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第403回 スピル株式会社 代表取締役社長 穂崎芳幸氏
update 13/10/22
スピル株式会社
穂崎芳幸氏
スピル株式会社 代表取締役社長 穂崎芳幸氏
生年月日 1963年1月6日
プロフィール 東京に生まれ、千葉で育つ。拓殖大学中退後、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。海外で生活したことで改めて日本の良さを理解する。帰国後、有限会社を起ち上げるもすぐに廃業。当時まだ金融が主体だった「際コーポレーション」の子会社に入社。絵画の販売会社を経て、デリバリーサンドウィッチのショップを立ち上げる。だが、こちらも1年も経たない内に閉店に追い込まれる。北九州に一時、暮らし、そちらでホルモン文化と出会う。これが、のちの「アジア食堂」の原点となる。
主な業態 「アジア食堂」「ホルモン闇番長」「みやこ屋」「韓豚門」「焼肉屋」
企業HP http://www.sple.jp/
スピード&シンプル。だから、スピル。「アジア食堂」「ホルモン闇番長」などの人気店を擁し、快進撃を続けている「スピル株式会社」の社名の由来である。2001年の設立から12年たった2013年7月現在、千葉市を中心に7店舗を展開中。目標は、まず関東一円に20〜30店舗のローカルチェーンを築くこと。最終目標は全国をフィールドに100店舗以上のメガチェーンを形成することだという。今回はこの「スピル株式会社」の代表取締役、穂崎芳幸氏に話を伺った。

子どもの頃の穂崎の話。

穂崎が生まれたのは1963年1月6日。東京都生まれ、千葉育ちである。男3人兄弟の長男。「父は千葉の市原出身、母は九州の小倉出身です。父はタクシーの運転手をしていました。ギャンブルとは無縁の父でしたが、酒は大好きで、とにかく怖かった。言葉より先に手がでるような人でしたから(笑)」。
「私自身は、ふつうの少年でした。中学に進学するまでは背も低く1メートル38センチしかなかった。かわりに中学になると毎年10センチずつ伸びて、いまに至ります」。
中学生の頃の穂崎は、群れるのがきらいで、これといったグループにも属していなかったそう。子どもの頃からどこか自立した少年だったとのことである。
「いま思えば、中学自体が私のガラじゃなかったんでしょうね。公立だったんですがエリート中学で、のちに東大に合格する人間も少なからずいました。わざわざ越境してくる生徒もいて。学校が終わると塾じゃなく、予備校に通うような生徒が大半でした。私は、勉強はできませんでしたが、それなりに運動神経は良くって入ったサッカー部でも中心選手でした」。

拓大紅陵、花の1期生のはずが。

中学はハダに合わなかったが、高校は逆にピッタリマッチした。穂崎が進んだのは「拓大紅陵」。1期生である。
希望に燃えて入学した学校は、全国から不良が集結したような学校だったそうである。「もともと男女100名ずつ募集していたんです。でも、入ってみてビックリ。話がまったく違って、ぐるり全員、男子。女子の影すらありません(笑)。しかも、顔に不良とレッテルが貼ってある奴ばかり。そんな連中600名でスタートしたんです。共学のはずが、3年間、男子ばかりですからたまったもんじゃありません」。
1年間で、1期生600人のうち10分の1ちかくの50名が退学。停学者数は150名にものぼった。おもしろい話がある。当時、穂崎は1年目から学生寮に入っていたが、そこがのちに「鑑別所」と称されるようになるのである。「最初は、普通の寮だったんですが、両親にサジを投げられた不良どもが、次々、収監されてくるんです」。たしかにたまったもんじゃない。だが、穂崎も負けてはいなかった。野球部に入っていたが、2年で肩をこわして退部。それ以降は、立派な不良生活を送っている。

的屋+暴走族。不良最強のセット。

「野球部を退部してからは、いろんなアルバイトをしました。なかでもイチバン性にあったのは的屋のバイトです。的屋でバイトをして、夜な夜なバイクに乗って駆け回る。的屋プラス暴走族。当時でいえば、不良の最高セットです」。そういって、当時を懐かしむようにして笑う。もっとも肩をこわしていなければ野球を続けていたかもしれない。のちに甲子園にも出場することになる高校である。
「笑ってしまいますが、1年目からシード校です。なにしろ全国から優秀な奴がスカウトされ、集まってきましたから」。練習ももちろん厳しかった。1期生で、先輩はいなかったが、それでもスポーツ独自の理不尽さもいやになるほど味わった。ただ、あの時があったから、いまも少々のことではへこたれないのだという。
さて、波乱にみちた高校生活もやがて終わる。今度は、希望に満ちた大学生活が始まる…はずだった。「大学の校舎は北海道にありました。大学生になれば、『ギターでも弾いて』なんて思いながらフェリーに揺られ、北海道に向かいました。でも、時刻表を間違えて、1日遅れで学校に着いた時には入学式は済んでしまっていました。それどころか…」。
大学でも寮に住むはずだったが、入学式に遅れてしまったため、穂崎が着いた時には寮はぜんぶ埋まってしまっていた。学生課に駆け込み、みつけてもらったのが「洗心寮」という名の寮だった。

