株式会社船橋屋 代表取締役 渡辺雅司氏 | |
生年月日 | 1964年2月16日 |
プロフィール | 東京都江東区亀戸に生まれる。立教大学卒後、都市銀行に入社。異端児ながら、成果を残し続けたが、ものづくりの原点に戻りたく家業を引き継ぐ決心を固める。2013年、現在、八代目当主として、200年を超える老舗の舵を取る。その舵の重さは、たぶん、簡単に想像できるものではないはずだ。 |
主な業態 | 「船橋屋」 |
企業HP | http://www.funabashiya.co.jp/ |
江戸文化2年、1805年に「船橋屋」は創業する。以来、200年以上の歴史を「くず餅」ひと筋に研鑽をかさね、いまに至るそうだ。
200年を超える歴史と聞けば、たしかに驚かされるが、さすがに文化2年と聞いてもイメージがわかない。調べてみたところ、将軍は11代徳川家斉。文化人では杉田玄白や伊能忠敬らの名前が出てきた。
この文化2年に生まれた「船橋屋」。創業の地は、いまの江東区亀戸3丁目、「亀戸天神」のすぐ側である。
ホームページに創業当時の様子が書かれているので抜粋する。
<初代の勘助の出身地は下総国(千葉県北部)の船橋で、当時、下総国は良質な小麦の産地でした。勘助は、亀戸天神が梅や藤の季節に参拝客でにぎわうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉をかけて餅を作り上げました。それがまたたく間に参拝客の垂涎の的となり、いつしか『くず餅』と名づけられ…江戸の名物の一つに数えられる程の評判をとりました。>
続いて、明治初頭に出たかわら版「大江戸風流くらべ」において<江戸甘いもの屋番付に『亀戸くず餅・船橋屋』が横綱としてランクされた>とも記されている。
近年になっても本店には、芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら文化人がしばしば足を運んだそうだ。
さて、現在の「船橋屋」は、「亀戸天神前本店」のほか4店舗(季節限定営業店舗も含む)を擁し、百貨店などに15の売店を構えている。東京都内が中心だがオンラインショップもあるので全国から購入可能だ。
この、現代の「船橋屋」を統率しているのが、今回、ご登場いただく渡辺雅司氏である。歴史が長い分、前置きもまた長くなってしまった。では、いつも通り渡辺氏の足跡を振り返り、老舗中の老舗のいまを追いかけてみよう。
渡辺は1964年2月16日、東京都江東区亀戸に生まれる。父親は、慶應大学卒の元証券マン。5人兄弟の次男で、婿養子として「船橋屋」に入っている。
「父はまじめな性格の人で、何より厳しかった。ふつう、私たちのような老舗では店と住まいが一つになっているんですが、それでは私が店の者に甘やかされると、店を離れ、私が小学6年生までは千葉県の船橋市に住んでいました」。
昔のことなので、亀戸もいまとは違うが、船橋はいっそう自然に囲まれていた。渡辺もまた、「毎日、田んぼを駆けまわっていた」そうである。
当時の自己評価は、ガキ大将。スポーツが得意で、地元軟式野球クラブに所属していたそうだ。
もちろん、勉強もできなくはなかった。しかし、勉強は二の次というのが正直なところ。だから、中学に上がるなり、現実を見せつけられた。
「妹がぜんそくだったこともあって、中学に上がるときから、妹の学校が至近にある麹町で暮らしはじめたんです。中学は麹町中学校。当時から公立でも有数の進学校で、わざわざ越境してくる生徒がいたほどなんです」。
そんな進学校に千葉の田舎の少年が1人紛れ込んだ。結果はすぐに表れた。
「中学になると試験の成績が発表されるでしょ。最初の中間テストで、330位中306位だったんです(笑)。これには、父も驚きました」。
「さっきも言ったように、父は婿養子で、祖父も実は婿養子だったんです。私が、店と離れた船橋や麹町で育ったのも、ボンボンに育ってはかなわないと思っていたからなんです。しかし、そんな風に育てた息子が、330位中306位を取ってきたもんですから、もう放っておけないと思ったんでしょう。父自ら、仕事の合間を縫って私の勉強をみるようになるんです。一方、私のほうといえば冷静で、周りの大部分が中学受験をしていたような連中ですから、最初は負けても仕方ないと思っていました。何しろ、こっちは勉強らしいことをいっさいしてこなかったんですから」。
