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第390回 六花界グループ 代表取締役 森田隼人氏
update 13/09/03
六花界グループ
森田隼人氏
六花界グループ 代表取締役 森田隼人氏
生年月日 1978年7月15日
プロフィール 大阪府に生まれる。近畿大学を卒業後、建築関連の会社に就職し25歳で独立。デザイン事務所「m-crome」設立する。飲食のスタートは2009年7月。神田のガード下に<激セマ立ち飲み焼き肉店「六花界」>をオープン。TV・雑誌などメディアにも多数取り上げられるほどの人気店に。その後、「初花一家(はつはな)」「吟花(ぎんか)」をオープン。日本酒をこよなく愛し、日本酒の普及活動も行っている。多彩な才能を持ち、プロボクサー、トレーナー、モデルとしても活躍。建築デザイナーとしても活躍している。
主な業態 「六花界」「初花一家」「吟花」

スパルタ親父。

一級建築士の父親は、剣道にも精通し、スパルタを絵に描いたような人だった。森田が高校生になっても、晩ご飯は7時きっかりに家族全員が食卓に揃わなければ始まらなかった。
森田家は、父母、妹と森田の4人家族。父は、家族のうえに君臨する「我が家のボス」だった。「それでも、妹はタメ語話をしていましたが、私はいまでも父には敬語を使っています(笑)。上下関係のきびしい格闘技をやってきたこともその理由だと思いますが、正直いうと、とにかく怖くて、タメ語を使うなんて想像もできないんです」。
この父の影響もあって、子どもの頃から少林寺をはじめ、水泳、空手などにもチャレンジした。ボーイスカウトでは、リーダーも務めている。
近畿大学の付属高校に進学した森田は、1年からボクシングを始めた。「反抗期だったんだと思います。本気でボクシングを極めてやろうと。どこかで父に勝ちたいと思っていたんでしょうね。負けず嫌いなところはそっくりでしたから(笑)」。
とにかくボクシングである。学校のクラブもやったが、ジムにも通った。そのジムでのこと。最初の相手は日本ランキング3位の選手だった。リングに上がるなり、いきなりボディをくらった。息ができなくなって、立てなくなる。リング下から、「こんなことで立てなくてどうする」と怒号がとんでくる。必死に立ち上がった森田にふたたび強烈なストレートが襲う。当時から背は高く182センチ、60キロ。スーパーフェザー級だった。

6歳の誕生日の贈物。

「あれは私が6歳の誕生日です。父は6歳の息子に向かって、『財産も、地位も、会社も何にも渡さん。せやけど、おまえが20歳になった時、独りで生きていけるような知識と経験と教養はつけさせてやる』っていうんです。いま考えれば、父が子育ての覚悟を語ったという気もしますが、当時はさすがに何のことかさっぱりわからない。でも、わからないと言ったら、何をされるかわからないんで、うんうん、と頷いていました」。
この時の父の言葉はまやかしでも、なんでもなかった。父は息子にきびしく接したが、その結果、息子は25歳で独立。社会のなかで、立派な生き様を示すようになる。
高校の時の話がおもしろい。こういう教育方法もあるのか、と思わず感嘆してしまった。
「信じられないと思いますが、私はお小遣いをもらったことがないんです(笑)。でも、高校になるとラジカセとか欲しくなるじゃないですか。でも、そんなこと父に言えません。それである時、覚悟を決め、学校でパチンコが流行っているって話をしたんです。その話で、みんなはお小遣いをもらっていると、婉曲に伝えたかったんです。でも、父はストレートに受け取ったんでしょうね。『そうか、パチンコが流行っているんか』といって、そそくさと出かける用意をして、『じゃぁ、ついてこい』って」。
「そうです。パチンコ店に連れていかれたんです。それで渡されたのが1万円。私の人生で初めてのお小遣いです。いままで小遣いをもらったことないので、まずそれに驚き、その1万円が5分も経たないうちになくなってしまったことに、また驚きました。どこかでみていたんでしょうね。タイミング良く父がやってきて…」。
「すいませんでした。いただいた1万円なくなってしまいました」と律儀に頭を下げる息子に向かって、「ええか、これがギャンブルや」と一言。森田がギャンブルをしたのは、後にも先にも、この時だけ。これも、父の豪快な教えの一つなのである。

