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第408回 Toshiro' s(トシローズ) シェフ 小西紀郎氏
update 13/11/12
Toshiro' s(トシローズ)
小西紀郎氏
Toshiro' s(トシローズ) シェフ 小西紀郎氏
生年月日 1953年7月11日
プロフィール 宮崎県西都市出身。1974年に渡秘、首都リマの「Matsuei」で働く。1989年、リマ旧市街にあるシェラトンホテルにレストラン「Toshiro's」を出店、2002年新市街サン・イシドロ区に店舗移転。2005年と2006年に、料理学会の世界的権威であるマドリッド・フュージョンに招聘される。2008年、南米大陸初となる農林水産大臣賞を受賞。2010年、スペイン政府の要請により上海万博に参加。同年、CIA料理学校(米カリフォルニア州)で行われた「食の国際フェスティバル」で、日本代表シェフの一員として講師の任を務めた。著書多数。ペルーでは大学で教鞭を取るほか、数々のテレビ番組にも出演。日本料理の技や素材の選び方、衛生管理などを通じて後進の育成に注力している。
主な業態 「Toshiro's」「mesa 18 by Toshiro」
企業HP http://www.toshiros.com/
http://www.mesa18restaurant.com/

恵まれた環境

小西紀郎の生家は、会席料理に定評のある割烹旅館だった。明治生まれの祖父が仕切るその厨房は、いつも緊張感に包まれていた。プロの世界だからと、祖父は仕事中職人以外の立ち入りを決して許さなかったが、休憩の際小西は隙を見て出入りし、さまざまな野菜や魚を目にしてきたという。子供のころから野菜洗いを手伝い、中学の時にはすでに賄い用の魚を洗ったり捌いたりしていた。「小遣い目当てだったけどね」と笑う小西だが、素材を選ぶ料理人の厳しい目は、こうして幼少のころから鍛えられてきたと言えるだろう。
また、プロの技を見る機会にも恵まれていた。「材料に火を加えたり、何かすることで変わっていくのが不思議だったし、見ていて面白かった」そんな小西が初めて自らの手で“調理”をしたのは6歳の頃。近所のおばあちゃんが作ってくれた土筆の煮物がすこぶる美味しく、もう一度食べたい一心から摘んだ土筆を煮てみたそうだ。子供は火を使うなと祖父に強く禁じられていたので、大人には黙っての挑戦だった。結果は、「ありゃ…不味かったな」袴を取るなどの下処理をしなかったため、舌触りが悪くなってしまったのだ。ただ、味付けに関しては、おばあちゃんの作業を見てきたので何が必要か理解していたという。醤油と味醂、酒、そして出汁。幼いながらも料理人としての片鱗が窺えるエピソードである。

旬を食べ、さまざまな味覚に触れる

「お袋の料理で覚えているのもとと言えば、まずはきびなごの煮付け。季節になるととにかく毎日出てきた。夏はニガウリの味噌煮ね。冬は切り干し大根。宮崎は切り干し大根が有名なんだよ」と、彼の思い出話には料理と季節が必ず対になって登場する。「昔は温室栽培なんてないから、旬のものを食べるのは当たり前だった。夏は採れたての胡瓜やトマト、とかね。俺たちの時代はそれが自然だったし、そもそもこれは日本料理の基本だよね」もぎたての野菜と強烈な日差し、茜色の夕陽に染まる干物の長い影。季節感の薄れた現在の「旬」とは異なり、小西の幼少期には、四季と共に生きてきた日本人の古き良き暮らしぶりが垣間見られる。
また、小西は「色んなものを食べさせてもらった」と昔を懐かしそうに振り返る。家族用だからと手抜きをせず、一流の素材を使って食卓を潤してくれた料理上手な母。人の味覚は5歳までに決まるというが、小西が育ったこうした環境は、母に貰った最高の贈り物と言えるだろう。

天性の度胸

子供の頃から目立ちたがり屋だった。モノマネや芸事が得意で、学芸会では必ず主役に選ばれた。また、詩吟の師範である母から受け継いだ歌の才能は正に玄人はだし。中学時代のバンドではリードギター兼ボーカルを担当し、後に上京してからも気が向けばギター片手に流しをしていたという。カントリー歌手の故ジミー時田に「お前、プロになる気はあるのか」と聞かれたこともあった。小西の朗々たる歌声はリマでもつとに有名で、ペルーで20年以上の歴史を誇るアンコン音楽コンクールの1978年大会で、堂々3位に入賞した実力の持ち主でもある。
とにかく大胆で度胸のある子供だった。「中学1年の時に台風が来てさ。みんな父兄が迎えに来るんだけど、うちは商売の家で親も忙しくて。だから俺は『どうせ濡れるんだったら』ってんで、海水パンツ一丁で下校したりね」「近所で飲み会があったりしたら、よく芸能人のモノマネなんかしては人を笑わせたね」こうした人好きのする性格は、今でもまったく変わっていない。

