株式会社麦 代表取締役 野口満理子氏 | |
生年月日 | 1954年3月26日 |
プロフィール | 栃木県日光市に生まれる。高校卒業後、日光を離れフェリス女学院短期 大学に進学。同短期大学卒業後、「トヨタプリティ」として社会人の一歩を踏み出す。3年間、同職種を務め、23歳から1年間、南米ペルーへ。帰国後、「高橋圭三プロダクション」に入り、TVにも出演。「オレたちひょうきん族」のオープニング・ナレーションを務めるなどしたのち、「野口伊織氏」と運命の出会いを果たす。その伊織氏は、58 歳で他界。夫の意志を受け継ぎ、夫が大好きだった店、人を譲り受けて、野口の「飲食人生」がスタートする。それは吉祥寺の物語をつむぐ仕事のスタートでもあった。 |
主な業態 | 「FUNKY」「SOMETIME」「OUT BACK」「OLD CROW」「LEMON DROP」他 |
企業HP | http://www.sometime.co.jp/ |
高校1年生の時、豪華客船に乗りハワイへ向かった。
小学館が開催した「ハワイの高校生たちとの交流イベント」に応募し、選ばれたからだ。全国から同様に選ばれた「中・高生20人」が同乗者だ。
「雑誌でイベントを知って、これだって思って応募したんです」と野口。
もう、半世紀以上も前の話。栃木県の日光で育った野口は、ハワイでの出来事よりも先に、「同乗した同年代の女の子が口紅を上手にひいていることにカルチャーショックを受けた」という。
「港まで母と弟が見送りにきてくれて。何本もの色とりどりのテープが投げ下ろされて。汽笛が鳴って、ゆっくりと船が動き出しました」と出航時の話をしてくれた。
「それは、それはたのしかったですよ」と野口は微笑む。
いまよりも、いろいろな意味で、ずっと遠かった異国の地の出来事は、船旅の日々も含めて、高校1年生の野口にとっては、すべてが新鮮で未知の体験だったはず。ただ、その体験を通し、未来のトビラがすぐそばにあることもまた知ったはずだ。
「別に秀才だったわけではない」と野口はいう。だが、小さい頃から作文を書いては、いつも賞を獲っていた。本を読むのが好きな文学少女で、時に物語のヒロインになり、「私だったら」というようなことを想像して、新たな物語をつむぎ楽しんでいたそうだ。
障害物競走、とくにハードルが得意った。「ぴょんぴょんはねるように走っていたから」といって笑う。
兄弟は2人。4つ下に弟がいる。
ご両親が、年がとった時の子。そういうこともあって過保護と言っていいぐらい甘やかされたそう。その影響だろうか、きかん気のつよい子どもに育った。
「一度ね、まだ私が小さい頃です。庭で遊んでいたら、ふいに父が来て私をダッコして家のなかに入ったんです。それが気に入らなかったんでしょうね。私は、もう一度庭に下りて、ジブンの足で家に上がったんです(笑)」。
小さな頃から「自我がめざめていた」という言い方もできる。本の話をきくと、幼少期から「ジブンの世界観」を持っていたと言うこともできる。
どちらかといえば、後者のほうが感覚的にはちかい気がする。少女には、少女の大事な世界があったのだ。たぶん、何事につけても…。
ところで、父は、大手企業のサラリーマン。日光に住んでいたのは社宅があったからで、その社宅には、さまざまなポストにつく社員の家族が住んでいた。野口の父が要職に就いていたこともあって、学校では少しばかり浮いていたそうだ。
子どもたちは、結構、大人たちの事情に敏感だ。逆に言えば、野口は、そうした周りの子どもたちの気持ちを敏感にとらえていたのではないか。
野口は、「父の前でも泣いたことがない」という。
涙をみせない子どもだったのは、少女時代の彼女を取り巻く環境を野口なりに理解していたからかもしれない。それが、少女の「自立心」を促したといっても、あながち間違いではないだろう。
ともかく、鼻っ柱がつよく、気丈な少女だった。
日光のなかで、自然とともに暮らしていた気丈な少女が「親許を離れよう」と決心したのは、冒頭のハワイ旅行の影響が大きい。
都会を知ったことで、いままで意識の外にあった「田舎」という言葉が、少女のなかで、暗澹とした色彩を帯びるようになったからだ。
高校を卒業すると、新たな、たぶん少女にとってきらびやかな世界に身を投じるかのように野口は横浜の短期大学に進学する。
「当時はね。四大という選択がなかなかできない時代だったんですよ」。
