株式会社aqua L style 代表取締役 齊藤健一郎氏 | |
生年月日 | 1980年12月25日 |
プロフィール | 尼崎出身。父は貿易関係の会社に勤めるサラリーマン。小学4年生から野球をはじめ、小・中・高と野球エリートの道を進む。大学も野球推薦で入学したが「野球バカにはなりたくない」と退部。飲食との接点は大学時代のアルバイトから。「カフェレストランアクア」は大学時代のアルバイト先の一つ。卒業後は、そのままアクアで社員となり、大阪のカフェ立ち上げで異動。結婚を機にクルマ情報誌「Goo」を手がける(株)プロトコーポレーションに入社。トップセールスも記録する。その後、前オーナーから「アクア」を譲り受け、起業する。 |
主な業態 | 「cafe restaurant aqua」「aqua south coast」「鶏焼肉 ABURIカフェアクア」 |
企業HP | http://www.aqua-l-style.com/ |
「私だけではなく、家族も全員、野球漬けになった」と齊藤は、野球に熱中した当時のことを話してくれた。小学4年生から野球を始めた齊藤は、みるみる頭角を表す。齊藤は、キャプテンでキャッチャーだったそうだ。中学に上がると「硬式クラブ」に入部した。中学の硬式チームはいくつかの団体に分かれている。齊藤が所属していたのは「ヤングリーグ」と言われていた。そのなかで、まったく負けなし。北海道にも、岡山にも、九州にも遠征したが、齊藤のチームに土を付けられるチームはどこにもなかった。
団体の交流戦でもあり、真のいちばんを決めるチャンピオン大会でも、優勝した。決勝戦の相手は、巨人軍の杉内投手率いるチームだった。
「高校からも『チーム全員で来てくれ』って言われるぐらい、凄いチームでした。なんで、あれだけ強かったのか、言葉にはできないですね。でも、バランスが取れていたんだと思います。火がつけば、止まらない打線でした(笑)」。
全員ではなかったが、数名いっしょに「神戸弘陵学園高等学校」の門を潜った。当時は特に、高校野球の名門で、現中日の山井大介投手は、齊藤の2つ上の先輩。キャッチャーだったから、山井投手のボールを何度か受けたことがある。
小学校では副キャプテン、中学校ではキャプテン。高校でもボイコット事件を起こすまでは、キャプテンだった。ボイコット事件とは、野球部全員で監督に反抗し、クラブも、授業もボイコットした事件である。この時にはキャプテンを下されたが、有能な選手たちのなかでも齊藤はつねに中心メンバーだった。キャッチャーというポジションも、広い目でチーム全体を観ることができたから与えられつづけたのだろう。
「プロになるつもりはなかったんですが、オリンピックには出たいな、そんなことを考えていました」。大学も推薦で入った。「奈良産業大学」野球部。しかし、指導者の方針と巧くかみ合わず、「野球バカにはなりたくない」と退部してしまう。もともと兵庫から奈良県に通っていたものだから、大学までは相当な時間がかかった。クラブを辞めれば気持ち的に更に遠のく。「大学には、週に2〜3時間しかいなかった」そうだ。
反面、バイトに明け暮れる。飲食との出会いも、学生時代のアルバイトが始まりだ。
18歳の頃からまる3年、齊藤のホームグランドは「ガスト」だった。「オープニングで参加したんです。もちろん最初は、気軽な気分だったんですが、だんだんはまってしまうんです。結局、3年間もこちらでアルバイトをさせてもらいました。飲食の楽しみはもちろんですが、『いらっしゃいませ』から『ありがとうございました』までの仕組みを勉強させていただけた気がしています」。
アルバイトといえども3年。店舗では主要なメンバーの1人になっていたはずである。こののち宅配ピザの「ピザーラ」でもアルバイトを経験。そんな時、偶然目にした「カフェレストランアクア」にほれ込み、入社。大阪心斎橋にオープンした「W cafe」の立ち上げにも関わっている。
飲食にも惹かれたが、結婚をきっかけに「サラリーマン」になろうと決意する。「飲食の仕事は給料が安いでしょ(笑)」と齊藤。営業の経験などむろんなかったが、初挑戦でも恐れるタイプの人ではない。就職先に選んだのは、株式会社プロトコーポレーション。クルマ情報誌「Goo」の会社といえばピンとくる人も多いだろう。最初は、鳴かず飛ばずの成績だったが、新システムの導入時にトップセールスを記録する。