海外への憧れ

そんな小西が海外を強く意識したきっかけは、かつての少年誌「ボーイズライフ」だった。小学5年生の少年を魅了したその誌面には、レストラン紅花のロッキー青木やレーサーの生沢徹、プロボウラーの矢島純一、そして日本人初の闘牛士リカルド・ミツヤ・ヒガ(日系二世)といった、当時一世を風靡した日本人たちのサクセスストーリーがきらびやかに紹介されていた。海外で活躍するそんな日本人の話題が、この多感な少年に影響を与えないわけがない。
また、母方の祖父が農業技師として戦前米国に暮らしていたことがあった。写真に写る祖父の姿はたいへん凛々しく、格好良かった。身内の者が遠い異国の地にいたという事実は、小西に外国をより身近なものに感じさせた。
ところでこの話にはオチがある。写真を裏返すと、そこには『3000円損した記念』と書かれていたのだ。どうやら小西の祖父は、かの地で事業に失敗したらしい。その時の「己の顔」を後世に残すべく、記念に自画像を撮影したのだという。1930年代の3000円とは、どれほどの大金か。それでもなお清々しい面持で写真に納まるというその大胆かつウィットに富んだ行動は、痛快で実に面白い。小西の性格はどうやら母方から受け継がれたようである。

転機

祖父の背中を見て育った小西にとって、料理人は憧れの職業だった。一方、家族から特に「家を継げ」と言われることもなかったので、中学の頃は医者になりたいとも考えていた。成績優秀な小西は、将来は理系の道に進むつもりだった。
しかし、高校入学後の健康診断がその夢を打ち砕く。小西には先天性の色覚異常があったのだ。「実は、俺自身は分かっていたんだ。俺が“あ”に見えるのは“め”、“た”に見えるのは“こ”、だから“ほ”に見えるのは“ま”かもしれないってね。だいたい画数が多く見えるのよ。だから中学まではいつもカンで答えていた。ま、博打だね。それが高校の時に検査表の文字パターンが変わっちゃったもんだから、バレたんだ」
当然のことながら、周囲はこの診断結果に狼狽した。が、本人の反応は違った。「仕方がない、じゃあ次に行くか。」あっさり高校を中退した小西は、料理人の道を選んだのだ。自覚があったとはいえ、これまで抱いていた夢が潰えたショックはどれほどのものだったろう。しかし小西はさらりと言ってのける。「俺はね、物事を深く考えないんだよ。やればなんとかなる、動けはなんとかなるって思うんだ。だから悩まない。俺は反省はするけど、後悔はしたことがない。だから切り替えも早かった」

運命の出会い

高校中退後、小西の料理人としての修業が始まった。身内同士は甘くなるという思いから、祖父の知人の店に入る。「勉強させてもらうのだから」と、無給で鍋と皿を洗う日々が1年半続いた。しかしこうした経験は、小西にとって「苦労」には当たらないという。「料理人として勉強したり練習したりするのは当たり前。それは当然のことだ。もちろんやることはやるさ。俺は人に負けたくないからね。職人の世界ってのは、言葉は要らないんだよ。本物かどうかはやったらすぐ分かる。そのための勉強は当然。そんなもの、苦労とは言わない」
宮崎での下積みの後、18歳で上京。築地の割烹を経て新宿のカウンター割烹「ふみ」に板前として就職した小西は、ここで運命の出会いをする。相手は小西が親しみを込めて「まっちゃん」と呼ぶ、“NOBU”こと松久信幸氏だった。当時新宿の「松榮鮨」で寿司職人として働いていた松久氏が、仕事明けに立ち寄る店が「ふみ」だったのだ。カウンターを挟んだ二人の若き料理人が、料理や将来の夢の話に花を咲かせていたであろうことは想像に難くない。
そんなある日、松久氏がいきなり「ペルーに行く」と言いだした。「俺も行きたい」と即答する小西。その言葉が松久氏の心の底に残っていたのだろうか、1年後、小西の元に1本の国際電話が掛かってきた。「寿司だけでなく、日本料理も提供していきたい。日本の食文化をペルーにもっと広めていきたい。俺と一緒にやらないか。南米一の店を創らないか」松久氏の要請を受けた小西の決断は早かった。小西は海を越え、南米ペルーの首都リマへと向かった。
「ペルーに着いた時、まっちゃんが『好きなものを、好きな材料を使って作ってくれていいよ』って言ってくれたのが嬉しかった」と小西は語る。松久氏の小西への信頼が伺えるエピソードである。また「あの天才寿司職人から、寿司の握り方を直々に学べたのはラッキーだった」とも言う。魚の目利きには自信のあった小西だが、寿司の奥深さを学んだのはペルーに来てからだった。何度握ってもシャリは同じ量、口に入れた時にほろりと崩れるよう柔らかく、かといって摘まんだ時に崩れないようにしっかりと。時間を見つけてはおからやティッシュを使って握りの練習を続けた。もちろんこうした努力を本人は苦労とは思っていない。「今の俺があるのは、まっちゃんのおかげだね」小西は感謝の言葉をつぶやく。

