは神奈川の上大岡で暮らし、その後、大田区の石川台に移り住む。兄弟は3人、2歳下の妹と5歳下の弟がいる。母は専業主婦でおおらか。父は、年中忙しく「母子家庭のようだった」と幼少の頃を振り返る。
「ちよだ鮨」の源流は、曾祖父の代から始まっている。もともと富山県の堀岡村(現・射水市)で水産加工業をされていたそうだ。ところが祖父が12歳の時、曾祖父が亡くなり、それ以来、祖父は家業を手伝いながら北方に向かう漁船にも乗っておられたそうだ。
「祖父は23歳の時に上京し、25歳で独立します。商売がうまかったのでしょう。魚を仕入れ、それを陸軍や病院、企業の社員食堂などに卸していたそうです。ところが、戦争の影響で魚関係の仕事ができなくなったことがあって、戦後の一時期、石鹸の製造・販売を行うようになります。石鹸などが不足していた時代ですから飛ぶように売れたと聞いています。しかし、大手のメーカーが息を吹き返したことで、もう一度、魚の卸事業に回帰したのです」。
「中島水産」が設立されたのは昭和29年だから戦後9年。その翌年に企業内の食堂(給食)を委託・運営する事業部として「食堂部」が生まれる。これが現在の「ちよだ鮨」の原点である。
中島の父がなかなか家にも帰れず母子家庭のようだったのは、当時「中島水産」の第一線で活躍されてきた証でもある。
結局、中島の父は専務取締役となり、父の兄である長男が「中島水産」を継ぎ、父は平成元年に「ちよだ鮨」の社長に就任する。
平成元年といえば、1989年。中島が22歳になる年である。
ホットケーキが好きだったのだろうか。小学校に入るまで、「日曜日になればホットケーキをつくっていた」と中島は笑う。「幼少期は大人しく静かだった」というのが自己分析。芸術系の家庭で育った母の影響もある。ものをつくったり、絵を描いたりすることが好きだったそうだ。
「ピアノ」「習字」「水泳」と教育熱心な両親の下、自由に育ちながらも熱心に「学び」もした。反面、スポーツは好きではなかったそう。そんな、どちらかといえば大人しい少年だった中島だが、小学校も高学年に差し掛かる頃には活発になり、周りを笑わせるような少年になっていく。
中学を受験するため塾に通い始めたのは小学4年生から。青山と立教を受験し、立教に進んでいる。スポーツは得意ではなかったが、中学ではバスケットボール部に所属し、厳しい練習に耐えぬいている。
「たまたま私たちの先輩が全国2位の成績を収めたもんですから練習も厳しく、OBもひんぱんに練習に来てくれていました。おかげで夏休みも返上で、練習漬けです。それでも私たちの代は全国には進めませんでした」。もっとも中島はレギュラーではなく、時々、試合にでるような選手だったそうだ。
中学では部活動に明け暮れたが、高校生になるとバイトに精を出すようになる。
「ダスキンやリクルート、引っ越しなどいま振り返ればいろいろなバイトをしたもんです。年末には『中島水産』の売り場に立ち、大声を出していました(笑)」。
もっとも高校時代もクラブには入った。「バスケットボールではなく、乗馬クラブに入りました。でも、1年で辞めてしまったんです。それからハマったのが山登りです」。
いまでも山登りが趣味という中島。大学時代には観光学部に進み、山登りのサークルに入った。
さまざまな山に登った。いまでは「山ガール」というぐらい女性にも人気だが、当時は、ひげ面の男の世界。その世界に魅せられたのだろう。
いまでも疲れた時やリセットしたい時に、山に登るそうだ。「仕事が終わって山に直行し、山から下りてまた仕事を開始する」という。疲れたから、山に登る。山好き以外には、考えられない理論である。
かつて祖父が海にでたように、中島は山に登った。仕事と趣味の違いはあれ、自然というものに興味を抱く点は似ていなくもない。
祖父は波の向こうにあるものに魅せられ、孫は山のいただきに魅せられて黙々とあゆみつづけた。
「私が就職する頃はまだバブルで、いまの人には申し訳ない言い方になりますが、まず希望する会社に入社することができました。私は観光学部だったので、周りの学生たちは観光や旅行関係の大手企業に次々就職が決まっていきました。私は『大手だから』というのがピンとこず、逆に埋もれるのがイヤで小さい企業ではたらいてみたいと思っていました。飲食にも興味があってので、『聘珍樓』という中国料理店がつくった『平成フードサービス』という会社に就職します。まだまだベンチャー企業という規模の時代です」。
「聘珍樓」とはいうまでもなく中華料理の名店である。一方、「平成フードサービス」は、この聘珍樓のグループ企業として誕生し、2002年、甘太郎などを経営する「コロワイド」にM&Aされている。
それはともかく、すでにこの時、中島の父は「ちよだ鮨」の社長に就任している。にもかかわらず息子の選択に口をはさむことはなかったそうだ。
「平成フードサービスでは、キッチンを担当した」と中島。立ち上げにも参加したし、入社1年後にはキッチンのチーフとして、国分寺店を任された。
「この国分寺店は、オペレーションがぜんぜんできていなくって、オーダーをいただいてから1時間もお待たせしてしまうような店だったんです。それを『なんとかして来い』ということで送り込まれました。しかし、チーフがかわってもとたんに動きがスムーズになるわけじゃない。私も、最初の1回きりですが、提供するまでに1時間かかってしまいました。それから、なんとか業務を改善し、スピーディにお料理を提供できるようにしていくんです。もちろん、たいへんでしたが、いい意味で得難い経験になったのは事実です」。
