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第4回 ワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社 代表取締役社長 桑原豊氏
update 08/03/18
ワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社
桑原豊氏
ワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社 代表取締役社長 桑原豊氏
生年月日 1958年、東京都出身。
プロフィール 昭和53年株式会社すかいらーく入社、エリアマネジャー就任。昭和58年株式会社藍屋入社。藍屋の創業に携わり、第1号店店長に就任、生産部長、商品開発部長、営業部長就任。平成10年ワタミフードサービス株式会社(現ワタミ株式会社)入社。平成10年同社営業本部長就任。平成11年同社常務取締役営業本部長就任。平成16年ワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社代表取締役社長COO就任、現在に至る。
主な業態 「わたみん家」
企業HP http://www.wataminchi.jp/
クリエイティブマネージャーを育成し、全国で「わたみん家」300店展開を目指す。ワタミグループの社員の独立を支援するというミッションを掲げ、「わたみん家」を全国で125店展開するワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社。設立から3年間、急ピッチで出店を行ってきた同社では現在、次のステージを目指すためのプロジェクトを進行している。

多くの人が集う存在感のある店を作りたい

 東京タワーが完成し、野球界では長嶋茂雄が華々しいデビューを飾った昭和33年、桑原氏は東京・浅草に産声を上げた。戦後高度成長時代のさなかにあって、街は明るく、活気にあふれていた。商店を営む桑原氏の実家では、いつも多くの人が出入りしていたそうだ。「パタっと人が来なくなる休業日が、祭りの後のような感じがしてたまらなく嫌だった」と桑原氏はいう。
 それから数年、桑原氏が高校へ進学する頃になると実家は多摩へ転居し、両親はカフェレストランを営むようになっていた。高校は進学校だったが、多感な思春期を迎えたせいか決して優等生ではなかったという。多くのクラスメートが当然のように大学への進学準備を進める中、彼だけがその空気に馴染めず悶々としていた。
 そんなある日、両親の営むカフェを手伝っていた時のことだ。自分の将来に確信を持った瞬間が訪れた。「自分がやっていて一番楽しいこと、それは多くの人が集う存在感のある店を作ることことだ」と。もちろん両親からの影響は否めない。ただそれ以上に、桑原氏は自身の原風景への想いが強かったのかもしれない。「カフェの技術を習得して、店舗を持ちたい」そんな固い決意は、大学への進学という選択肢を消し去る機会となった。

チェーン店で世の中を豊かにする

 高校を卒業し、一杯250円で日に30万売り上げるコーヒー店に就職した。夢の実現へ向け第一歩を踏み出したのだ。通常3年の経験がないとコーヒーを入れることが出来なかったが、店に掛け合い、1年間で技術習得できるよう交渉した。働きながら技術を習得する毎日。もちろん独立へ向けた資金も調達しなければならない。充実すればするほど圧倒的に時間が不足していた。そんなある日、「すかいらーくの店長職の給料がいいらしい」という噂を耳にする。これで自分の店舗を持つという夢にまた一歩近づける、面接会場へは自然と足が向いた。結果は採用、ホールへ配属された。
 「自分には出来る」そんな自信にみなぎっていたが、はじめの2ヶ月間は結果が出せずにいた。自分が入るとうまく回らなくなるのだ。そこで原因を突き詰め、持ち前の探求心とバイタリティ、そしてフレキシブルさで3ヶ月目には見事に改善した。
 実際、すかいらーくの店長職は、採用・教育など幅広く権限がありとても魅力的だった。充実した日々が続く中、桑原氏の関心は新店舗開発にまで及んでいた。チェーンレストランの構築にやりがいを抱き始めたのはその頃だったという。「チェーン店は地域の顔でありながらステイタスが足りない。本当は一番身近な形で世の中を豊かにするものなのに」。もちろん同じチェーン店でも、店長の力量次第で売り上げが上下する。ふと見上げた店の壁には数々の店長の顔。みな輝かしい笑顔をふりまいている。「自分ならどう店舗を運営するのだろう」と自問したが、次の瞬間「自分の写真を半年後にここに飾ろう」と固く決意した。