空手部、入部。

「その寮に着き、ようやく安心して部屋でゴロリとしていた時です。いきなり学生らしき奴らがずかずかと入ってきて『顔を貸せ』と言うわけです。『いま着いたばかりで、疲れているから、いやだ』と言ったら、いったん退散したそいつらが、貫録のある奴を連れてきて、そいつが『俺が、空手部の主将や』といかついで顔でいうんです」。
「洗心寮」が、空手部の寮だと薄々、悟り始めた時にはもう強引な勧誘を受けていた。「いやぁ、ぼく、ギター持ってきているんです。大学では軽音楽でもしようかな、なんて思っていまして」。いつのまにか敬語になっていた。それでも、精一杯、拒否したつもりだった。笑って誤魔化そうともしたが、だれも笑ってくれなかった。それどころか、「俺が主将」といった学生が、小声で、俺も昔はそうだったみたいな話をする。逃げ道はなくなった。4年間の空手修行が、決定付けられた瞬間だった。

シドニーでみた、日本。波乱万丈な人生のスタート。

「1年はゴミです、ゴミ。奴隷にもなれません(笑)。3年になってようやく人間で、4年で天皇です。でも、私は、結局、天皇にはなれませんでした」。
高校時代の的屋のバイトでも、暴走族でも、それなりに認められた。気合いも、根性もあったから。だから、空手部でも入ったからには、負けなかった。2年の時には副支部長にまでなっていた。しかし、その2年の時、不祥事が発覚し、責任をとって辞めさされた。
「理不尽と言えば理不尽ですが、仕方ありません」。
大学を中退したというより、空手部を辞めたから、もう穂崎を縛り付けるものはなにもなくなった。自由である。日本に愛想をつかしたわけではなかったが、次の目的地を探すように、海外に飛び出した。オーストラリアのシドニー。ワーキングホリデーで、1年間、生活した。
多くの経営者が、若いうちに海を渡っている。穂崎に「海外で暮らした経験は大きな財産になりましたか?」と尋ねてみた。「もちろん、そうですね。ただ、私は外国がいいというのではなく、向こうで暮らすことで逆に日本の良さを認識することができた。これって、ぜったい日本にいてはできなかったことだと思うんです。そういう意味で、シドニーで暮らしたことは私の人生にとって大きな意味を持つと思っています」。1年後、帰国。
帰国後、穂崎は、ファッション関連の会社を立ち上げた。このあたりから、ある意味、波瀾万丈、ある意味、独創的な穂崎の人生がスタートする。

ホルモン文化に出会うまで。

「有限会社を立ち上げたんですが、1年でポシャってしまいました。その後に『際コーポレーション』の子会社に入社します。当時は、まだ金融がメインだった頃です。でも、こちらも1年も経たずに退職し、絵画の会社に転職しました。こちらの会社を退職したのが、28歳の時。そして、デリバリーサンドウィッチのショップを立ち上げたんです」。
穂崎にとっての「飲食」第1号店となる、このデリバリーサンドウィッチ店は高校や大学がちかくにあったことで当初から繁盛した。半年後に宅配バイクを購入し、本格的にデリバリーを開始するまでになっている。しかし、繁盛すればするほどオペレーションがついていかなかった。「注文の嵐にみまわれ、クレームの嵐を起こしていた」と穂崎。その暴風が1週間も続いたそうだ。結局、1年もたたないうちに閉店。オペレーションの重要性に気づいたのがせめてもの救いといえたが、事業失敗により、借金という現実的な問題が残った。「返済するために内装屋をはじめます。順調で、すぐに借金は返済。こちらは10年続けました」。その後、北九州で1年間暮らしたりもした。そこで、「ホルモン文化」に出会ったという。
この「ホルモン文化」との出会いによって、穂崎はいよいよ本領を発揮する。

失敗は成功の始まり。

北九州から、千葉に戻った穂崎は、さっそくホルモンの文化を注入した「アジア食堂」をオープンさせる。これが、2001年のこと。
当初は25坪でオープンしたが、3ヵ月も経たないうちにウエイティングがでるようになり、60坪の広さを持つテナントに移転。そこがいまも1号店として残っている店である。
こちらも人気店となり、2013年現在、千葉を中心に7店舗の店を展開している。「アジア食堂」「ホルモン闇番長」など、いずれも評価が高い店ばかりだ。
さて、4度目の挑戦で手に入れた「成功」の二文字を、穂崎はどのように捉えているのだろう。現在の目標は、まず関東一円に20〜30店舗のローカルチェーンを築くこと。そして、最終的には、全国をフィールドに100店舗以上のメガチェーンを形成することである。
苦労を知っているがゆえに、穂崎は強い。これからの若者に対しては「独立はけっして甘いもんじゃない。簡単に独立できる、そんな間違ったイメージで飲食に来ても失敗する」と手厳しい一言を忘れない。だが、失敗してもまた立ち上がる。そういう強い意志があれば、「失敗」もまた「成功」のはじまりだ。たぶん、穂崎がいわんとするところは、そこだ。

思い出のアルバム
 
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