目の前に積まれた、400万円。

高校を卒業した森田は、近畿大学の理工学部に進んだ。その時、「おめでとう」と言って父が差しだしたのは400万円という大金だった。
手を出すのをためらう森田に向かって、「これで、4年間遊んでこい」と父はいった。
「代わりに、せこいアルバイトはするなというんです。私は初めて見る400万円の厚みを確かめながら、頷いていました、ところが、簡単に使ってしまうわけにもいかないんで、入学してからしばらく経った時に、父に『バイトをさせてください』って直訴するんです。なんとか許しが出たんですが、条件が一つあって『時給1000円以下では働くな』と釘を刺されてしまうんです(笑)」。
時給1000円以上のバイトはそれほどなかった。だから、家庭教師。教師のガラかどうかわからなかったが、教える才能もあったのだろう。1300円でスタートした時給は、すぐに5000円までに跳ね上がった。森田は何気ないように言うのだが、森田なりの方法を編み出したに違いない。森田に教えられた子どもたちはぐんぐん成績を上げていった。
ボクシングと家庭教師と遊びと。4年間はあっという間に過ぎていった。むろん、勉強もした。「父に負けたくない」と思って育った少年は、父とおなじ舞台で勝負しようと思っていたからだ。
「就職したのは、大阪にある建築事務所でした。区画整備などを手がける会社です。国家資格を取得するためには少なくとも1年の実務経験が必要でしたので、この会社で実務を経験し、資格取得をめざしました」。
この時、取得した資格は4つ。「土地区画整理士」「一級土木施工管理技師」「測量士」と「1級建築士」である。余談だが、それに加え「JBCプロボクシングライセンス」という資格も森田は持っている。
就職して3年後、森田は25歳で独立。デザイン事務所「m-crome」を設立した。父から、贈られた「独りで生きていける強い精神力、知識・教養」が、「起業」の二文字に凝縮された。
「店舗設計が主体の会社です」。初の起業。もちろん、いい時もあれば、悪い時もある。27歳では「リサイクル事業」も立ち上げている。「モデル」もやった。森田が25歳といえば、2003年のこと。やがて、時代はリーマンショックという激震に見舞われる。

もう1人の父。

森田はけっして野心家ではない。少なくとも話を聞いている限りそういう風に思う。そんな森田が、大阪から東京へ進出するのは、新たなニーズをつかむと同時に、父を超えるためだったに違いない。しかし、需要が旺盛な東京に進出したからといって、そううまくいくわけはない。ネットワークもなかったからだ。
そこで、森田は、飲食店を立ち上げ、その店を起点にネットワークを拡大しようと考える。
その考えに至るまでには、多少の紆余曲折があった。なかなかうまくいかず東京進出のために用意した資金が底をつきそうになったこともある。苦しい胸のうちは、表情にも表れていたのだろう。
「ある日、東京に来て通っていたジムに行くと、ジムの会長が、『どうしたんだ』と声をかけ、何も言わず、ご飯を食べに連れていってくれたんです」。 
「うちのジムは世界チャンピオンも出ているジムです。そんなジムの会長が直々、ご飯に誘ってくださって」。それだけでも、勇気づけられた、元気もでた。ただ、それだけではなかった。
「店に入るなり、餃子にチャーハン、肉に、野菜に、最後にはメニューを端からもってきてくれ、っていうんです。目の前にはすぐに料理の山ができました。ありがたくって、黙々と食べていたんですが、会長はほとんど手をつけないので、さすがに1人で全部は食べきれません。会長もう食えません」と森田が弱音を吐くと「バカヤロー、だからてめぇはボクシングが弱いんだ。食わねぇと、元気もでねぇ」。さぁ、食え、やれ、食え、と。
「いくら会長に言われたって、人間、限界ってものがあるわけです(笑)。それで会長に『もうホントに食えません』というと、『そうかって』、今度は笑って、ウェイトレスを呼ぶんです。『ねぇちゃん申し訳ないが、食えねぇって言うもんだから包んでやってくれ』って」。 
「残りものは、まだ山のようにありました。すべて、私の明日の飯替わりです。それに気づいた時、私は、この人にどんな風に感謝すればいいか、と思ったものです。しかし、この日だけではありませんでした。なんと、会長は1ヵ月も私を誘いつづけてくださったんです」。
経済的な支えだけではなかった。それ以上に心の支えになった。もう1人の父であり、もう1人の恩人の話である。「オレに恩を感じるな。お前を慕う奴が、おなじようになった時に、そいつの面倒をみてやればそれでいい」。会長の言葉はいまも森田のなかで生きつづけている。