独り立ち

二人の若き職人が互いに競い切磋琢磨する日々は、ある日突然終焉を迎えた。小西が慕う松久氏がペルーを去ることになったのだ。さて、これから自分はどうしたものか。振り返るとそこには28人の従業員がいた。「今ここで俺までこの店を離れたら、せっかく二人で育ててきたやつらがダメになってしまう」ペルーで“ペルー人の和食料理人”を育てようと決意した小西は、ペルーの食材をより深く理解するためのさらなる一歩を踏み出す。当地で獲れる魚を知るために、南北およそ2千4百キロにも及ぶペルーの海岸線を、5人の漁師とともに78日間かけて根こそぎ調べた。また、日本から持ち込んだ種を日系農家に蒔いてもらい、ペルーの土壌では何ができて何が育たないかを調べた。ペルーの海岸部からアンデス山脈、そしてアマゾンへと足を運び、「ペルーだからこそできる日本料理」を貪欲に追求していった。飽くなき挑戦者小西のこうした熱意と意欲は、いったいどこから湧いてくるのだろうか。

日本とペルー、文化の融合

こうして誕生したのが、「ペルビアン・フュージョン」だ。小西が提唱するこの新しいジャンルは、日本伝統の匠の技とペルーの豊かな食材を融合させ、互いの魅力を最大限に引き出すという発想に基づく。例えば、ペルーの代表料理である魚介のレモンマリネ、セビーチェ。ペルーの国民食とも称される料理だが、1970年代ごろまでは、レモン汁と塩で時間をかけしっかりと締めるものだったと言う。そのため、魚の身は固くせっかくの海の幸が台無し、というケースも少なくなかった。
そのセビーチェに日本料理の技を応用したのが、小西だった。切った魚をレモン汁と塩で締めるのは食べる直前、さらに混ぜる工程で魚の温度が上がらないよう2〜3片の氷を加える。こうして0〜5度に保たれた切り身は魚本来の味や舌触りが活かされ、これまでとはまったく違う新しいセビーチェに仕上がった。ペルー料理の歴史にはなかったこの斬新なテクニックを、今ではリマの有名店の多くが踏襲している。
「フュージョンっていっても、何でもかんでも混ぜりゃいいってもんじゃない。互いの国の文化を学んでこそ、初めて融合することができるんだよ。男と女も同じでしょ?互いを知らないで無理強いしたら、それは犯罪ってもんだ。結婚して幸せになりたかったら、お互いをよく知ることだね」単純明快な例えだが、それを実践できる料理人が果たしてどれくらいいるだろうか。「見てくれの技ではなく、その歴史や文化から勉強しろ」小西は最近の安易なフュージョンブームに警鐘を鳴らす。

恩返し

現在、小西の下にはペルーの一流シェフたちが教えを乞いにやってくる。もちろんペルー伝統の料理はいずれも美味しく、世界に誇れるものだ。しかし魚の目利きやその扱い、捌き方などは日本のそれとはまったく異り、こと食品衛生の観念に至っては次元の違いすら感じられる。ペルーグルメが脚光を浴びる中、世界でもトップレベルの日本料理の技や知識を惜しみなく披露してくれる小西を慕う者は多い。ペルー料理界の重鎮ガストン・アクリオや、ミシュランでペルー人シェフとして初めての星を獲得したビルヒリオ・マルティネスもその一人だ。
「俺はゴールじゃない。後世の人が俺の知識や経験を参考にしてくれればいい」「他人の庭先を借りて種を蒔いてるんだから、美しい花を咲かせなきゃだめだ。そしてその後はいい肥やしになる。それが俺を受け入れてくれたペルーへの恩返しだよ」
小西は今、自分の持つさまざまな知識や経験を広く伝えるため、書籍の執筆を始めさまざまな活動に取り組んでいる。

思い出のアルバム
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小西紀郎、生後85日目 祖父との思い出 小学校1年生
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妹といっしょに ペルー「Matsuei」にて ペルー「Matsuei」にて
 

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