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第400回 株式会社どん 代表取締役社長 長岡祐樹氏
update 13/10/08
株式会社どん
若月光博氏
株式会社どん 代表取締役社長 長岡祐樹氏
生年月日 1964年1月11日
プロフィール 大阪府柏原市に生まれる。3歳年上の姉と両親の4人家族。中学1年生の時、父と母が離婚。以来、母の下で育てられる。「吉野家」人生は、アルバイトからスタート。店長、エリアマネージャーはもちろん、自ら希望し人事の仕事も経験、海外子会社の社長にも就いている。不採算店を次々、再生させてきた手腕が評価されたのだろう。再生の切り札として、株式会社「どん」に送り込まれ、常務、専務を経て、現職の社長に就任する。
主な業態 「ステーキのどん」「ステーキハウスフォルクス」「しゃぶしゃぶどん亭」「don・イタリアーノ」
企業HP http://www.steak-don.co.jp/
昭和18年、第二次世界大戦の砲弾立ちのぼる戦地において、戦友2人は、「無事に日本に帰ることができたら、お互いの子供たちを結婚させよう」と約束したそうだ。「無事に帰ることができたら」この約束には、互いを思いやる切なる願いも込められていたはずである。

昔ながらの、長岡家の教育。

「『せからしい』と良く怒られた」と、子ども時代を振り返って長岡は笑った。
戦地において約束した2人の祖父は、復員後、約束通り2人の子どもを引き合わせた。それが長岡の父と母。姉が生まれ、そして長岡が生まれた。
「女系家族だったこともあって、私が生まれた時には「でかした」と褒められたと母は言っています。まるで昔のTVドラマそのままで笑ってしまいますよね。私は男と言うだけで期待をかけられ、母にも、祖母にも鍛えられながら育ちました。」「でも、ぜんぜんじっとしていない子だったもんですから、「せからしい」と」。
時代背景もある。長岡が生まれた1964年は復興の足音がいやがうえにも高まっていった東京オリンピック開催の年である。戦前と戦後、教育も変わる。その意味でいえば、長岡家の教育は昔ながらのものだったのだろう。
祖母にすれば、周りの子どもたち全員が「せからしく」映っていたのではないか。だから尚更「せからし」と孫を叱った。
「女性は弱いから手を出してはダメ、年下はいじめるな」は母の躾。
だからケンカ相手はもっぱら上級生。負けて帰ったらきた時には「悔しかったらもう一回やってこい」と息子を送り出したそうだ。
長岡が中学に入学したその日、父は家庭を捨て出て行った。その後離婚に至るのだが、いきなり母子家庭となった。母は、宅建の資格を取るなどし、昼間は会社に務め、夜はスナックで働き、多い時は4つの仕事を掛け持ちし、女手ひとつで長岡を育てることになる。
その言葉を聞いたのはいつだったろうか。酒の弱い母が、酔っ払って帰ってきた時のことである。普段、気丈な母が「死んだほうがまし・・・」と寝言でつぶやいたのである。 母の寝言に聞き耳を立てていた長岡少年は、どんな思いでその一言を聞いていたのだろうか。

少年、長岡に与えられたミッション。

母が仕事を始めると、食事の調理当番が長岡の役割となった。「食費の配分を上手く計算できないから、調理当番がまわってきたんです」。姉は、買い物係。
中学に入学したばかり、そんな少年が、家族のために慣れない料理と格闘する。遊ぶ時間よりも、洗濯物を取り込んだり、部屋の掃除をしたり、家の仕事が自分の責任となる。だが、長岡は、何ひとつ苦にならなかったと言っている。それどころか、嬉々として料理や家事に向かっている。話を伺っていると、そんな風景が思い浮かんできた。
「母がつくってくれた料理を思い出したり、料理の本を参考にしたりして。もちろん、美味しかったかどうかは、わからない。洋食を期待して姉が買ってきた材料で肉じゃがを作ったり、期待も裏切ったと思います(笑)それでもね。疲れて帰ってきた母が、私のつくった料理を「おいしい」と言って食べてくれるんです。それが嬉しくって」
「おいしい」。母の一言が少年にとっては何よりのご褒美だった。
中学2年の時、姉が調理担当に。私は代わりに朝刊の配達を始めます。家族3人のなかで、男は長岡ひとり。男と言うことを意識すれば、女である母も姉も守るべき存在。「男は外で金を稼ぐものだ」と言う祖父の教えを全うした。
その後、長岡は大阪の高校へ進学。しかしそれは長くは続かなかった。何故なら翌年の1月つまり高校1年の冬に高校を退学するからだ。
高校1年の夏、朝夕刊の配達、集金、購読者の勧誘と仕事を増やしていく。仕事で稼ぐことが長岡の生きがいとなっていた。
学校どころじゃない。それが長岡の思いだったに違いない。