結局、3年生の時には、その進学校で26位まで這い上がった。
「やれば、できる」という教訓を得たのはこの時。
「成績が上がれば、先生も可愛がってくださって。調子に乗って、在学中はほとんど勉強していました」と笑うまで勉強も好きになった。
高校は大学の校舎に憧れて、立教高校に進学した。いったんこうと思えば、まっすぐ進む渡辺の性格が表れているようなエピソードである。高校時代の話も伺った。
「中学の時に野球部がなかったことからテニスへ転向。町のクラブに通っていたので高校に入ると直ぐにテニス部に入りました。1年間我慢して活動を続けましたが、例えば先輩が初戦負けしたのに、何故か連帯責任で試合にも出ていない自分たちが坊主にさせられたりと、上下関係で理不尽なことがあまりに多く、さっさと退部してテニスは元のクラブに戻って続けることにしました」。
集団生活がキライだったわけではない。渡辺は、反抗心が旺盛で理にかなわないこと、時間を非効率に使うことが耐えられなかったのではないだろうか。
ところで、当時、渡辺は家業をつぐことをどう考えていたんだろう。直裁にたずねてみた。
「あの頃は、家業がどうだということではなく、レールにはめられた人生がイヤだったんです。だから継ぐ意識はほとんどなかったですね。また人からチヤホヤされるのが、大嫌いだったもんですから、かりに社長になっても、決していいとは思いませんでした」。
大学に進学してから将来を考えるようになったのは、2年次も終わろうとしている頃。会計学校の「TAC」にも通いはじめている。
大学時代はアルバイトもした。百貨店の配送がもっとも記憶に残っている。「配送の前日までに効率的なルートを決めておくんです。すると人の何倍もはやく、多く配達することができました。そういう戦略を立てるのが大好きだったんです」。
バイトで得たお金で、ハワイへ行った。ハワイは今も「ちからの源泉」だからと疲れたら良く行くそうだ。
家業を継ぐ意志はなかった、この一言を裏付けるように、渡辺はまったく異業種である「都市銀行」に就職する。入社2年間は日比谷支店で「企業融資」に携わり、3年目で市場営業部の債券トレーダーとなった。
ときはバブル絶頂。多くの人たちが好景気に浮かれ、そしてお金に酔った。そして1991年の入社6年目に銀座支店の営業担当者へ。
トレーダーをしている3年の間に世の中は大きく変わっていた。バブルははじけ、銀行は積極融資から徹底回収へ。目先の利益に目がくらみ浮かれていた人たちはいつの間にかどこかに消えてしまっており、特に銀座という街はそれがダイレクトに伝わるところだった。
けっして銀行がキライだったわけではない。社会のなかにあって、お金の血流ともなるその役割の重要性も認識していた。その意味では、いちばん銀行員らしい男だったに違いない。だが、実際はキレイごとだけではない。
銀行という組織そのものが、社会的な役割を果たすよりも、むしろ時代の波を読めず右往左往しながら、結局まじめに商売をしているお客様をも窮地に追い込むことが多々あった。
「まぁ、いろいろとですね、本部から販売推奨される商品が来るんです。これを売れば支店に手数料が幾ら落ちる、という具合に。でも明らかにお客様にマイナスだと思うものが多く、絶対、販売しませんでした」。
このような回収や銀行目線での商品販売等の後ろ向きな仕事をしているうちに、どんどんやる気が失せていった。仕事に価値を見いだせなくなっていった。
ただ、貴重な経験もずいぶんさせてもらった。
「銀座は老舗が多い街。いろいろな経営者の方の哲学をお聞きする機会がたくさんありました。バブル後も全く動じず業績を伸ばされているところは、一様に2つのことを大切にしています。1つ目は『大局も見ていて目先の利益に左右されない』こと、2つ目が『常にお客様目線』であること。如何に自分のいる銀行と違うかということを痛感させられました」。
このようなことから、何の未練もなく、渡辺は銀行を後にすることになる。銀行での経験を活かし、モノづくりとマーケティングに関心を持つようになり、家業に新しい風を吹き込む決意をしたのである。
