PLATE Organic&Grill オーナーシェフ 尾前 武氏 | |
生年月日 | 1970年1月3日 |
プロフィール | 熊本県人吉市に生まれる。高校を中退し、自動車整備工場で勤務。交通事故に合い、1年以上、病院生活を強いられる。退院後、短時間勤務が可能なダイニングバーに勤めたことがきっかけで、料理の世界に入る。株式会社グローバルダイニングで同社を代表するレストラン、「タブローズ」、「ステラート」の料理長を務めたのち、和食の鉄人、森本正治氏に師事。2012年11月10日、西麻布に「プレートオーガニックアンドグリル」をオープン。イタリアンをベースにした、「シンプル&オーガニック」料理を追求している。 |
主な業態 | 「プレートオーガニックアンドグリル」 |
企業HP | https://ja-jp.facebook.com/PlateOrganicGrill |
地図でみると、ずいぶん東京から離れている。九州新幹線が走り出したいまでは、半日程度で着くのかもしれないが、以前は、東京に行くといっても1日仕事だったに違いない。むろん、その逆もおなじである。
「フランスから帰国したときのことです。たまたまボランティアの話をいただきました。東京の赤羽にカトリック系のホームがあるんですが、夏休みでも帰るところがないホームの子どもたちを、なんにもないけど自然だけは豊富な人吉に招こうという企画があり、私はそのなかで料理を受け持つことになったんです」。
約40人の子どもたちがやってきた。3週間。子どもたちと一緒に川辺にテントをつくり、食材を探して料理をつくった。子どもたちの笑顔とともに、暑い夏が過ぎる。このボランティアが、尾前を東京にいざなうことになる。
「偶然ですが、子どもたちが東京に帰る数日まえに、フランスで知り合った友人から電話があって『日本で会おう』というんです。東京に行くといっても、当時はぜんぜんお金もないですから普通なら断っていたんですが、ちょうど子どもたちが帰るバスがあったので便乗させてもらったんです(笑)」。思わぬ、褒美。だが、この東京行きは、褒美以上に、尾前の人生を決定することになる。尾前、24歳の時の話である。
尾前が生まれたのは、1970年1月3日。出身地は、熊本県人吉市である。父は、自動車整備工として市内の工場で勤務していた。兄弟は2人。尾前が6歳の時に両親と離婚。以来、尾前少年は、母がつくる食事を知らない。
「私が6歳ですから、兄は11歳。5つ離れていても、よくケンカをしました」。ケンカの時には「母が出て行ったのはおまえが生まれたからだ」という辛辣な一言も投げかけられたそうだ。「兄はそうですね、なんにもしない。してくれない。だから私は、6歳の時から食事をつくっていました。そうしないと食べるものがないから(笑)」。
6歳でスーパーに出かけ、肉と野菜を買って、それを炒めた。小学3年生からは新聞配達も始めるのだが、その時にはもう、尾前家になくてはならない立派なシェフになっていた。洗濯も、掃除も尾前の仕事になった。
「つらくはなかったですか?」。もし、こう問うていたら、「つらかった。でも、つらいといっても誰も何にもしてくれないから」という答えが返ってきたはずだ。ある意味、それだけ尾前は、孤立していたことになる。
運動会に父が来てくれたのは1回きり。校内ではなく、2人で車のなかで弁当を食べた。それがかえってつらかった。
小学校から剣道もやっていたが、新聞配達をするようになると、その時間もなくなった。
「夕刊だけでしたが、月に4000円。お小遣いには不自由しなかったですね」。
農業系の高校に進学した。食品の製造や栄養学を勉強した。「でも、結局、中退してしまうんです。当時は、ちょっといきがっていて悪いこともしていましたから」。
母と12.年ぶりに再会したのは、この時。
「再婚した人が警察関係の人だったようで、私のことも聞いていたようなんです」。
会ってもうつむいているだけだった。顔をみても分かる気がしなかったから。だが、母が一言、口を開いたとたん分かった。それは、間違いなく記憶のなかにしまいこんでいた母の声だった。
