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第391回 ワタベフードサービス有限会社 代表取締役社長 渡部 浩氏
update 13/09/10
ワタベフードサービス有限会社
渡部 浩氏
ワタベフードサービス有限会社 代表取締役社長 渡部 浩氏
生年月日 1970年12月4日
プロフィール 埼玉県上福岡市(現、ふじみ野市)生まれ。大東文化大学卒。メルシャン(株)に入社。9年間勤務し、退職。ワタミ(株)の創業者「渡邉美樹氏」の半生を描いた「青年社長」を読み、感銘を受け、独立を決意。ワタミ(株)で8ヵ月、勤務したのち渡邉氏と同様、運送会社で資金を貯め、2004年に「ワタベフードサービス有限会社」を設立。「カフェ」のフランチャイズにて店舗展開を進め、2006年には居酒屋業態に進出。現在、自社ブランドの開発、運営を目指している。
主な業態 「ひもの屋」
企業HP http://www.watabefs.co.jp/

「青年社長」との出会い。

人気作家、高杉良氏が綿密なインタビューをもとに、ワタミ(株)の創業者「渡邉 美樹」氏の半生を綴ったのが「青年社長」である。この本に感銘を受けた読者は多く、「飲食の戦士たち」のなかでも「『青年社長』を読んで起業を決意した」という人が少なくない。
今回、ご登場いただく「ワタベフードサービス」代表取締役社長、渡部浩も、その一人である。
「青年社長を読んで、『ピピッ』ときた(笑)」と渡部。「渡邉美樹氏」の生き様に刺激され、飲食での独立を決意するようになる。飲食の経験もなかったから「ワタミ」で8ヵ月修業。そののち渡邉氏、同様、運送会社で独立資金を確保する。会社設立は2004年、同年、「フレッシュネスバーガー」のFC店を300万円で開業する。これが、渡部の「はじめの一歩」である。

サラリーマンになろう。

渡部が生まれたのは、埼玉県上福岡市(現在は合併し、ふじみ野市となっている)。1970年のことである。父母と、三歳離れた兄との四人家族。父は、「銀座和光」に勤めるサラリーマンだった。
仕事もできたが、家庭も大事にする「典型的なサラリーマンだった」と渡部。夕方7時には帰宅し、家族全員で食卓を囲んだそうだ。
「父は10人、母は11人も兄弟がいたんです。父は秋田で、母は宮城。どちらもマジメです。私は、小さな頃から父の、そういうマジメさや、まっすぐさをみてきたから『サラリーマン』に憧れていたんです。いい大学に入って、いい会社に入って。『いつかぼくも父のようなサラリーマンになろう』と真剣に考えていたんです」。

中学受験失敗、バレーボールの3年間。

いい会社に入るための第一歩だからと、気合いを入れ過ぎた。「中学受験」の話である。
「はりきってレベルの高い中学を選択してしまったんです。失敗して、地元の公立に進みました。こちらでバレーボールにのめり込むんです。部活だけの学校生活でした。県大会にも進みました。中学時代は、バレーボール以外の記憶がほとんどない。それほど打ち込んでいました。ところが高校では、軽音楽に走ります(笑)。好きだったバレーボールですが、中学校といっしょに卒業しました」。

大東文化大。

大東文化大の付属高校に進学した。男子校で、大学受験もないエレベーター校だ。友達とバンドを組んだ。渡部のパートはリードギター。「ヘヴィメタルのコピーとかを演奏していました(笑)」。「ヘヴィメタル」とマジメな「渡部」。なんだか不似合いな気がしないではない。高校の3年間と大学の4年間を大東文化大のキャンパスで過ごした。卒業後は、「メルシャン株式会社」に就職する。

転機。

小さな頃から憧れていたサラリーマン。晴れて、そうなった。しかも「メルシャン」といえば大企業である。
入社後、関西の拠点に配属された。志は高かったが、社内にいるライバルのサラリーマン1500人中、成績は下位。なかなか這い上がれなかった。転機は、この当時、「メルシャン」にやってきた2人の「コンサルタント」によってもたらされた。
「当時、有名なコンサルタントのお2人でした。もう60歳を超えていらしたと思います。コンサルタントと言っても、営業にも同行してくださるんです。社内の会議でも容赦ないんですが、お客様先でも容赦がない(笑)。担当者に向かって、『キミじゃ話がわからんから社長をだしなさい』って。そりゃ、同行してもらうのが怖くなりますよね。でも、私は、何故かずっと手を挙げていたんです。同行、希望者を募られる度に」。
車で移動中も話をした。会議でも、もちろん耳を傾けた。「お2人とも、格好良かったです。モノを観る角度まで、ほかの人たちとはぜんぜん違うんです。いちばん同行してもらっている私の成績は、グングンアップしました。仕事に対する私自身の考え方がかわったんだと思います。底辺をウロウロしていた私が、今度は上位10傑の常連になっていきました。そういう意味でもお2人にはいまも感謝しています」。
彼らは、もう一つのことを渡部に与えた。「独立」という二文字である。