「私自身がこれはいいと思ったから、その思いがお客様にも伝わったんでしょうね」と齊藤。有能なセールストークはできなかったが、「心」で売ることはできた。これが、一つの成功体験である。
しかし、営業マンの時代は長く続かなかった。もともと「28歳で起業しようと考えていたこともあるし、離婚も一つの引き金となった」と齊藤。
「そんな時、たまたま『アクア』のオーナーが店を手放すという話を聞いたんです。昔から馴染のお客様からも、『だったら、お前がやれよ』とハッパをかけられて。オーナーからは『350万円で』と言われたんですが、資金はぜんぜんありません。オーナーはそんな私をみかねたのでしょうね。『分割でどうだ』とおっしゃっていただけたんで、それなら、と。もっとも、いま考えれば350万円は、高かったですね(笑)。当時の売上は、50席で月200万円ぐらいでしたし」。
「もし、この人がいなかったら」と齊藤が名前を挙げるのが、アクアの女性総料理長(現・専務)だった。
「彼女は、私が『カフェレストランアクア』を買い取るより半年ほど先に入店していたんですが、オーナーが私に代わり自由にしてもらうようになってから、いきいきと仕事をしてくれるようになりました。のちにランチはもちろん、朝5時まで料理をお出しするようになるんですが、それを仕切ってくれたのも彼女でした。私にとってはとてもいいビジネスパートナーです」。
いくらアルバイト経験があったとしても、飲食の経営は簡単ではない。齊藤が経営するようになって「アクア」は、月500〜600万円と月商は2.5倍以上になるのだが、彼女、抜きにはなしえなかったのも事実である。
「アクア」のオーナーになって4年。2012年4月には「本店」から車で5分のところに、2号店の「アクアサウスコースト」を開業した。目の前にはプールがあり、海も広がっている。ロケーションとしては抜群。40フィートのコンテナ4つを組み合わせた店舗だった。「おもしろい」と思った。だがこの4年で、仲間も増えた。だから「1人で突っ走る」のはためらわれた。「それでみんなに図ったんです。『なぁ、たのしそうに思えへんか』って、そしたら全員、『たのしそうやからやろう』っていってくれたんです。しかも『あかんかったら、またやり直したらええやないですか』って。よっしゃ、それならやってみよう、と」。
この店はオープンするなり、月商1200万円を超える人気店となる。「やろう」と誓い合ったときの「決断」は、「一致団結」という副産物をもたらしたに違いない。
その一方で、齊藤が取った戦略もあたった。「ロケーションは良かったんですが、交通の便はぜんぜんよくないんです。だから、どう広報しようか、と。それで思いついたのが『Face Book』です。『アクア2号店が出来るまで』を10回に分けて公開しました。それを観てくれていた人だけをプレオープンにご招待したんです」。その数、400人。その後の爆発的なヒットを生む要因となったのは間違いない。
「政治家になりたい」と齊藤は、本気か、冗談か、どちらともつかないトーンでそう言った。「政治家になるためには、100億円がいる。それだけあれば、目先の金に踊らされなくなるからだ」とも。
だから、いまの目標は「100億円」である。むろん、戦略も練っている。100店舗→株式上場、子会社のIPOも戦略の一つである。「絵空事」と笑う人もいるかもしれない。しかし、志のないところには、何も生まれないのもまた事実である。
現時点(2013年6月)の話をすれば、3号店目の構想が進んでいる。「大阪府の岸和田に『喜場屋』という鳥料理の専門店あるんですが、それをカフェスタイルの店舗で提供できないかと考えています。ある外食新聞社の編集長が『これほど美味い鶏は他で食べたことがない!』と大絶賛したほどの鶏料理です」。東京への進出もむろん考えている。1〜2年以内には実現させたいということだ。28歳で社長になった有限実行の32歳。
案外、「100億円」の目標も軽くクリアしてしまうかもしれない。
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