北海の地で。

高校在学中にも関わらず、長岡は、新聞配達の会社で社員になっていた。16歳。月に50万円も稼いでいた。「でも、ちょっと稼ぎすぎですよね。それで、母に疑いの目を向けられるんです」。
母を楽にさせたいという思いが空回りする。8ヵ月、正社員として勤務するのだが、そののち突然、北海道に渡る。
「馬がいる牧場ではたらきたくなったんです。でも、紹介された牧場にいたのは、牛ばかり。しかも、メスですから毎年出産です。朝は4時起床。休みなどありません。食事と寝るところは支給されていましたが、給与は1〜2万円です。なんなんだ、ですよね。でも、それは良かったんですが、ただ、相手は牛でしょ。コミュニケーションが取れないんです(笑)」。
「でも、不思議なもので、付き合いが長くなるとだんだん可愛くなっていくんです。一頭一頭、顔も紋様も違うんですが、その違いがわかり、識別までできるようになります。ただ、コミュニケーションができるようになっても、仕事が楽になるわけではありません。たとえば、冬ですね。雪のなかでも放牧させなければ、いい乳がでないんです。もともと牛の体温は高いもんですから、極寒の北海道でも耐えられるんですが、こっちは人間ですから、もう寒くて、寒くて。それでも、18歳まで牧場ではたらきました。18歳で大阪に戻るんですが、仕事がイヤになったわけではなく、祖父の具合が少し悪くなったからなんです」。

帰省と吉野家。

大阪に戻った長岡は、喫茶店の「バーテン募集」を見て、アルバイトを開始する。オーナーは競輪の選手だったそうである。
「オーナーは遠征で不在がちなので、店の運営は私に任せてくれました。売上を伸ばす為に、ランチメニューを始め、モーニングサービスも始めました。その分売り上げは増え、給与は言い値でした(笑)」。
オーナーの弟さんが電気工事業をスタートさせたのを受け、電気工事の仕事もしました。ところが、「雨の日は仕事がないでしょ。だから強制的にパチンコ出勤。それが嫌で電気工事の仕事を辞め無職になります。当然母への仕送りは途絶え、彼女の住まいに転がり込んで、好意に甘え堕落した時間を過ごしました(笑)」。
そんなある日、「女は守らなきゃいけない」という母の言葉を思い出す。「それで、アルバイトニュースを買ったら、吉野家が載っていたんです」。

吉野家一筋の戦い。

「アルバイト時代ですか?丸2年時給は上がらず、ずっと600円です。36時間勤務を終え、3時間休んで24時間勤務といった、まさしくフル稼働でした(笑)。週給6万5千円その当時のノルマでした(笑)」。「それでも全然つらくありませんでした。今から思うと既に吉野家の仕事の楽しさに取りつかれていましたね」。
やがて結婚を機に社員へなる事を決意し、さまざまな事を経験する。前任店長の辞職でチャンスが回ってきた。入社半年目で店長職を任される。「人がいなくていきなり23時から翌15時勤務でした(笑)。まあ慣れたもんですよ」
アルバイトを増やし、楽しい雰囲気で協力し合う店を作ったが、限界を感じる。
いわゆる「馴れ合い」である。組織にはあってはいけないことだったと反省する。2店舗目では、徹底したスパルタ教育で秩序と向上心のある組織を。3店舗目は、「権限移譲」でアルバイトが自ら考え動く組織を目指す。
「店舗で学んだのは、ストアマネジメントよりヒューマンマネジメントですね。良い経験を積ませていただきました」。
交通事故で、右手が動かなかったリハビリの2年間は、本部の仕事も経験したそうだ。店舗復帰後は、鬱憤を晴らすかのように、仕事に没頭。評価を勝ち取る事のみを追い求めた。「人として一番嫌な奴だったと思います。取り残された感を取り戻す事のみを追い求めたのでしょうね。若さでした(笑)」
この頃は部下達から「長岡組」と言う名称で呼ばれ、出世する為の登竜門と思われていたそうだ。
とにかくがむしゃらに働いた。四国の新規店舗立ち上げでは、丸2カ月家に帰らなかった。
阪神大震災では、陣頭指揮をとった。当時の安部社長に「よくやった」と褒めて頂いたのは、いまでもひとつの勲章だそうだ。人事制度に首を傾げ、自ら人事部に乗り込んだこともある。
2002年38歳。名古屋で営業部長に就いた。当時最年少部長である。
プライベートでは昔付き合っていた彼女とは別れ、違った女性と結婚するが、こちらも長く続かなかった。
一方、会社のなかでは次々に要職を任されるようになる。台湾吉野家の社長も経験した。赴任2年目にSARSが起こり、SARSを乗り越え業績を立て直したかに思えた時、今度は狂牛病が発生した。
さまざまな人にもあった。最初に配置された岡山では、「社会人とは何か」を教えられ、マネジメントも、経営者の有り様も、すべて、出会った上司から教えてもらったものである。
不採算事業の立て直しが、いつしか仕事になった。安部社長からは「お前が行って、ダメなら諦めるから」と送り出されたこともある。
これらが吉野家での戦いの一部である。いつのまにか、長岡は、吉野家の切り札になっていた。今回、「どん」の社長を任されたのも、そのため。「どん」という会社の白黒をハッキリとつける、そういう意味合いがあるのかもしれない。むろん、長岡は、やるつもりである。「もう少し、時間はかかりますが、そのうち打ってでますよ」。そう言って笑う長岡の顔には、ゆとりさえ伺えた。
「フォルクス」から「どん」に経営が代わり、更に「吉野家」に経営権が移り、長らく低迷しているステーキレストラン。長岡に言わせれば、再生の出口はもうすぐそこと言うことだろうか。