独立に向け、走り出す。

「商談の相手もたいてい社長だし、私の横にいる人も、つまり、そのコンサルタントですが、社長です。彼らと接するうちに、『起業』もいいかなと考え始めたんです。それが30歳の頃です」。
「青年社長」に出会ったのもこの時。本を読み、「渡邊氏の下で修業したい」と、渡邊氏がいる関東への異動を願い出る。「関東に転勤し、1年間、独立のプランを練りました」。そして1年後、9年間勤めた「メルシャン」を退職。エリートサラリーマンの道はたたれることになったが、それ以上に気持ちはたかぶっていた。夢に日付も書き込んだ。31歳、渡邊氏を追いかけ、ワタミに入社する。1年間で、すべて修得するつもりだった。

31歳のプライド。

「理想」と「現実」は違った。理想は淡く、現実は、色あいがハッキリしている。入社1ヵ月。現場に入った渡部は、戸惑うばかりだった。初のキッチン。10代の気軽なアルバイトではない。31歳、男の夢の、一歩である。だが、立ったまま何もできなかった。バイトたちからもバカにされる始末である。仕事が「できるか」「できないか」ですべてが判断される。これが現実だった。
「もうプライドもズタズタです。10歳以上も下の学生バイトの子にまでバカにされるんですから」。歯を食いしばる。「キッチンのオペレーションはむずかしいんです。メニューによっても工程も違いますから。その一つひとつをインプットしなければいけない。そうですね。あの頃は、寝る時も風呂に入っている時もキッチンでの作業を繰り返し、繰り返し反芻していました」。「できない奴は、弱者」という風土。這い上がらないと「ワタミ」に入社した意味もない。
「がむしゃらに頑張った結果、1ヵ月ぐらい経った頃には、バイトリーダーよりも私のほうが段取りが良くなり、オーダーもちゃんとこなせるようになりました。もう誰もなにも言わなくなりました」。これもまた現実だった。
朝2時まで仕事をして、始発が走る5時まで待機して帰宅する。時には、朝7時までバイトたちと飲んで、そのまま電車に乗り、本社の会議に出席。昼12時頃に会議が終わると、もう一度、店に直行し、翌日の仕事がはじまるという日もあった。体力も、心も鍛えられた。1年間を想定していたが、8ヵ月である程度まで到達。資金づくりのために、運送会社に転職する。これもまた渡邊氏のあとを追いかけてのことである。

起業、そして。

300万円、委託方式ではじめたのは「フレッシュネスバーガー」のフランチャイズである。「もともと居酒屋をしたかったんですが、FCなのに自由度があったから」というのが、「フレッシュネスバーガー」を選択した理由である。2004年、「ワタベフードサービス有限会社」を設立。店舗展開も開始する。最大6店舗まで拡大した。
しかし、渡邊氏という背中を追いかけた渡部にとって「居酒屋」は、すべきことであり、次に進むための扉でもあった。
「渡邊さんが、『つぼ八』の創業者である石井 誠二さんの下でスタートされたのを知っていましたので、私も師事しようと、石井さんのもとを訪れました。そして、『八百八町』のFCである『ひもの屋』をスタートするんです」。これが2006年のこと。「フレッシュネスバーガー」の自由度がなくなってきたことも理由の一つである。「フレッシュネスバーガー」から手をひき、「ひもの屋」に絞っていく。そして、現在、3店舗の出店を行っている。
「なかなか人が続かない」という悩みもあった。石井氏に相談すると中途半端は良くないと言われた。『字を書け、汗をかけ、恥をかけ』と励まされた。しかし、まだ道半ばである。現在HPの刷新など、理念をつよく打ち出す計画。「理念」そのものも、再考する予定だ。
まだまだこれから。「青年社長」の背中を追いかけてスタートした飲食人生。彼に負けるわけにはいかない。まずは「自社ブランド」の立ち上げ。これが次の一手だ。

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中学3年の時 大学卒業の時 社会人1年目の22歳の時
 

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