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第407回 株式会社一真 代表取締役 吉原慎太郎氏
update 13/11/05
株式会社一真
吉原慎太郎氏
株式会社一真 代表取締役 吉原慎太郎氏
生年月日 1971年8月21日
プロフィール 小学生の頃から野球をはじめ、名門の横浜商業高校に進学。1年からレギュラーを獲得。プロのスカウトも注目する活躍ぶりだったが、3年時、ケガがもとで野球を断念。大学・ノンプロには進まず旅行関係の専門学校に進学する。専門学校では軟式野球部に入り、弱小チームを2年で全国3位に育てる。東芝に勤務したのち、ニュージーランドへ。大橋巨泉氏が経営する「オーケーギフトショッピング」でマネージャーを務め、業績を飛躍的に伸ばす。5年後に帰国し、蕎麦屋を経営する義父の跡を継ぐべく、蕎麦職人の修業を開始。現在、飯田橋と赤坂に「越後料理へぎそば 一真」を展開。5年以内の海外出店を目標としている。
主な業態 「一真」
企業HP http://hegisoba-isshin.co.jp/

野球と吉原。

小学生の時は4番打者。中学では2年からレギュラーとなり、1番打者を任される。高校野球の名門、横浜商業に入り、ふたたび1年の秋からレギュラーに抜擢された。町内の野球チームから始まった吉原の野球人生は、急角度の登り坂を猛烈なスピードでかけ上がるような人生だった。
「中学は公立だったんですが、とにかく強豪チームで、野球をするために進学する生徒もいたほどです。それから、横浜商業に進み、ふたたび野球漬けです。私1人が抜擢され、1年からレギュラー。プロのスカウトにも注目されていましたが、私自身はどこかで葛藤していたんです」。
とくに野球が好きだったわけではない、と吉原。好きじゃないから、練習もキライだった。それでも、才能に恵まれていたからだろう。どのチームに入っても先頭を走らされた。ところが。
「高校3年生の春の選抜の前にケガをしてしまいました。打球が足に当たり骨折です。ただ、足だけではなかったんです。腰も、肩も、もう限界だったんです」。1年からレギュラーに抜擢されたことがかえって、選手生命を縮めたのではないか、と分析する。期待値を裏返すように、吉原には猛練習が課せられたからだ。
「400人の選手がいて、グランドに入れるのはたった20人。みんな中学の時に注目されたような奴ばかり。幸い、私は1年目からレギュラーとして20人のなかに入るんですが、結果として、周りの仲間にねたまれ、また嫉妬されていました。ただ、3年間でからだがボロボロになったのも事実。そのなかには、横浜ベイスターズに1位指名された選手もいました」。
プロにいちばんちかい、そう思われていたとしても不思議ではない。ただ、本人は、「周りの期待に応えることだけで、野球をつづけていた」という。だれよりも野球というスポーツに愛されていた吉原は、野球というスポーツをそれほど好きになれない自分に戸惑っていたのではないか。
「いま思えば、後悔です。ケガをしたことではなく、もっと真剣に野球をして、もっと好きになっていれば良かったという意味で」。

ボロボロのチームを全国3位に。

一つの勲章だと思う。吉原の専門学校時代の話である。 「ノンプロにも、大学にも進む気がなくて、当時流行っていたTVドラマに触発され、観光の仕事に就きたいと、2年制の専門学校に進んだんです。もう野球をやるつもりはなかった。でも、入学してみたら専門学校なのに軟式ですが野球部があったんです(笑)。もちろん最初は、知らんプリを決め込んでいました。ところが先輩の1人が私のことを知っていて。1度でいいからグランドに来てくれと、毎日、毎日誘ってくるんです。根負けして、グランドに立ちました」。
それが、ふたたび白球を追いかける日々の始まりとなった。
「でも、所詮といってはなんですが、軟式だし、高校時代と比べると話にもなりません。成績はボロボロで、弱小チームの代表校みたいなもんだったんです。監督も素人でした。ただ、私は『やるからには、ちゃんとやろうよ』と。専門学校にも甲子園ではないですが、大会があって、優勝戦は東京ドームで行われることになっていたんです。それで、東京ドームをめざそう、と」。
練習メニューもすべて考えた。東京ドームへ。全員をおなじ方向に向けることにも苦労したはず。
だが、結局、みんな野球が好きだったのだろう。名門高校から進学してきた一流プレイヤーの投げる球、打つ球をみて、勇気と希望を得たはずだ。まだまだオレたちにもできると。
「正直に言いますと高校の時は、チームワークなんてない。オレが、オレが、です。でも、それぐらいでないと務まらない。ギスギスしていたし、嫉妬も、ねたみもすごかった。ところが、専門学校での経験はまるで違います。負け惜しみではなく、野球がこれほど楽しいもんだとはじめて知りました。いつの間にか、東京ドームが合言葉になって」。
チームを束ねた。監督の代行で、指揮も執った。エースをキャッチャーにするなど、改革も断行する。それでも、みんながついてきてくれた。東京ドームという目標もあったし、吉原にみんなみせられていたからだ。
結局、2年時の大会で、全国3位になる。「惜しかった。あと一つ勝っていれば東京ドームだったもんですから」。でも、それもいい、と話を聞いていてそう思った。なまじ目標が達成されるよりも、いい経験ができたのではないかと思ったからだ。あと一歩の悔しさは、勝利とは違った意味で、少年たちを成長させるからだ。
むろん、吉原の胸のなかにも一つの勲章が飾られたはずだ。

