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第399回 株式会社リンクワーク 代表取締役 福島優作氏
update 13/10/08
株式会社リンクワーク
福島優作氏
株式会社リンクワーク 代表取締役 福島優作氏
生年月日 1982年3月13日
プロフィール 西東京市田無町に生まれる。2人兄弟の次男。家は代々続く布団店で教科書にも掲載されたことがあるそうだ。父の勧めで幼少の頃から柔道を始める。中学時には東京上位の常連の腕前。高校卒業後、武蔵野調理師学校で調理の基本を学んだのち、新宿の割烹で3年間修業。独立精神が旺盛で、資金獲得のため不動産会社に入り、3年間で1600万円を貯蓄。独立を前提に(株)リンクワンに入社し、「プロ店長」を務め、経営のノウハウを積み、29歳の時「酒も出せるラーメン屋」をコンセプトに1号店を開業。そして2011年、(株)リンクワークを設立する。2013年8月現在、「麺匠 えい蔵・和蔵」を中心に、都内に6店舗展開中。
主な業態 「えい蔵」「和蔵」
企業HP http://link-wk.com/
今回、ご登場いただく株式会社リンクワークの代表取締役、福島優作は田無で代々続く布団店の次男として生まれた。生年月日は1982年3月13日だから、29歳で独立を果たしたことになる。「何故、家業とは畑違いの飲食なのか」と伺うと、「小さい頃から興味があったから」という答え。
なんでも、小さい頃は「おにぎり屋さん」になりたくて。中学生の頃には「お寿司屋さん」に憧れていたそうだ。高校を卒業し、迷わず「武蔵野調理師学校」に進んだのも、当時の思いが薄れていない証拠。割烹での厳しい修行に耐えられたのも、料理が好きだったからにほかならない。
そんな福島がどうやってラーメン店にたどり着いたのか。では、いつも通り軌跡を追いかけてみよう。

柔道に明け暮れた日々の記憶。

福島には兄が1人いる。1歳しか年が違わないこともあって、四六時中ケンカをしていたそうだ。父の勧めで2人は柔道をはじめ、福島は中学生の時、都の大会でベストエイトまで進んでいる。
「小さい頃から兄とケンカ三昧でしたから、武道はある意味、私たち兄弟の進むべき方向だった気がします。ただ、兄とはその後、違う道を進むようになるんですが、いい意味でも悪い意味でも、2人とも中学の時に出会った監督から大きな刺激を受けました。とにかく練習が厳しくて。いまなら体罰と言われてできないんでしょうが、昔は、暴力まがいの指導もまかり通っていましたから」。
「代わりに、厳しい練習に耐えているうちに、みんなドンドン上達して大会でもいい成績を収めることができました。団体でもそうですし、個人では東京上位の常連になれました。おかげで、高校進学時には8校から推薦をいただくことができました」。
厳しい練習に3年間、耐えた。1つ上の兄は、兄弟でも先輩だから敬語である。徹底した「しつけ」も行われていたのだろう。むろん体罰だけではなく、理不尽なこともあったに違いない。でも、福島はドンと構えて、それらを受け入れた。精神的にもたくましかった証拠だろう。しかし、高校で柔道を続けるつもりはなかった。だから8校あった推薦はぜんぶ断った。

柔道抜きでは、進学する学校がみあたらない。

もう、柔道はやらないと推薦を断ったのは良かったものの、推薦がなければ行く、正しくは行ける高校がなかった。
「柔道ばっかりで勉強なんてちっともしていなかったから、都立に落っこちて。2次募集で、とある高校にスベリ込んだんですが、その時の面接官が中学時代の柔道部の監督で…。面接ルームに入るなり、互いにびっくりです(笑)。監督からは『おまえがくるような学校じゃないだろう』と怒られてしまいました。監督は、推薦をくれた学校のいずれかに進んだと思っていたんです」。
事情を説明したが、「柔道をすることを条件」に進学が認められた。結局、柔道から逃げられなかったことになる。ただし、推薦で入学できた学校とは違い、こちらはまだまだ弱小の柔道部だった。
だが、いま振り返れば、かえってそれが良かったのかもしれない。「柔道部を強くしよう」。違った意味で福島のなかに火がついたからだ。ふたたび、柔道漬けの日々が始まった。今度は、己1人が強くなればいいわけではない。悪戦苦闘の日々がスタートする。
「結局、最後まで強豪校にはできませんでした。でも、支部で一回戦負けの常連校をなんとか準決勝、決勝まで勝ち上がれるぐらいまで強くすることができました」。
この事実は、間違いなくいまの福島の財産になっているはずだ。

割烹で修業。

結局、高校も柔道漬けになってしまった。学業のほうはといえば、中学時代同様、まったく手つかず。大学進学は眼中になく、幼い頃から好きだった料理ができるようになるため、1年制の「武蔵野調理師学校」に進んだ。
「その学校で1年間料理の基本を学び、卒業後、新宿のある割烹で修業をさせてもらいました。はっきり言って柔道部もとんでもないところでしたが、この割烹も負けてはいませんでした(笑)。料理の修業とはそういうものなんでしょうが、16人いた同期のなかで3年後まで残ったのは私1人です」。
厨房のなかでは、壮絶な人間模様が繰り広げられている。
「2年目までは、料理といってもまかないをつくるだけです。まずけりゃ、先輩たちの罵声が飛んでくる。唯一、親方が『おかわり』という時があって、あれが救いでした。『おかわり』は、良くできたという合図なんです。だから、そう言われた時は1人ガッツポーズをとっていました」。
専門学校に1年通ったといっても、和食のプロの料理人からみれば、まだ何者でもない。だからといって教えてくれるわけでもない。とくに最初の2年間は包丁すらろくに握らせてもらえない。
「それで店が終わったあと、居酒屋で調理をさせてもらいました。無給ですが、代わりに店ではできない料理をやらせてもらうんです。そうやって少しずつ料理といえるものを作れるようになっていきました」。ところが、この居酒屋修業が人生のターニングポイントになる。