しかし、母と再会しても、尾前の退学の決心は揺るがなかった。父とおなじ整備士になるべく、実家を離れた。「熊本市内の整備工場で勤務しました。住み込みです。ほんとうはもっと続けていきたかったんですが、1年半ぐらいのときに、けっこう大きな事故にあって入院生活を強いられたんです。この生活が1年以上もつづいたもんですから、退職することにしました」。
「両足の膝のところにあるサラが両方割れて。足の甲も3ヵ所。足の指も7本、折れてしまいました。それまでけっこう悪さもしていた私ですが、あのとき入院したことでずいぶん考え方がかわりました。半年は寝たきりで、トイレにもいけません。まだ若い10代ですから、はずかしくて、くやしくて。それでも、少しずつ治ることで、少しずつ前に進んでいるような気にもなりました。もし、この事故がなかったら、まだフラフラしていたかもしれません。そういう意味では、いいきっかけをつくってくれたといまは前向きにとらえています」。
退院後は、いったん人吉市にもどった。市内のバーで勤務したのはこの時。
「足が、まだ不自由でしょ。短時間しか無理だと思っていたんです。それで、人吉市内のバーではたらかせていただきました。これが、結局、私の飲食人生の始まりなんです」。
「いいオーナーでした。店も、かなり流行っていた。このオーナーの下で18歳から4年間、仕事をさせていただきました。『調理免許を取りなさい』と言ってくれたりして、ある意味恩人です」。
「22歳の時に、本格的にフランス料理を勉強したいという思いがつよくなりオーナーに相談しました。すると、掛け持ちでしたが、フランス料理店でも仕事ができるようにしてくださいました。そのあと、24歳の時ですが、どうしてもフランスを観たくなり、店を辞めて3ヵ月だけでしたがフランスを旅します。イギリスやオランダ、イタリアにも行きました」。
料理をはじめて6年、整備工場で油まみれになっていた少年は、料理の世界に魅了され、海を渡りフランスに行くまでになる。
ともあれ、まだ飲食のスタートラインについたばかり。フランスから戻ってきた青年、尾前は、冒頭に書いたように、ある夏の日、ボランティアに専念する。
尾前を東京に呼んだのは、フランス時代の友人だった。有能なカメラマンで、都内にスタジオを持っていた。
「彼が素敵な店があるからと言って、連れていってくれたのがタブローズでした。食事をしながら、『これから、どうするんだ』と彼はいうんです。『もし、東京に出てくるなら、最初はオレのスタジオに寝泊りしたらいい。仕事がうまくいくようになったら5〜6万円のアパートを探せばいいじゃないか』とも言ってくれたんです」。
それで、東京で生活することが決まった。ただ、どこではたらくか悩むところである。しかし、尾前のなかにはもう答えが用意されていた。そう、翌日、「タブローズ」に押しかけたのである。
「タブローズ」とは、いうまでもなくグローバルダイニングの旗艦店の一つである。
店長は、グローバルダイニングの雄である新川義弘氏、料理長はのちにアイアンシェフ森本に挑むことになる天才、渡辺明氏。
「私が入社したのは、まだ長谷川実業の時代です。タブローズの月商は、当時3500万円でした。それを6人のコックと、4人のバイトで回していくんですから、そりゃ目もまわります。しかも、年々、月商はあがり、私が入社して3年経った頃にはもう、6000万円ぐらいになっていたのではないでしょうか」。
契約社員からのスタートだった。だから、どれだけ売り上げても月給は17万円。そういうしくみだったそうだ。それから11年、尾前はグローバルダイニングで、修業を重ね、飲食の戦士と呼ぶにふさわしい青年になっていく。
もともと料理のセンスに長けていたのだろう。3年で、なんと料理長に抜擢される。むろん最短。しかも、「タブローズ」の料理長といえば、グローバルダイニング全体の総料理という位置づけでもある。
「もう、緊張の日々です。なにしろ、渡辺さんのあとをつぐわけでしょ。それに、ホールには新川さんがいる。この2つだけで、相当なプレッシャーです。しかも、当時は、できる人がホールにたくさんいて。たとえば当時、最年少でソムリエの資格を取った女性スタッフもいたんです」。