入社当初からそれほど長い時間いるつもりではなかった。ある先輩が退職し、農業関係の会社へ転職したと聞いて、いてもたってもいられなくなった。
「それで、私も農業関係の仕事に就きたくて、会社を辞め、紹介でレタスをつくっている会社ではたらかせてもらうんです」。
レタスはいうまでもなく高原野菜である。寒暖差を利用して、レタスをつくり、大手企業に納入している会社に運よく転職することができた。周りは山に囲まれたレタス畑である。山登りの好きな中島は、雄大な自然のなかで野菜づくりに精を出す。
千葉県で、レタス畑をつくることが計画された時は責任者として赴任した。空港からでる糞尿をもらいうけ、肥料にした。「バキュームカーにも乗った」と当時の様子を語っている。しかし、「ちよだ鮨」に入社する日も近づいてきた。
さまざまな経験を積んだのち、中島は、DNAがそう命じるかのように祖父の代からつづく「鮮魚ビジネス」に転じた。むろん、「ちよだ鮨」である。
鮨は、ネタの「鮮度」がいのちである。同時にそれは、「漁師の仕事、思い」を知ることであるとも思う。農業に従事したことで、中島の視野は、その方向へも広がっていったのではないか。
ともかく、中島の「ちよだ鮨」がスタートした。
「社長の息子ということで、優遇されることはありません。イチからのスタートです。当時、規模でいえば80〜90店舗にもなっていました。ただ、それだけの規模になってはいましたが、管理はまだまだといった現状でした。厨房で酒を飲むような職人がいたことも事実です。これはプライドの裏返しであったかもしれませんが、それではいけない。経営者の目線でとらえれば、発展途上のさまざまな問題が見えてきました」。
バブル経済の前後、むろん飲食店だけではないが、その前後で大きく経営の舵を切る必要に迫られた企業は少なくない。「ちよだ鮨」も、けっしてそれ以外の企業ではなかった。売上の低下は、人心離れを起こし、業績悪化に歯止めが効かない。そんな時もあったことだろう。だから、中島は、「人の大切さ」を痛感している。
「店の勢いに任せ人材教育をしてこなかったことが問題だった」と語っている。だから、教育にはことのほか熱心だ。
むろん人づくりばかりに専念してきたわけではない。いままで職人の勘によって行ってきた管理の大部分をシステム化した。
「鮨は生鮮食品です。『ちよだ鮨』は持ち帰り鮨ですから、あらかじめ予測を立て商品を作っておかなければなりません。しかし予測を一つ間違えば大量のロスが生まれてしまいます。そこで生まれたのが当社独自の『計画製造システム』です」。
「これは現会長が導入したものですが、生産量、在庫、消費の状況を細かく分析し、適時適切に商品を管理していきます。それによって店舗が閉店間際になっても商品がしっかり残っているような状態にして、お客様にご迷惑をかけないようにしました」。
同時にそれは最後の最後まで客を逃がさないことにもつながる。
話は先に進むが、現在「ちよだ鮨」は「すしの大衆化」を実現するため、本格江戸前すしのチェーンストアを目指している。店舗数は、首都圏を中心に200店舗以上。「持ち帰り鮨」はもちろんだが、多様なニーズに合わせ、「回転すし店」、「本格すし店」、「立食いすし店」なども経営している。この経営を支えているのはいうまでもなく、「計画製造システム」を中心となしたしくみである。「鮮度」と戦うために構築した、流通から店舗での提供までの完璧なシステム。これは同時に「旨さ」を守り続けていることも意味する。
そしてこの「旨さ」を守るのはいうまでもなく人材である。だからこそ、その教育に年間1億円を投じているという。一方、すしビジネスのスペシャリストを育成する教育機関「日本すし学院」を運営している。
これも、「ちよだ鮨」の考えを象徴しているといえるだろう。
さて、そんななかで中島は、2012年4月に社長に就任する。まだ就任1年と少し。だが、その話ぶりには経営者の凛とした自覚が伺える。「鮨業界は、いまたいへんきびしい状況です。しかし、そういう時代だから強い会社、『最強の会社』をつくっていきたいと思っています。人の育成を通じ、事業としてはまず関東圏の基盤を強固にし、海外へも進出していきたいと思っています」。
たしかに、鮨業界は回転寿司の大手3社をはじめ、数多くの優良な企業がひしめいている。海外へも広く知れ渡っている日本を代表する料理の一つである。
そんな大きなマーケットに「ちよだ鮨」なりの、一滴の可能性を投じる。それが中島の役割かもしれない。
旨い鮨は、日本人にとって誇りだし、何より、日本人は旨い鮨が大好きだ。「旨さ」と「企業経営」という2つの軸を両立させることで、「鮨」は、まだまだ日本食の主役でいられるはずである。
平成2年8月 (株)平成フードサービス・濱町座間店キッチンスタッフと |
平成5年2月 南アルプス・北岳をバックに |
平成5年8月 イズミ農園退社後、フィリピンの元研修生の自宅を訪問した際に家族と |
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