手の込んだ料理が箸もつけられず戻ってくるという現実。

「あの時は、割烹と居酒屋という対極にあるような2つの業態を掛け持っていました。むろん居酒屋は勉強のためです。しかし、ある時、ふと考えたんです。割烹のほうは、接待に使われるような高級店だったから、仕方ないといえばそうなんですが、せっかくの料理が残ったまま厨房まで戻ってくるんです。接待するほうにとっては、料理どころではないとわかっていても釈然としませんでした」。
「一方、居酒屋では違うんです。ちょっと手を込んだ料理を出すと、『おいしい』って言ってくださって、ほんとに笑顔になられるんですね。その笑顔をみて、オレがしたいのはこっちだ、と思うようになるんです」。
たしかに、接待で割烹を使った場合など、料理に商談をスムーズに進めるという価値を見出すこともできなくはないが、どうしてもわき役でしかない。
一方、居酒屋では、料理が堂々の主役となる。そう考えれば、「居酒屋」に惹かれた福島の気持ちはある意味、料理人の矜持にほかならない。そんな気がする。
ようやく下積みが終わりかけた3年目にもかかわらず、お客様の笑顔がみられる店を開業するため、福島は割烹を辞め、開業資金を得るために不動産の仲介会社に飛び込んだ。

全従業員のなかで新人営業マン福島が、トップセールスの常連となる。

「30歳まで独立しようと思っていた」という。19歳で社会に飛び出し、3年間の修業を終えた時だから、まだ21歳である。
「学校では柔道ばっかりだし、それからは料理の世界でしょ。社会のことはなんにも知らなかったんです。それこそネクタイを締めるのも初めてだし、名刺の渡し方一つ知らなかったんです」。
そんな福島を雇ってくれる会社があった。
「それなりの規模の不動産会社です。なんにもわからないから、最初は『野獣が来た』と笑われていました。柔道の監督もそうですが、こちらの会社でも厳しいけれどいい上司に恵まれました。何にも知らない私に向かって『絶対におまえは売れるから、がんばれ』ってハッパをかけ続けてくれたのも、この人なんです」。3ヵ月で初契約。それからは周囲が驚くような成績を残していく。
「結局、この会社には3年間在籍させてもらいましたが、最後までトップセールスを突っ走りました。柔道の時もそうですが、がむしゃらに、まっすぐ言われた通り実践する。それが結果となって、返ってくるわけですから、そりゃおもしろかったです。でも、ずっといるつもりはありませんでした。月80万円ずつ貯金をして、3年間で1600万円を貯めることができ、それで、退職させてもらったんです」。
営業の才能があったのも事実だろうが、ともかくも渾身の1600万円である。独立に向けた福島の本気度が伺えるエピソードでもある。

ついに独立。『麺匠 えい蔵・和蔵』オープン。

1600万円。資金としては申し分なかったが、慎重を期した。「プロ店長」を派遣し、業績の拡大などを図る人材支援サービスの「(株)リンクワン」に入社。店舗経営のノウハウを実践のなかから修得した。
「その時、プロ店長としてラーメン店を2軒、経験しました」と福島。ラーメン業態への挑戦もその時の経験があったからである。
ただし、普通のラーメン店で終わるつもりはなかった。だから、お酒も出せるラーメン屋をコンセプトにした。そのコンセプトをもとにいよいよ福島プロデュースの1号店がオープンする。その後、株式会社リンクワークを設立。「30歳まで起業する」という思いを実現させている。

向かうべき道。

2013年8月現在、(株)リンクワークは、『麺匠 えい蔵・和蔵』を中心に、都内に6店舗を展開している。今後の方向も聞いてみた。
「出店するのは簡単ですが、今はそれより人と組織、労働環境を大切にしたいと考えています。正社員が10名、アルバイトを含めると50名という規模になりましたから、ここでちゃんとした軸をつくっておきたいんです」。
ホームページの作成などを含めた戦略的な部分もあるが、労働条件の整備などにも注力したいとのこと。独立支援のプロセスもやる気のある従業員のために、整えておきたいという。
しかし、なかでも驚いたのは介護にも進出しようとしている点だ。その理由も福島らしい。「介護事業で独立したいというスタッフがいるんです。そいつの夢の実現のためになんとかしたいな、というのが介護事業へ進出する動機です。もちろん、むずかしいことはわかっていますが、『食』というのは介護でも重要なキーワードですから、私たちのチカラが活かせるはずだと思っているんです」。
目が輝いている。福島と話をしていると、こちらのテンションまで高まる。意欲はもちろんだが、人に対する優しさ、芯の強さが伝わってくるから尚更だ。
ここまでの軌跡のなか、福島は、このサイトで伝えられないほど、さまざまな苦労も重ねてきた。それがいま「芯の強さ」「心の優しさ」となって表れているような気がする。
福島がつくった会社の理念は、「接人」。「人様あっての自分だから、関われる全ての人を大切に、皆を幸せにしたい」という意味だそうである。
まだまだ会社も、経営者も若い。
そんな会社の「接人」という理念が、多くの人を幸せにする日が待ち遠しい。

思い出のアルバム
 

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