「いままでとは違った感覚で、家業のことを観るようになりました。当社には『売るよりつくれ』という社訓があるんです。売るよりも大切なこと、例えば美味しくて安全な商品・心地良いホスピタリティや店舗空間等々をしっかりつくっていくことが重要です。お客様目線で、お客様が喜ぶものを長年つくり続けていられるのは、そういう概念があるから。そのことに気づいてはじめて、家業をつぐ決意をしたんです」。
父親は息子の意志を聞いて、喜んだ。だが、渡辺にとって、その事実は老舗の伝統と味を守る過酷な戦いの幕開けを意味していたはずだ。
「最初に驚いたのは職人の世界です。同時に会社の内部体制にも驚かされました。いい意味ではありません。たとえば職人たちは、仕事の時間以外、自由気まま、勝手にやっているという感じで、時間をみつけてはパチンコに行っている人までいました。内部体制にしても、無駄なことばかり。このままではいけないと入社早々、痛感したんです」。
むろん、そう思ってもすぐにはできない。やろうとしていることが大きいほど、抵抗も大きい。構造改革に着手した渡辺には非難の目も向けられたことだろう。しかし、いまここで慣れ合っては、未来がない。
「向上心のないスタッフは、抵抗の末辞めていきました。仕入れ先も見直しました。たとえ60年〜70年来の取引先だったとしても、努力を怠るような会社とはすべて取引を解消。批判もありましたが、断行しなければ会社を良くすることはできません」。
会社のB/SとP/Lを見直し、悪い点を改善した。メイン銀行の支店長を呼び出し取引内容の改善を断行した。そうした結果、粗利益が5000万円も増加したそうだ。大改革の果実である。しかし、それだけでは終わらなかった。全員参加型の組織を目指し、業界初となるISO9001の取得にチャレンジした。「職人をイスに座らせ、彼らが持っている知識や勘を含めて、マニュアル化するのは大変だった」という。
また仕組みやマニュアルを整備すると同時に、人の動機づけの源泉となる感動やパッションがあふれる組織を作るために社内活性化プロジェクトを立ち上げ、社員の社員による職場環境づくりに注力した。
同じ志を持つ仲間を増やすため新卒採用も開始。学生に喜んでもらえるイベントや説明会を社員が企画し楽しんでいるうちに、5000人を超えるエントリー数となり、200名の説明会は10分ほどでクローズする人気となった。
こうみると渡辺は、効率や合理的な考えをベースに、想いやミッションを最重要視する経営者であることがわかる。この会社が「誰のために、何のために、なぜ存在するのか?」を常に考え行動しているそうだ。この意味と価値を問い続けることが、代々受け継がれてきた伝統の味を未来に伝えていく唯一の道であると渡辺は考えているに違いない。
「6〜7年前ですね。どんな会社にしたいのかを考え抜きました。会社とは何なのか、ということです。自分で問うているうちに興奮して一晩中あれこれと考えることもしばしば。で、思い至ったのが、『働く人が休日に外出する時と同じウキウキさで玄関を出られる職場にしよう』と、いうことでした」。
これが、渡辺の事業コンセプトにもなる。そのコンセプトをもとに3つの柱を打ち立てている。この3つが、企業の成長に不可欠だと、渡辺は考えている。
「1ステップは経営理念です。2ステップは社員が自己実現できる職場を作ること。そして3ステップは戦略を練ることです」。理念をもとに、環境を整え、そのうえで戦略を練る。ともすれば、「戦略ありき」な経営者が多いなか、まず「理念ありき」という点が「船橋屋」のいまの強さの秘密であるように思う。
ともあれ、代表取締役、八代目当主となり、200年を超える老舗を未来へと引き継ぐ、そんな役割を手にした渡辺である。その重責は、いかばかりか、と思わずにはいられない。
ただ、その重責もまた、「くず餅」ひとつの旨さにはかなわないのかもしれない。2013年現在、正確にいえば208年。その歴史と葛藤を、私たちは、一瞬で食べていることになる。この贅沢。ほかではちょっと味わえない。
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