株式会社ロックウェル 代表取締役 中野光宏氏 | |
生年月日 | 1974年6月7日 |
プロフィール | 横浜市に生まれる。19歳、学生同士の共同出資で「バー」を開業する。22歳、小笠原諸島に渡り、父島で「バー」と「弁当店」をオープン。28歳で東京に戻り、中華街に新店を出店。現在、小笠原もちろん、鹿児島にも店舗を一つ構えている。2013年には、アミューズメント事業にも進出。「ボウリング場」と「450坪の大型まんが喫茶」の複合型アミューズメントスペースを厚木にオープン。「できる領域」をまた一つ拡大した若き経営者である。 |
主な業態 | 「ロックウェルズ」「赤い風船ボウリングクラブ」「小笠原ゲストハウス」他 |
企業HP | http://rockwells.co.jp/ |
中野は1974年、横浜市港南区に生まれる。中野家の長男で、2つ離れた弟がいる。小学4年生で塾通いをはじめ、学力がアップ。
中学からは体育教師でもある父の影響を受け、柔道を始めている。当時は、子ども達の数も多く、中野が通う中学では1学年に10クラスもあったそうだ。
そんな生徒数が多いなかでも、中野の成績も悪くはなく、スポーツもできた。横浜でも中堅クラスを超える高校に進学している。
「高校に進学してから、引越屋のバイトを始めました。浪人時代も最初はおなじバイトをしていたんですが、当時はバブルです。人手不足で…。このまま、言うことを聞いていたら引越屋になってしまう。そういう危機感を感じて(笑)、今度はカラオケ店でバイトするんですが…」。
ある意味、この選択が、中野の人生の、ターニングポイントとなる。
カラオケ店ではスグに頭角を現した。オーナーに引っこ抜かれ、店長になる。中野がマネージャーになると、店の売上は拡大した。大学受験は、完全にあきらめた。そんなとき、小・中がいっしょの、とある学生から声をかけられた。
「いまも親交があるんですが、サンクチュアリ出版の生みの親で『高橋 歩』という人物です。当時、彼はまだ学生だったんですが、千葉でバーをやっていて、その店を横浜でやらないかということだったんです。それで、私も出資し、学生たちでバー『ロックウェル』を開業しました」。
19歳の時である。スナックの居抜き。それでも保証金は450万円もしたし、14坪にもかかわらず家賃は月42万円だった。
「学生らでつくったバーでしょ。まぁ、仲間がきます。私たちも若いし、休みなくはたらいて、給料もとっていませんでしたから1年で借り入れていた1000万円を返済します。その後、吉祥寺と下北沢にも、出店するんです」。
好調だった。ただ、19歳。仕事だけに没頭できたのだろうか。「遊びたいとは思わなかったですね。借金を返済してからも、がんばれた理由は、自由に生きる、そのための布石だと思っていたからだと思います」。
自由という意味では共同経営者である高橋歩氏から受けた影響も多い。「彼は、根っからの自由人です」と中野。その高橋氏は、千葉を合わせ4店舗のバーを出店したあと、出版事業を立ち上げる。むろん、共同出資の中野も事業に参加する。これが、新たなターニングポイントとなる。
「当時、イルカがブームになっていたんです。それで、うちの会社でもイルカの本をつくることになって、それで私が『小笠原諸島』へ、出かけるわけです」。
いまでも、飛行機はない。船で24時間。船は1週間に1便だから、1度行くと1週間の滞在がよぎなくされる。
中野はその時、22歳の後半。ベンチャー企業の、いわば経営陣の1人である。
「小笠原に降り立って、もう、ここしかないと。そういう風に思って。それで会社を辞めて…」。思わず「え?」と口にしてしまった。中野が辞めるといったのは曲がりなりにも、19歳から3年半。共同出資で立ち上げてきた会社でもある。
「高橋とはいまも親交がありますし、当時、つくった出版社はいま、業界でも中堅クラスになっています。そういう意味では、結果オーライです。何より当時は、『好きなことをして食べていく』というのが、私たちのコンセプトだったわけですから、小笠原というステージでそのコンセプトを実践する、そこに意義があったんです」。
