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第392回 株式会社フライングガーデン 代表取締役社長 野沢八千万氏
update 13/09/10
株式会社フライングガーデン
野沢八千万氏
株式会社フライングガーデン 代表取締役社長 野沢八千万氏
生年月日 1947年11月29日
プロフィール 茨城県笠間市に生まれる。8人兄弟の末っ子。当時の日本の人口8000万人を幸せにできるようにとついた名前が、「八千万」。子どもの頃からIQが異常値のレベルに該当するほど高く、運動神経にも恵まれていた。一方で、ヤンチャな性格で、同級生からも「さん」付けで呼ばれるほどの存在だったそうだ。県でも有数の進学校に進むが、早く社長になりたいからと、「東大進学間違いなし」と口説き落とそうとした校長先生の言葉を無視し、高卒で東京へ。たまたまゴミ箱に捨ててあったスポーツ新聞を拾い上げた時から、「飲食の戦士」の戦いが始まった。現在、株式会社 フライングガーデンはジャスダックに上場。「爆弾ハンバーグ」が人気だ。
主な業態 「フライングガーデン」
企業HP http://www.fgarden.co.jp/

末っ子に付けられた名前は、「八千万」。

野沢は1947年11月29日、茨城県笠間市稲田町に生まれる。8人兄弟の末っ子。いちばん上の兄とは20歳ほどの年の差があった。
「だから、物心ついた時にはもう結婚している兄姉も多く、8人もいるのに1人っ子みたいな感じで育ちました(笑)」と野沢。
末っ子の野沢の名前は、「八千万」。「当時、日本の人口は8000万人だったんです。その人々を幸せにできるように、と。親からもらった名前が『八千万』だったんです」。
実家は農家。父はもちろん母も四六時中忙しく「放りっぱなしにされていた」と笑う。「典型的なガキ大将だった」と、子どもの頃を自己分析する。
「ワンパク坊主でね。同級生も、私のことは『野沢さん』って『さん』付けで呼んでいました(笑)」。
野を駆け、山を駆け。「野沢さん」は子分を引き連れて、走りまわった。10歳上の兄貴にも、食ってかかったことがある。ケンカに負けると父に、「もういっぺんやりなおしてこい!」と怒鳴られた。ワンパクだが、父に言われたルールは守った。「年下や女性をいじめるな」である。
子どもの頃から野沢は、ワンパク坊主のくせに、「料理好き」という意外ないちめんを持っていた。
「小学生の頃ですよね。料理と本が好きでね。親父から『男たるもの厨房に入るな』と言われていたんですが、こればっかりは守れずに、隠れて台所にいって料理をしていました。本も好きで、本屋通いをしていたほどです」。本屋を探せば、野沢がいたのはこの頃の話。
その一方で、スポーツの才能もみせ始める。小・中で野沢は、野球部に所属。野球でももちろん活躍するのだが、野球部員であるにもかかわらず、相撲大会で大将を務めたり、5種陸上競技や柔道、剣道にも駆り出され副将を務めたりしたそうだ。生徒会では副会長。勉学にも長け、つねに上位10位以内をキープ。
「IQが高くてね。本は、ナポレオンなどの偉人伝が好きでした」。ともかく、ワンパク坊主は、文武両道を絵に描いたような少年に育つ。ただし、中・高でもあいかわらずワンパクだったようだ。

IQ178の天才、少年。

「中学生の頃から『社長』になるなら料理人か、デザイナーか、美容師だな、と思っていました。でも、絵が下手だからデザイナーは無理だと(笑)。美容師っていうのもガラじゃないな、と。それで残ったのが料理人。それで単純に、料理の道で社長になろうと決めたんです」。
とはいえ、料理人をめざすのはまだ先の話。中学卒業後は、県で2番目の進学校に進んだ。入学早々、睨みを利かせた野沢は、すぐに高3生からも挨拶される立場になった。IQは、依然高く、178。ちなみに、調べてみると70〜130の間におよそ95%の人が収まるそうだ。むろん178となると数%ぐらいしかいない。
そんな飛び抜けた数値を持った少年が在校していることを知って、学校側も驚いたことだろう。しかも、相手はワンパク坊主をそのまま大きくしたような少年だ。高校2年になった時、ついに野沢は、校長室に呼ばれる。
「高校2年の時ですよね。校長室に呼び出されて、『ケンカばかりしないで、勉強したらどうだ』と。『そうすれば東大にも行ける』と太鼓判を押されたんです。でも、私が『東大に行くより社長になりたい』というと、『東大に行って、それから頑張って社長になればいい』ということでした。そこで、私はもう一つ質問したんです。『大学に行かず、高校を卒業してからすぐに頑張っても社長になれるのか』と。校長も素直な人だったんでしょうね。ちょっと困った表情をしながらも、『もちろんだ』答えてくれました。それでね。私は早く社長になりたかったから、大学に進学することも辞めたんです」。校長にすれば、藪蛇だった。勉強させて東大に行かせるつもりが、大学進学まで辞めてしまったのだから。普通のモノサシでは測れないのが、野沢という少年だった。
勉強もでき、スポーツも万能。そういう天与の才に恵まれた人は、けっして多くはないが、少なからずいるのも事実。ただ、野沢クラスになると、桁が違った。
校長先生から、「東大に行ける」と太鼓判を押された野沢は、ボクシングでも、世界は無理でも日本チャンプは狙えるかもしれなかった。
「ボクシングなら殴っても怒られないでしょ」という理由で、高校からボクシング部に籍をおいた野沢は、メキメキ頭角を現し、2年連続、県大会で優勝している。
プロに進む気はなかったが、のちにとあるジムの選手と練習試合をすることになった時の話もおもしろい。野沢は、ブランクをもろともせずあっさり相手を倒してしまうのである。ジムの会長が目を丸くし、プロの試験を受けさせられたが、こちらもすんなり合格している。ところが、それだけの才能がありながら、「世界を獲れるか」と聞いたところ、「せいぜい日本ぐらい」と言われ、見事なほどあっさりボクシングから足を洗っている。
IQが飛び抜け、スポーツでも抜群な成績を収めた野沢だが、本人は、あまり意に介していない様子。学問でも、スポーツでも、突き詰めれば何らかの結果を残せたはずだが、結局、中学の時に決めた料理人をめざすことになる。それもまた先の話だが。