吉野家、一筋の人生。そのスタートとは。

最後に、エピソードを一つ紹介する。 ある日のことである。長岡は飲酒運転し、事故を起こしてしまったそうだ。幸い、事故は大事には至らず、会社からもきびしい処分は下りなかった。
「まぁ、そういうこともあるわ」といって慰めてくれる上司もいた。
ところが、事態は急展開する。
「たまたま、取締役の田中さんが上司として赴任してきたんです。赴任早々、『辞めろ』とすごい剣幕で、怒るんです。『お前は、責任をとっていない。懲罰会議にかける。かけるとクビになるから、いまのうちに仕事を探しておけ』と。たしかに、私が悪かったわけですから、そう言われても仕方ない。でも、いきなり辞めろと言われても」。
そのとき、長岡はどういう気持ちだったんだろう。心から反省もしている。長年、勤め、貢献してきたという自負もどこかにある。
それらをいっさい考慮しない上司に反感を持たなかったといえばうそになるだろう。「こっちから辞めてやる」ぐらいは、思っていたのではないだろうか。
しかし、この時のことがあって、長岡は、「それ以来、ずっと恩返しです」というようになる。ことの顛末はこうだ。
「とりあえず、クビにされるわけですから、転職せなあかん。転職雑誌をみて、電話をかけるんです。吉野家でコースマネジャーやっています。そういったら、たいてい来てください、っていう返事です。でも、面接に行って履歴書みせるでしょ。すると、担当者の態度が明らかにかわって、話を聞いてくれているのか、聞いていないのかもわからなくなるんです。それもそうですよね。高校、中退。これがいかんのでしょう。いくら吉野家でコースマネジャーしていました、といってもぜんぜん評価されなくなります。1社だけじゃない5社、10社と、受けるところすべてそうです」。
「その時に改めて、『吉野家』という会社を知った気がしました。私のような、中卒で、何も知らない奴を採用し、そのうえ信頼して、ドンドン仕事を与えてくれる。学歴ではなく、なんと人にフォーカスする会社だったのか。『オレには吉野家しかない』、そう思うのに時間はかかりませんでした。ほんとうの意味で吉野家に入社したのは、あの時だったかもしれません」。
改めて「吉野家」という会社の在りようを理解した長岡は、「見習いで良いからもう一度チャンスを」そう願い続けた。
懲罰の結果が出た日、上司の田中から伝えられ結果は、「お前みたいな失敗だらけの奴は、同じ失敗を後輩に起こさせない為に、教育店の店長をやれ」。
厳しい処分を覚悟させながら、本当の反省を促した田中の前で、寛大な処置に深々と頭を下げ号泣する長岡の姿こそ、田中の求めた「反省」であったのだろう。
「感謝」の二文字がない仕事も、人生も、独りよがりにすぎないからだ。独りよがりはむろん「油断」も生む。もう一度、おなじ過ちをさせないための、きびしい指導だったような気もする。
長岡は、こういう話もしてくれた。「職位で人を動かしたり、キャリアで人を動かそうという人もいます。でも、それは、明らかに間違いです。職位でも、キャリアでもなんでもない。人は心で動かすんです」。
人が人を動かす。古い浪花節に聞こえるが、これだけは、いまも間違いない事実である。人を動かすというのは、右に左に動かすことではない。その人の「心」を動かすことに尽きる。
長岡はそれを、身を持って体験したがゆえに、次々、再生の一手を打てるのではないか、人が彼の下で動き、育つのではないかと思った。
吉野家、一筋の人生。それは、感謝の気持ちで貫かれているともいえる。

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