それが中野の答えだった。
小笠原にオープンした店の名は「クレヨン」。店は、40坪。家賃月40万円。貯金していた300万円と銀行からの借り入れ400万円を元手にオープンした。だが、思うようにいかない。地元の人たちにも受け入れてもらえない。新参者はキツイ目でみられた。
「もう、20年ちかくやっていますので、いまでは向こうにいる店長は、観光協会の役員をするまでになっていますが、当時は、ぜんぜん仲間に入れてもらえませんでした。客足も伸びず、月40万円の家賃にも届かない月もあったぐらいです。あの時、銀行から借金していなかったら、あきらめて島から離れていたかもしれません」。
1年、2年、3年目でようやく認めてもらえたそうだ。言葉でいうのは簡単だが、3年はそう短い期間ではない、「いちばん、辛かった」と中野が振り返る、その意味もわかるような気がする。
「店だけではなく、お弁当事業もやっていました。こちらも、3年目には独占事業になり、船で来られる1000人分のお弁当を独占的に販売できるようにもなりました」。
軌道に乗った。大好きなところで、大好きなことをやりながら、食べていく。借金も返済し、縛るものは何もなかった。だが、28歳、店を部下の店長に任せ、中野本人は本土に戻る決意をする。
「父の具合が悪くなったというんで、横浜にもどったんですが、意外に元気で(笑)。でも、一応、心配ですから、通える範囲の中華街に新たな店を出店しました」。
「小笠原での経験があったもんですから、バーなんだけど日本酒も、焼酎も用意しました。しかし、こちらも思い通りにはなかなかいかず、3年間はだめ。焼酎のブームがくるようになってようやく業績もアップします。そうですね。『焼酎の専門店』としては、中華街最古かもしれません(笑)」。
横浜「中華街」の店が波に乗ると、今度は、それもまた1000キロ程度離れた鹿児島に店をだすことになる。
「焼酎の専門店という感じだったんです。だから、おいしい焼酎をみつけてくるという目的で、鹿児島にも行って向こうで焼酎の蔵をまわっていたんです。でも、そのうちに焼酎づくりが盛んな鹿児島の繁華街に『焼酎専門店』がないということに気づいたんです。それでやってみればおもしろいんじゃないかな、ということで」。
ヒットすると意気込んで出店したが、波に乗ることなく、それでも、潰れることもなくいまに至っているそうだ。
この店の店長もまた「好きなところで、好きなことをして食っていく」という中野の仲間。中野の監視の目はもちろん届かないが、日々、彼、本心の笑顔で、客と接している様子が伺える。
鹿児島に店をだしてからも、試練も、幸運もあり、飲食の経験はもはや20年となっている。最後に、今後についても伺った。「うちには創業当時からもいっしょにやっている人間もいます。もっと組織化するようなことも考えていかなければいけないでしょうが、組織としてまとめていかないほうが気持ちいい。独立採算で、というのもちょっと違います。みんな小さい店ですから、マニュアルもない。そうですね、組織とか、そういうものからも縛られない、自由なはたらき方というのを実践していきたいと思っているんです」。
フリースタイルの中野らしい言葉。将来については考えているが、「結論ありき」の未来はつまらないということだろう。
小笠原には、ゲストハウスもつくった。これが現在、かなり好調らしい。ボウリング場とまんが喫茶の複合施設もオープンした。飲食とうカテゴリーだけが、中野の未来ではない。
「好きなところで、好きなことをやって、食っていく」。
これほどむずかしいことはないと思うが、その一方で、案外、真剣にやらないからできないだけのことかも知れないとも思った。そういう意味でいえば、中野は、先人ともいえる。「飲食店」を経営するもう一つの意味を知った気がする。
ともあれ、自由に生きる、中野の生き様に喝采を贈りたい。
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