プレッシャーはそれだけではなかった。「本日の、」とつく、たとえばスープ、お肉、お魚、サラダなどすべての料理を、毎日、考えなければならなかったから。「相当、鍛えられた」と尾前も言っているが、まさにこの時の5年間が、尾前をプロのシェフにかえたのだろう。プレッシャーに耐え切る、これもまたプロの証だからである。
11年間、勤務した尾前が、グルーバルダイニングを去るようになった背景には、1人の男が存在する。和の鉄人、森本正治氏である。
「当時、料理の鉄人というTV番組があって、私たちグローバルダイニングが挑戦者ということで、渡辺さんと森本氏の戦いが行われたんです。結果ですか? 残念ながら、森本氏の勝利でした」。さすが、鉄人である。天才、渡辺を凌駕した。この勝負をきっかけに森本氏との付き合いが始まった。
「当時、森本さんはニューヨークが本拠地だったんで、テレビの収録がある時、日本に戻られるんです。その度ではありませんが、翌日の戦いのための試作品づくりにタブローズの調理場をお貸しすることもあったんです」。
森本氏との関係が深まる。たまたま日本で、森本氏の店をリリースすることになり、パートナーとして森本氏は尾前に白羽の矢を立てた。要請に応え、尾前はグローバルダイニングを退職し、森本氏の下に籍を置くことになるのである。
飛ぶ鳥を落とす勢いのレストランチェーンを破った、1人の鉄人。その鉄人は、この試合のおかげで新たなパートナーをみつけたことになる。
2005年、森本氏がリリースしたのが、「レストラン森本XEX」。多忙な森本氏に代わり、オープンまでのさまざまな工程を管理したのは、尾前だった。
尾前によれば、「億単位のコストがかかった」ということだ。しかし、およそ2年後、森本氏がこの店から去ることになる。代わって、料理長を務めたのが、尾前だった。「初期投資が1億数千万円。だいたい7年で償却する予定だったものですから、7年は勤めて。それで、独立しようと思っていたんです」。2008年からは、店名も「レストラン尾前XEX」と代わっていた。しかし、2012年、尾前はその名も捨て独立の道をあゆむこと決断する。
「人吉で、とも思っていたんですが、ある人から『いままで店にいらしてくださったお客様にお礼をするのは、いまからだ』と言われ、東京で、もう全財産をはたいてお店をオープンすることにしたんです」。
この時の店が、2012年11月10日、西麻布にオープンした「プレートオーガニックアンドグリル」である。
最後に今度の予定も伺った。
「将来的には、アメリカに店を持ちたいと思っています。向こう、特にロスやサンフランシスコには、オーガニックをテーマにした店がたくさんあるんです。そういう、オーガニックの最先端の街で店を持つことで、日本にもいくつもの考えをフィードバックできるようになると思うんです」。
「オーガニックはまず食材ありき、です。だから私たち料理人が料理を追及するうえで、オーガニックというテーマは外せないと思っているんです。自然回帰というんでしょうか。農業、つまり生産者ですが、彼らと消費者を結ぶ窓口、私たちはこれから、そういう役目も担っていなかいといけないと思っています」。
「食」というテーマで、地方と都市が結ばれる。たとえば東京と九州。日本を飛び出し、九州とアメリカという図式があってもいい。
現在、日本のフードサービス企業の多くが、海外に進出しているが、ひょっとすれば、尾前の切り口の延長線上にある、日本の農家と世界をむすぶという発想が、海外で成功するいちばんの近道かもしれない。
たとえば尾前が育った人吉・球磨では昔から「球磨焼酎」と言われる、米で作られる焼酎があるそうだ。そういう日本の文化を象徴するような食材が、海外と日本をむすぶ強力な接着剤になる、そんな気がするからだ。
むろん、都会のテーブルにオーガニックな自然がならぶ、それもまたいい風景だ。
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