たしかに当時の企業の採用担当者は、「四大の女子は使いにくい」と口をそろえていた記憶がある。
ところで、当時は親もまた娘に対し、社会のなかで自立することを望んでいなかった。「女性は結婚し家庭に入る」ことが、適正な幸せのモデルだった時代である。野口の父も、一般の父同様に、それを望んでいたのだろう。「言い出したら聞かないから」といいつつ、横浜行きは許したものの、管理のきびしい「厳格な寮」に入ることを条件の一つに挙げている。
「門限が20時だったから、東京に出たら夕方には帰りの電車に乗らなければならなかったの」と野口。それでも、行動半径は広がった。さまざまな先進的な女性たちとも出会った。口もとには、もう上手に口紅がひかれていたはずだ。
ところで、野口には小さい頃からひとつの目標があった。「ナスカの地上絵」を観ることだ。大人になったら観に行こう! 小さな胸を膨らませて、そう考えていた。社会にでるということは、ナスカの地上絵を観に行くことと、同義だった。
「短大を卒業して、1年契約で『トヨタプリティ』となり、トヨタのモーターショーなどで仕事を始めます。ナスカに行ってみたかったから1年契約がちょうどよかったんです。でも、結局2年…、そのあともレイランドに行ったから合計3年ですね。3年間、この仕事をつづけました」。
「レイランド」とは英国車メーカーで、名車「ジャガー」などを製造・販売している会社である。彼女が社会人3年目になったとき、三井物産と、このレイランドの間で英国車を日本で販売するための合併会社「日本レイランド」が誕生する。
野口は、社会人3年目から1年間、この「日本レイランド」で勤務している。
「ジャガー」の横に立ち、「ジャガー」という車を語るのが、彼女の仕事だった。
「この時ですね。ナレーションの教育を担当くださった方が、元アナウンサーで。普通ならマニュアルがあって、それを読むのが私たちの仕事なんですが、この時はシナリオがなくって。代わりに『ジブンの言葉』で表現しなさいって、教わったんです。私にとっては、とてもいい経験でした」。
「ジブンの言葉」で語ること。小さな頃から作文が得意で「ジブンの物語」をつむいで、あきなかった野口にとって、それは、大好きな「自己表現」にほかならなかったに違いない。
彼女のイキイキした姿に、引き込まれたお客様も少なくないはずだ。
親許を離れ、すっかり自立した少女の、成長した姿がそこにあった。
社会人となり3年が過ぎた。それでもまだ、23歳である。
23歳、野口は念願の「ナスカの地上絵」を観るために、ふたたび日本を離れた。
「ナスカの地上絵」は、ペルーの南海岸地方の、北から南へ走る丘陵と、東方のアンデス山脈の麓との間にある。
「地上で観たら何がなんだか、ぜんぜんわからない。上空からしか観えないものを古代人は、どういう理由で描いたんでしょうね」。
わざわざ、現地の大学にも入ってスペイン語も勉強した。親には1ヵ月と言っていたが、確信犯である。1年間、滞在し、インカ・マヤ文明をたずね歩いた。
「お腹をこわしたりする人も多いんですが、私は大丈夫でした。1人でしたが、精神的にもまいることなく(笑)、時間があったので、ピラミッドのうえで人生を振り返ったりもしていました」。
改めて振り返った人生は、「あみだくじ」のようにつながっていた。
いま、ペルーにいることもまた、「あみだくじ」を進むことによって予め決まっていたかもしれない。そう思うと、神秘なチカラの存在も認めたくなったそうだ。
1年間、ペルーで過ごしたのち、帰国する。神秘なチカラ、もしくは「あみだくじ」の方向は、今度は、なにを野口にさせようとしているのだろうか。
「日本レイランドで一緒だった友人が、TVの仕事をしていたんです。彼女とお食事をしていた時に、『ねぇ、満理子さん。いま高橋圭三さんのプロダクションが新人を募集しているの。うけてみなさいよ』っていうんですね。『そんなの無理、無理』って、いってたんですが、結局、応募して合格してしまうんです。それからTVの仕事をするようになって、そう10年間、この世界で、仕事をしていました」。
「高橋圭三」とは元NHKのアナウンサーで、アナウンサーとしてはじめてフリーになった人でもある。のちには参議院議員ともなっている。氏のプロダクションに入社し、いろんな番組を担当した。ブラウン管にもたびたび登場している。