東芝経由、ニュージーランドへ。

「もともと父からプロ野球選手か、そうでなければ横浜でいちばん大きな工場を持っていた東芝へ入れと言われていたんです。東芝ということはノンプロですね。でも、私はどちらにもいかなかった、というかいけなかった。だけど、専門学校を卒業したあと、東芝にはちゃんと就職するんです」。
もちろん、野球ではない。専門学校に進んだときの思い通り、東芝のある部署で、社長や役員の国内の移動や海外視察などを担当するという、いっぷうかわった仕事に付く。社内における旅行代理店のようなものだろうか。
この業務に就いたこともまた、吉原の人生のターニングポイントとなる。
「海外視察ともなれば、1週間〜10日。社長や重役らといっしょです。私はまだ22歳の小僧だったんですが、そのぶんかわいがっていただいて。10年後の東芝はこうなるとか、これからはこういう社会になる、とか。いま思えばぜんぶその通りになっているから驚きですなんですが、そういうことを生で教えていただくことができたんです」。
凄い経験である。東芝は社会人野球の名門でもある。大会があれば、チームに同行したから監督とも、選手たちとも交流を深めることができた。プロ野球選手になった選手ともむろん交流がある。
そういうポジションで、薫風を受けた吉原は、8年後、いきなり東芝を辞め、海を渡る。行先はニュージーランド。すでに結婚していたからしぶる奥さまを何とか説得しての、海外だった。ちなみに奥さまは、専門時代の野球部のマネージャーである。
2人して飛行機に乗った。東芝という大きな組織から旅立つことにも似ていた。

ニュージーランドで得た自信。

28歳になっていた。重役たちからも、プロをめざす選手たちからも、刺激を受けた。これからの社会で生き残るためには、ちからがいる。そう考えた吉原は、ともかく英語だと、奥さまと2人してニュージーランドに旅立った。
「1年間はワーホリです。向こうで学校に通ったんですが、私は1ヵ月もたたないうちに、オーケーギフトショップという大橋巨泉さんがオーナーをされているお店にスカウトされてしまいました」。
この後、ニュージーランドでの生活は5年間におよぶのだが、その間、吉原は、このオーケーギフトショップで敏腕をふるうことになる。
「誘われて入店したとたん、店を閉めるかどうかという話を耳にしたからビックリです。それはないだろって。幸い、出資していた東急さんが下りるという話で、店は閉めないで済んだんですが、そういう話がでるぐらい業績は良くなかった。やがて私がマネージャーを任されて、販売スタイルをかえてから、業績が上向きます。それまで1000万円だった売上を1億円にしました。そうですね。大きな自信にもなりました。売上もそうですが、すべての記録を塗り替えることができましたから」。
ニュージーランドで店をだす、いつしかそれが目標になっていた。実際に、オープン寸前までこぎつけた。
「しかし、その時、法律がかわるんです。そう簡単に外国人に商売をさせないためです」。それでやむを得ず、日本に帰国する。吉原曰く、のどかで、争いもなく、時間が止まっている、そんな異国から、めまぐるしい日本への出発となった。最初、しぶっていた奥さまはすっかり向こうに馴染んでいたそうだ。帰国することも、しぶられていたのではないだろうか。

義父の、跡を継ぐために。

物価のちがいにたまげた。
「山手線に乗っただけでびっくりです。なんで、こんなに高いんだって(笑)」。
そんなとき、新潟でもいちばん大きな蕎麦屋を運営している義父が引退すると聞いた。ニュージーランドに残って会社を起業するか日本に戻ってそば屋を経営するか、悩むことになった。
「義兄は2人いたんですが、2人とも跡を継がないというんで、それならぼくにやらせてください、と手を挙げたんです」。義父が喜ばれたことはいうまでもない。ただ、吉原は、日本にもどったばかり。時差ボケどころか、日本のすべての時計についていけない。
「それで、日本に馴染むため大阪に本社のある化粧品会社の新潟支店に入社するんです。ここでいちばんになってから」。
そういうことでもしなければ、大事な店を継ぐ資格はないと考えたからでもある。
「最初は簡単に考えていたんです。マネジメント的な役割で、化粧品を売ってもらう。すぐにいちばんになる自信もあったんです。あったんですが。1年目はブービー。愕然としました(笑)」。
ちゃんと種は蒔いてきた。しかし、実をむすばない。「ところが、ある時を境に突然、売れ出すんです。実を結ぶまで、時間がかかったということでしょう。結局、3年間、勤めましたが、退職する時には、金沢支店の支店長にまで昇格していました。いちばんにももちろんなって、それでもういいだろうと退職しました。いよいよ蕎麦屋の跡取りになるべく、修業を開始します」。
28歳で海を渡り、5年で帰国。この化粧品会社で3年。36歳になっていた。化粧品会社ではストレスのため2回入院もしている。吉原は、簡単に振り返るが、死闘にも似た戦いだったに違いない。その結果、揺るぎない自信を手に入れた。
負けても、それでも前に進む。
蕎麦屋の修業も3年におよんだ。
そして、飯田橋に「越後料理へぎそば 一真」を開業した。義父の蕎麦を東京で、展開するためだ。そののち、赤坂にも2号店を開業する。飯田橋店がザ・蕎麦屋なら、2号店は蕎麦屋だが、割烹にちかい。接待にも使える。
最後に今後の目標も伺った。国内ではあと1店舗。それから海外。ということだった。なるほど吉原にうってつけの目標だと思った。
海外で「蕎麦」。日本からの赴任者はもちろんだが、現地の人も気に入ってくれるのではないか。まずはアメリカか、イギリスとのこと。
青い目の人たちが、蕎麦をすする。その音が、吉原の耳にはもう聞こえているのかもしれない。
海外へ。蕎麦屋の挑戦。まだ先の話だが、成功を祈りたい。

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