神田のガード下で味わう至極の喜び。

10人も入れば一杯になる。それでも、立ち飲みだから客は後から後から少ないスペースを探して入ってくる。店内は、これでもか、というぐらいにぎやかな喧噪に包まれている。客同士はもちろん、スタッフと客の距離もあってないようなもの。客同士、いやでも友人になる。常連客は、新参者の客に、あれこれ店のルールをレクチャーする。それもまた、心地よい。
「爆笑、3回取るまで帰らすな」と、森田はスタッフにハッパをかける。一度、来た客が次から次に常連になるのはこのためだ。この店、つまり森田が東京で初めて出した店、「六花界」はいまや押しも、押されぬ超人気店だ。
「六花界がオープンしたのは2009年の7月です。お金もなかったもんですから、神田のガード下にある2坪ぐらいの店でスタートしたんです。失敗しようと思ってはいませんが、飲食で当てるというのではなく、ネットワークを広げるのが狙いでした。焼肉にしたのは、やっぱり『肉はご馳走』だからです。駅チカにこだわりました。駅から近い、それが最初のサービスだと考えたからです」。
出店した当の本人も、ここまで人気店になるとは思っていなかったのではないか。しかし、TVや雑誌にも取り上げられ、次から次に客が押し寄せてくる。
独自の肉の仕入れルートも確立したこともあって、「安さ」と「旨さ」がバランスよい。そこに立ち飲みならではの「人情」や「笑い」というスパイスが効かされる。
繁盛店にならないほうが、おかしい。
その後、「初花一家(はつはな)」、「吟花(ぎんか)」をオープン。現在、計3店舗というのが陣容だ。
「当初は、3店舗で、と思っていたんですが、いまは6店舗まではいきたいと思っています。それにはわけがあって、日本酒をもっと広めていきたいからなんです。広めていくには、私たちがもっと強い影響力をもたないといけないと考えているからです」。
日本酒、それがいまの森田の一つのキーワードになっている。日本酒をひっさげ海外へも進出する志を持っている。「売りのプロ」と「酒のプロ」のコラボイベントも予定している、とのことだ。
話はかわるが最近になって、ようやく父も息子を認めるようになったと森田は嬉しげに話す。勝った負けたでは、もうない。
6歳の時に父に贈られた一言。そして、それからの父の教育。いま改めてふりかえれば、それは「自ら考え、自ら歩くこと」を教え、そのための「力」を育むことだったのではないか。
そうだとすれば、それはすなわち自らを超えることを促していたのかもしれない。そういう意味で森田はしっかり、父を超えた存在になっている。これは、父の勝利でもある。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
7歳、妹と 17歳、高校生の頃 19歳、インドにて
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
19歳、インドにて2 22歳、バンド活動 25歳、独立した頃
思い出のアルバム7 思い出のアルバム8 思い出のアルバム9
28歳、モデル時代 31歳、モデル時代 32歳、プロボクサー時代
 

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