転機となった「藍屋」の立ち上げ

 新店舗豊玉店の立ち上げに携わり、店長に就任した桑原氏。その後23歳という若さでエリアマネージャーにまで一気に上りつめる。社内では若手のホープ。プレッシャーが無かったといえば嘘になるだろう。だからこそがむしゃらに仕事に取り組んだ。
 エリアマネージャーになって1年が経とうとしたある日、コンセプトからオペレーションまでを行う新業態に携わる機会に恵まれた。昭和58年のことだ。店の名は「藍屋」。洋食全盛期にあって和食をコンセプトとするファミリーレストランである。
 客単価が1000円という時代にあって、約2000円前後の単価展開は当初、客から敬遠された。物販からでも収益が欲しかったくらい苦労したと桑原氏は振り返る。オペレーションも十分に整備されておらず、料理を提供するまでに1時間以上かかった時期もあったという。全てが空回りしていたが、「美味しかったから、また来るよ」というお客様の言葉に励まされた。
 「藍屋」は少しずつ親しまれ、当初不十分だったオペレーションも改善されていった。そして3号店は大繁盛に。全ての店舗がようやく軌道に乗り始め、多店舗展開へ向けた準備が始まった。
 拡大を進める上で、桑原氏は藍屋の食材を造る工場責任者に任命された。当時の「藍屋」は物流システムが確立されておらず、店舗毎に仕入れを行っていたのだ。そのため一元化することが必須だった。
 行程の効率化にあたり、トヨタ生産方式の一つNPS(New Production System)を採り入れ、「顧客品質」「生産性」「マーケットイン商品企画」を積極的に浸透させていった。その後、株式会社藍屋に籍を移し、生産部長、商品開発部長、営業部長とキャリアを重ねていったが、1つの店を作り上げることの難しさを日々実感する毎日だったと桑原氏はいう。

渡邉美樹氏との出会い

 そんな中、運命的な出来事が訪れる。居食屋「和民」チェーンを統括するワタミの創業者・渡邉美樹氏に出会ったのだ。志の高さ、裏表のない誠実さが特に印象に残った。「つきあえばつきあうほどその魅力がどんどん深まった」と桑原氏は振り返る。その想いは渡邉氏も同じだったようだ。「一緒に仕事をしよう」との誘いが半年に渡ってあったという。こうして20年以上に渡ってお世話になったすかいらーくグループを退職する決意を固めた。平成10年のことだった。
 「社員の方は元気でガサツだけど、とにかく明るい。渡邉氏をみんなが尊敬している社風にも惹かれました。『地球上で一番たくさんのありがとうを集めるグループになりたい』という理念にも共感できましたしね。「すかいらーく」へ面接しに行った時と同じような新鮮な空気を感じたのを今も覚えています」
 転職を決めたのにはもう一つ理由がある。「和民」の長所が活かしきれていないのが心から気になったからだという。
 「当時『和民』には現在のような集中仕込みセンターはなく、店舗ごとに仕込みをしており、人材面、衛生面、店舗間の味のブレなどの課題が山積しており、それを整備することが急務でした。これは前職で取り組んできたことばかりだったのです」。老婆心からと桑原氏ははにかむが、飲食業界の苦労を心から知っているからこそ見逃せなかったのかもしれない。その後、ワタミの心臓部であるワタミ手づくり厨房の設立に大きな役割を果たした。
 平成16年には、ワタミダイレクトフランチャイズシステムズ株式会社の代表取締役社長COOに就任している。同社はワタミグループの社員の独立を支援するというミッションを掲げ、「わたみん家」を全国で125店展開している。「当時ワタミではフランチャイズ制度が発足しているにも関わらず、実績が数えるほどしかありませんでした。飲食を目指す多くの方が、最終的な目標を『独立』に置くなら、こうした方々が夢を持てるような環境を提供しなければなりません。今後さらにクリエイティブマネージャーを育成し、全国で「わたみん家」300店展開を目指したい」。たくましい経営者と強い店を育てる業態と制度。ワタミダイレクトフランチャイズシステムズの快進撃はさらに続く。
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