ゴミ箱から拾い上げた運命。

「父親からもらった2万円とボストンバック一つを抱えて上京しました。最初は川崎のデパートに就職して、辞令が下りた時点で退職しました。デパートに就職するというのは、東京にでるための口実だったんです。でも、辞めてもほかに行くところがありません。そんな時、ゴミ箱から拾ったスポーツ新聞に、寝具付きで、好条件な飲食店の店員募集が載っていたんです。神田の神保町にある洋食屋さんでした。これだ!と思って、電話をして。そう、そちらで2年間、お世話になりました。これが、私の飲食人生のスタートと言えばスタートです」。
「ですが、私の人生を決定づけたのは、次に就職したお店です。この店には、『世界料理オリンピック』で団体・個人の金メダリストがいらしたんです。今井克宏さんという方です。今井さんの下ではたらけた3年間は、私にとってとても貴重な経験となりました」。
その後は、シェフを3年、支配人として2年間はたらき、計10年間、料理とマネジメントの修業に明け暮れた。
当時の様子をもう少しくわしく話すと、こうなる。
「19歳の時に、女房に出会って一目ぼれし、19歳で同棲。20歳で入籍し、22歳で結婚式を挙げ、23歳の時に長男が生まれます。女房と付き合うまでは、一升瓶を持って歩くような酒好きで、職場でもわがまま放題でした。ですが、女房に『社長になって、一生安泰な暮らしをさせてやる』と宣言したもんですから、それ以降は、1日最低2時間は勉強すると決めたんです。仏語や英語、そして料理についても真剣に勉強するようになりました」。
ただし、当時の野沢には「志」以外には何もなかった。「女房がはたらいてくれていたから食べていけたようなもので、家具も、キッチン用具も何もなかった。あるのは絶対、成功して、こいつを幸せにしてやるという思いだけでした」。
先輩を追い越すために目標を設定し、それを次々クリアしていった。包丁をこっそり見比べたり、休日は肉屋や魚市場へ行き、部位の名前や調理方法などを勉強したりした。その結果、少しずつ頭角を現すようになる。もっとも当時のことだ。いくら才能があっても、すぐに結果を出すことはできなかっただろう。少ないチャンスをものにしていった証ではないか。運もむろん才能の一つである。そうして迎えた20歳。桐生を訪れた際、電気が走った。「昔から霊感というか直観というか、そういうのが強かったんです。実際には29歳で出店するんですが、初めて桐生に行った時、直観で、ここに店をだせば成功する、と思ったんです」。
霊力? 直観力? スピリチュアルな話だが、野沢がいえば、なるほど、と頷いてしまう。なにしろIQ178。常人にはわからない範疇のことまでわかってしまうのだろう。独立前には「調理師学校」の講師や料理に関する「新聞記事」を書いたりもしていたそうだ。
そして、1976年11月29日、29歳の誕生日に独立。10坪の小さな喫茶店を開き、その小さな店のなかに立ち、いずれ株式を上場すると誓った。

桐生の小さな喫茶店から、上場企業へ。

当時、喫茶店といえばけっして悪い商売ではなかったとように記憶している。ただし、参入壁が低い分、あちこちに喫茶店があったのも事実である。しかし、野沢が開いた喫茶店は、ほかとは違っていた。オーナーの野沢が、喫茶店のオーナーにはめずらしく本格的な料理人だったことだ。当然、店は繁盛する。
ここで一つ仮定の話をしよう。もし野沢が上場という野望を抱いていなかったとしたらどうだったかという話である。たしかに街の名店にはなっただろうが、それで終わっていたかもしれないし、やがて喫茶店の多くがそうであったように、大手のコーヒーチェーンに飲み込まれ姿を消していたかもしれない。「志」が、その人の人生を決めるのはこういう時だ。
その日から28年後の2004年3月。野沢は、宣言通り、株式をジャスダックに上場する。しかし、それがゴールではない。ひとまず1部に昇格すること、を目標に頑張りたいと思っているそうだ。もちろん、これもゴールではない。「八千万」という名前に込められた思いを考えれば、まだまだゴールは、遠いところにある。
「売上を増やし、お客さんも増やして10億ほどの税金を払える会社にしたいな」と野沢。むろん、社員教育にも注力して、人の育成に情熱も、資金も投じている。「社員は、息子のようだ」ともいう。育てた社員が、他社にいってもいっこうにかまわない。人を育てたこと、それ自体が国益につながっていると信じているからだ。
ところで、フライングガーデンの名物は、「爆弾ハンバーグ」という。むろんナンバー1の人気メニューだ。想像力も、発想力も、群を抜く野沢のネーミング。爆弾みたいな野沢が生んだ名物料理にふさわしいネーミングだと思った。
まだまだこれから。野沢八千万の挑戦はずっと続いていくのだろう。

思い出のアルバム
 
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