「昔、『オレたちひょうきん族』っていう、ビートたけしさんの番組があったんです。あの番組の最初に流れる1分間のオープニング・ナレーションも担当しました。『土曜の夜に、独りTVを観ている年下の男の子に響くセクシーなナレーション』というオーダーでした(笑)。ナレーションを自由に考えられるんですから、私にとって楽しくないわけはありません」。
あっ、という間に10年が過ぎた。
というか、10年で終止符を打つことになる。「野口伊織」という1人の男性と出会ったからだ。
新鮮な出会いだった。
「ある日、高橋圭三さんのプロダクションを受けるように勧めてくれた彼女といっしょに食事をすることになって。テーブルについたときに、『実はもう1人くるんだけど、いいでしょ』って彼女がいうんです」。
そこにやってきたのが、12歳も年がうえの野口伊織氏だった。「あの当時のおじさんって、みんな人生はかくあるべき、っていう話をするんです。でも、伊織さんはぜんぜん違って。一回りも年下の私たちの話にも好奇心旺盛に『なにそれ?』って。へぇ、こういうおじさんもいるんだって、というのが最初の印象でした(笑)」。
この時の新鮮な印象が、いつのまにか、この人といっしょに、という思いに進化した。
結婚。
彼女の「あみだくじ」は、伊織氏につながっていた。
「彼はね、お店をつくるのがだ〜い好きだったんです」、そう野口が語るように夫、伊織氏は、吉祥寺に「ファンキー」「サムタイム」「西洋乞食」「赤毛とそばかす」といった、ジャズ喫茶の名店を次々と生み出した人である。
当時、サブカルチャーの先陣を切っていた吉祥寺という街のなか、伊織氏はリーダー的な存在だったに違いない。
いまや吉祥寺の伝説的な人となっている。
その伊織氏は、57歳で他界する。
平成13年、脳腫瘍で余命1年の宣告を受けた。そして、闘病生活。
野口は伊織氏に尽くす一方で、伊織氏が育ててきたいくつもの名店を受け継ぐ決意をする。
「どんなことが起こっても、これ以上の苦しみはない。だから、伊織さんの思いを受け継いでいこうと決意したんです」。
野口は1つの誓いを立てた。
<お店を絶対に潰さない>と。それが、いわば野口の「飲食人生」の始まりといえる。もっとも彼女の場合、「飲食」というカテゴリーだけでは語れない。
伊織氏の意志を受け継いだ彼女は、吉祥寺という街が持つカルチャーに一つの方向性を示すミッションも、引き継いだと思うからだ。
それが、楽しいのか、どうかはわからない。それは残された妻の務めだと、そう思っているかもしれないからである。
スタッフを集め、「伊織さんは、復帰できない」と告げた。「でも、安心して…」。野口自身が、もっとも不安な心境だったはずだ。それでも、店を潰さないと決めた以上、伊織氏のためたに、だれよりもつよがらなければならなかった。
子どもの頃から、人に涙をみせなかった野口は、この時もまたひたすら涙を隠しつづけたのだろう。
「おかげで、辞める人はほとんどいませんでした。給料とかそういう物質的なことではなく、伊織さんという人間とみんながつながっていたことを改めて証明できた気もします」。
伊織氏、亡き後も業績は落ち込むことなく推移する。それは、伊織氏の思いをスタッフ全員が受け継いだ証でもあったのだろう。
もちろん、それ以来も、さまざまなことがあった。泣く泣く従業員に辞めてもらったこともあった。
それでも、彼女は前を向く。伊織氏のやり残したことを一つひとつ実現していくために。いつのまにか、彼女は、伊織氏の年を越え、伊織氏同様、吉祥寺にとってなくてはならない人となっている。
そしていまも吉祥寺という街で、一つの物語をつむいでいる。文学少女は、つよい大人になった。彼女の「あみだくじ」は、まだつづいている。
余談だが、昭和から平成にかけ、女性の社会的な立ち位置はずいぶんかわった。「自立」という言葉が、最適な気もするが、その一方で男性の目線が相対的に下がったとも言い換えることができる。つまり、女性は生存本能のまま、つよくならざるを得なかったのではないだろうか。
そんな女性たちに、野口という1人の女性はどう映るのだろう。時代の先端的なステージで、奔放なままに生きた1人の女性は、野口伊織氏という1人の男性と出会ったことで、「共生」という生き方を選択する。異性からみても、なんと素敵な生き方だろう。
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